[未校訂][碑文|ひぶん]
[余熊野海辺|よくまのかいへん]の長嶋といふ所に遊びしに、仏光寺といふ[禅宗|ぜんしう]
の寺あり。其寺に石碑あり。[碑面|ひめん]に[津浪流死塔|つなみりゆうしたふ]と[題|だい]せり。
[裏|うら]に[手跡|しゆせき]も俗様にて、文も俗に聞えやすく、宝永四年丁亥十
月四日未刻大[地震|ぢしん]して、津波よせきたり、長嶋の町家近在
皆々[潮溢|うしほあふ]れ、流死のものおびたゞし。以後大地震の時は、
其心得して、山上へも[逃登|にげのぼ]るべき様との文なり。いと[実体|じつてい]
にて、[殊勝|しゆしやう]のものなり。誠に此碑のごときは、後世を[救|すく]ふ
べき[仁慈有益|じんじうゑき]の碑といふべしとなり。漢文にては益少かり
ぬべし。諸国にて碑をも多くみつれども、長嶋の碑のごと
きはめづらしく、いと殊勝に覚えし。其津浪の事、其あた
りにてたづねしに、あまりふるき事にてもなければ、語り
伝へて今におそれあへり。それより段々浦々にて尋るに、
浪よせたりし浦もあり、又さのみ高くのぼり来らざる[湊|みなと]も
あり。同じ南面の熊野の浦にて、かく[違|ちが]ひあるはいかなる
ゆへぞと[其地理|そのちり]を考ふるに、[幅狭|はゞせま]く海の入込たる、常々に
勝手よしといふ湊は、皆其時津浪来りて、人家皆々流れた
り。海の[幅|はゞ]広く常々は舟のかゝりあしく、しかと湊ともい
ひがたきほどの所は、其時津浪高からず、人家流るゝほど
の事はあらざりしとなり。されば海幅狭くふかく入こみ
て、つね〴〵舟がゝりよく、風のおそれもなしといふべき
湊は、別して大[地震|ぢしん]の時は用心すべき事にこそ。大雨後の
[洪水|こうずい]又は山津浪なども、山ちかくの地に多ぎものにて、大
坂などのごとき四方皆川々多く、つね〴〵も水[危|あやふ]きやうな
る土地には、洪水のうれへはかへつてなきものなり。四方
へ水のさばけよきゆへ、[激怒|げきど]のいきほひなき成べし。大海
よりよせ来る津浪も[亦是|またこれ]に同じと見へたり。すべて津浪は
一[旦|たん][沖|おき]のかたへ[俄|にはか]に[潮引|うしほ][去|さ]りて後、其返し大に[登|のぼ]り来るも
のとぞ。宝永の津なみも、一たん海水ことの外に引[去|さ]り、
つね〴〵見えざりつる[海底|かいてい]の岩などまであらはれぬれば、
海辺のもの皆々あな珍らしと見物に出たるに、しばらくの
間に沖より大浪よせ来りて、[逃|にぐ]べく間もなくて流れうせぬ
るもの多かりしといへり。西国の[求麻|くま]川にても、大雨の
後、川水俄に[干|ひ]て河原となりたるを、不思議の事珍らしと
見物に出て、大水川上より俄に押来り、流れ死せることあ
り。これは洪水にて、川上の山[崩|くづ]れ、川中へ落[埋|うづま]りて、[暫|しばら]
くは川水をせき留けるが、やがてせき[破|やぶ]れて大水俄に落来
りしなりしとぞ。されば海も川も、不時にゆへなくして俄
に水引[去|さ]るは、跡にて大水必来る事ありと、用心すべき事
なり。