[未校訂](紀州熊野大泊観音堂略縁起)
一奥熊野大泊村比音山清水寺は人皇五十一代平城天皇の御
宇坂上田村将軍御建立本尊は一寸八分の千手観音永代(ママ)泌
仏にて御座候事。但前仏御正体御長ケ一尺二寸の千手座
像木仏。
是れは応永の比右観音堂炎焼仕り其以後の再像にて御
座候処去る亥の大地震に御手其外揺り落し損傷仕り候得
共私無力に付再興も得仕不申候。
清の滝 観音堂より三町余にして翠巒重層雲際に聳ゆる
所に清の滝懸下す。高さ四十丈幅六七間大泊川に注ぐ。二
町ばかりを隔てゝ眺望するを絶勝とす。滝壼は彼の大地震
の際岩石転落して埋め今は之を見る能はず。
(都司注)清の滝の記事は木仏の記事の半ページ後に記
されているのでここに言う「彼の大地震」を「亥の年」
すなわち宝永四年の大地震と解してここに掲げること
にした。しかしこの「彼の大地震」という表記が「読
者にとっても最も周知の大地震」という風に理解する
なら清の滝の記事に言う「大地震」とは安政東海地震
をさすことになる。いずれが正しいか不明。
民俗誌 新鹿村
宝永四年寅(ママ)ノ十月四日四ツ時大地震続イテ海嘯アリ。河
水、井等ノ水ハ勿論甕ノ水マデ全ク涸レ土地ハ五尺通リ揺
レ上リ、間モナク大海嘯浪先ハ植地ノ下ノ溝限リ(今ノ天
理教屋敷)及堰ノ元迄届キタル由。