[未校訂]享保十一年安乗村指出帳に宝永地震の被害を次のように報
告している。
一安乗村之義、廿年以前、津波以後、村囲、石垣並ニ田
畑囲、波ニ而節々被打破、難義仕候ニ付、修繕仕候
処、別而近年度々ニ及、百姓共、居屋敷囲、方便ニ尽
き申候而、先祖より之屋敷を捨、立退申体と罷成申候
ニ付、段々村立難く難義至極ニ奉存候、去春右阿セ山
之小松当分冥加金差上、以後ハ山年貢ニ而、被為下置
候ハバ、是ハ立成木仕候而囲杭ニ仕、村相続仕候様ニ
仕度御願申上候
宝永の津波により安乗村の字「里」は堤防が何カ所も破ら
れ、里の住民は立退きを余儀なくされ、修理に必要な杭木
用の松を阿瀬山で伐り、堤を修繕したと書いている。また
里の堤防用の土砂は八幡宮山の土を使ったと伝えられてい
る。
国府村の井村文書には「宝永四年十月四日八ツ刻、地震
の後、国府浜の沖、油瀬まで潮がひき、後に津波が、上手
は字「井合」より、下手は「ガンナ橋」より押し寄せ、瀬
田橋で両方の波が打ち合い、潰家六軒、死人一人、けが人
多数あり、五日間は村中、山にこもり、人家は床より一尺
五寸ほど浸水。この年は夫米は御赦免となり、被害田畑は
五年間年貢米はゆるされた。また国府の浜より富士山(宝
永山)の爆発が見えた」
と、当時の模様を書き残
している。
宝永津波田地被害反別
村別被害反別
鵜方村25町5反8畝26歩
神明浦村6709
立神村43923
甲賀村1622
国府村72520
計455220
別表のように各村の海
つき新田はことごとく津
波の被害をうけ、ことに
鵜方村の前浦新田は堤防
が決壊し、宝永七年まで
放置されていたが、大庄屋小村武太夫の尽力により、堤長
八町四十八間の堤普請を国府村兵左衛門に請け負わせ、再
開発に成功している。しかし大脇新田、立神石淵の金平新
田は再開発に失敗し「長荒れ」となった。両堤防の跡は現
在も残っている。この再開発失敗の原因は地震後、地盤沈
下によるものか、高潮が続いたのか、神明浦村指出帳に次
のように訴えている。
「是ハ拾弐年前、亥ノ十月津波ニ而堤破損仕候ニ付、翌年
子之春より段々堤普請仕候得共高潮故、成就不仕候ニ付、
御公儀様江指上ケ申度ト作人共、奉願候ニ付、其段五年以
前、午ノ年ニ以書付、御願申上候得ハ、永荒ニ被仰付、年
々御免定ニ御引被下候」とあり、藩から再開発についての
きびしい指示にもかかわらず、堤普請の不成功を裏付けて
いる。
宝永四年の津波の際、この山(○カラ山)の松も藩から伐
採の下命があったが、この松林は入津船の目標であり、ま
た名吉(ぼら)の魚付林であるから、二尺廻り以上の松は
伐らないでほしいと藩に訴え、許可されたので、その後は
山番をつけ、大切に育てていると報告している。
享保三年の甲賀村指出帳に、
一、壱ケ所 並木松原
右松木之儀ハ田畑波除ケ、潮風除ケニ植松仕、大切之
場所ニ御座候、拾弐ケ年以前、津波ニ而、間々倒木枯
木申候ニ付、段々うえ置仕候、先々代様より御伐被遊
候儀無御座候御事
この松原は現在の阿児の松原のことである。
立神村
享保十一年の立神村指出帳の中に「一ケ所河原山、此山之
内、百姓共寄合、堤、川除、為破損、植申候松少々御座候
処、弐拾弐年(宝永二年)以前酉年、前方浦新田ニ望申候
節、御願申上杭木ニ申請不残伐申候」とあり、前方はこの
年まで六反ほどであったが、この年に八反余開発している
から、現在の前方耕地の中ほどに堤防を築いたものと思わ
れる。また翌年、阿鎌の新田開発は終っている。しかし宝
永四年、安政元年の津波により立神の新田堤は大半が破壊
された。
神明村
新田開発を現存の古文書で見ると、江戸時代初期まで一四
町余りの田地であったが、元禄年間の新田開発奨励時代に
字大方、才庭、昌禅寺浦、[後|うしろ]などが開発された。いずれも
大規模な開発はなく、加えて宝永、安政の津波で新田の大
部分は荒地となっていた。このため鵜方村への出作が多
く、嘉永七年には七町六反五畝に及んでいる。