[未校訂]八幡神社奉納板書
宝永四年津浪の記
聞ならく当社の草創は鎌倉尼公政をしろしめす比牟岐の主
某は奈良の生まれになん有りしさるから古京の神を勧請し
て今の神主八乙女これが礼のとをつ親供奉し侍るといへり
しかはあれと時移り代久しくてくはしからねは
しらぬ昔月にやとはん宮所
今の社は元亀二年に牟岐兵庫介虎房再興し侍り(委有棟
桁)其後阿淡の太守御修覆遊しき万字の御紋棟木に彫付る
事此時より寛文と元禄の年中には氏子等破壊を補ふしかる
に宝永亥の年初冬四日未の刻大地震振て人皆肝を冷し魂も
消なんとすかゝる時は必津浪の災ありといひ伝え古き書に
も見へしか果して刻を隔す静なる海原忽騒て洪波怒かこと
く東西の浦里を過て仏閣民家七百余宇流れ失せ老若男女百
拾余人溺れ死す神主阿部丹治義成波を侵神殿に走りて尊影
をもり奉り辛うじて後の岳に上る社は潮にひかれて遙の沖
に出る事二たひ三度遂に寄来りて境内に留る挙て神威を信
し徳光を仰き国の君に訴へ神林の樹木を賜て宝永七寅の年
に修造し侍る
依寸志不願愚衆
飯田正悦書
正徳元辛卯歳仲秋望日
満徳寺記録杉尾神社津浪記(原漢文)
抑も当社、来由を尋ぬるに建立已往、其代幾世なるか詳な
らず、♠に宝永四亥十月四日未刻土地震ひ起って即時震汐
沸く事高山の如し、当郷民家十五、六宇、津浪の為流失
す、然りと雖も社壇、水際を去る一丈三四尺、一宇の社も
安穏にして流れず、神慮の加護恐るべく貴む可し、其比内
妻の庄、石ケ平を波の限りと為す、後人に之を伝へんが為
に、故老の所望に依り筆を加ふる者也、今の社床は氏子相
談にて新に地盤を構ふ也
寛保三亥九月吉日
惣村中