[未校訂]宝永海嘯ノ記
宝永四丁亥十月四日晴天化日に異り例ならす温なる日也、
午の中刻俄ニ震動大地を動し古き家ハゆりつぶすべくも見
へ稀(カ)り外へ戸板又ハ畳やうの物取出し地震ゆりさげん事を
恐れて其上に並ミ居皆々肝をひやし只神仏の御力を祈ル計
り也、古き土蔵ハ土壁を落しけハしき山ハ崩れ落野の鹿、
林の禽犬猫迄も驚き騒ぎ物すさまじき有様たとへんに物な
し、半時程して地震漸く止ミ諸の漁船も驚き帰る沖の模様
を尋るに何とやらんすさましき気色のよし漁人の物語り聞
にものうく人々又沖のミに気を付け詠居たる、其内半時ほ
ど過る浪打側も何とやらん颯々と物すさまじく水の色も赤
土をこねたるごとくに見ゆる、中にも賢老人是ハ昔より聞
及たる津浪とやらんが来るにて有らんと云出る、夫より我
先きにと逃出し中井本町筋より後を見かへれば半町も後よ
り只ぐハらぐハらはらはらと鳴渡り空ハすゝのけむりにて
黒雲の落たる様に見ゆる、それよりいよいよ息を限りに中
村山を心かけ逃のび後を見かへせばはや在中海となりて汐
のさし引大川の早き水の行よりもすさまし其間に家蔵は桴
と成る、早き汐のさしひきも一時ほとしてやミ本のごとく
陸となれり、中村より逃のびたる人を見れば纔ならでハ見
へず人々声々に是ハ世の滅ルにてぞ有らん我も人も此上と
もに助るものハ壱人も有まじと只なく計にて其夜ははしば
しの残り家或ハ守屋其外山野にて夜を明し、夫より親兄弟
一家親類をたつね合、其時逃のびさるハ石材木に打れ或ひ
ハ水に溺れて死す、沖へ引流されたるも一両日の間に余ほ
ど助り、かへる見ざるハ方々死骸をたづね葬る、尾鷲五ケ
村にて老若男女死人千余人と書記ス其外旅人の死する数は
不知則(測の誤カ)、間誠の麓に千人塚と申あり是ハ尋る
人なき死人、かたち見分ケかたき死人を大なる穴をほり一
所に葬る。潮のあがりたる限りハ
西ハ今御目附屋敷の前まて
北ハ川筋之通坂場の後迄金剛寺堂へ汐二三尺上ル庫裡ハ
半分ねぢ切ル
南の方家拾軒ほど残り林浦助九郎屋敷迄にて留り
今町ハ六太夫家半分残り浪先ハ垣の内伝八屋しき迄行
堀ハ町留り迄野地ハ下横町六分通り流る敷右衛門家ハ残
り其外ハ不残流れ行其夜中地震不絶少々ツゝゆる
夫より其年中ハ毎日毎夜地震と高浪の有様成し也故ニ後世
の為に是を書残ス者也
享保十四年己酉十月四日
小河嘉兵衛冝忠三十五歳書之
拾参歳之時高浪ニ逢今年二十三回ニ当ル
或人問テ曰地震高浪亦末世にも可有也何ノ故を以テケ様成
ル大変記ル(ママ)、答テ曰昔もありといへども書残ス人少ければ
知ル人稀也、今日にも末世にも可有ト謂有り易ニ曰風入
地中地震スト有り又漢書五行志下之上ニ伯陽甫々曰ク陽
伏而不能出ル、陰□不能逃於テ是ニ地震ス或書記ニ曰大地
震而裂山ヲ崩人家ヲ此時大海已ニ傾テ盆ノ如淘々高浪
記ル(ママ)とあり既ニ慶長、延宝、元禄之頃も地震高浪有りトい
へども人家を流シたる程の事も無之然れハ陰陽之変気積少
くして大変をなす高浪ハ海底の水涌出て其気発する所なき
故也、例よりも高く成て津々湊々へさし込それより陸に揚
ル、大地震なる時にて必ず高浪ありと心得其一郷不残言イ
合地形高キ所を目当として逃のひ身命を全リする時ハ陰陽
不順にて縦令如何様之大変に逢といへども満てハ闕ケ闕ケ
てハ満るの道理を以天運循環し陰陽和合して又順にかへる
也、其時ハ五穀豊饒にして士農工商ともにそれそれの家業
を失はずして早ク業に取懸り不怠務ル時ハ一旦家財不残流
失にをよぶといへども各得其所又本のごとく成事無疑天
は開てより以来生々し尽ル期なし、地震高浪大風大雨雷此
類陰陽不順なれば必ス起ル兼て可有ものと心得其期に望て
驚キ騒ク事なかれ為其是を書残スもの也
又曰ク同年同月二十六日より富士山の東の方焼る其響大
筒を打がごとく何国ともなく此辺まても相聞ゆ富士近辺長
子(銚子カ)まで灰砂ふり四五日の間ハ昼夜の分チなく焼
出しより焼仕旦まて日数廿日ほとの間也其時富士の東の方
に山八歩目程に小山吹出る則其名を宝永山と名付ク其謂ハ
宝永年中の事なればなり
于時元文四年己未十月四日
亡父同妹三十三回偉辰
採筆於南紀熊野尾鷲浦
小河嘉兵衛冝忠四十五歳
察者曰ク嘉兵衛妹ハ宝永四年十月四日海嘯ノ際父嘉兵衛
ト共ニ死ス法号「驚夢童女」ナリ