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項目 内容
ID J0900297
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1707/10/28
和暦 宝永四年十月四日
綱文 宝永四年十月四日(一七〇七・一〇・二八)〔東海以西至九州〕
書名 〔四日市市史〕○三重県▽
本文
[未校訂]東漸寺
中組町に在り、承応二年三月再建したるも、宝永四年の大
地震にて破壊したといふから、現在の本堂は其の後の再建
である。
午改浜新田畑
今字午改通称午起と称する地。面積田弐町八反壱畝壱歩半、
畑壱町五反八畝九歩、合計四町参反九畝拾歩半、高四拾壱
石七斗壱升八合。元禄十五年(一七〇二)起す。(石原改)
古新川の外同年に五反五畝廿七歩の御見取場と称するもの
が開拓せられた。之を見取場の初とする。然るに該新田及
び見取場は宝永四年(一七〇七)十月四日大地震のため海
となったが、後漸次之を起すこと左の如くであった。
延享四年(一七四七)壱町参歩見取場と成る。
宝暦三年(一七五三)右見取場弐町四畝歩となる。
明和四年(一七六七)右見取場にて見取米五斗増加す。
後更に見取米壱斗五升増加す。
明和六年先に見取場にて海となった五反五畝廿七歩の荒
地再び見取場となる。
以上新田総反別参拾四町参反参畝拾壱歩半、高参百拾九
石八斗八升七合である。
午高入新田
今思案橋北詰の西及び東並に北納屋町東堀川沿岸及び稲葉
町の一部等である。何れも元禄十五年初めて見取場となっ
た地。当時面積五反五畝廿七歩、後宝永四年大地震にて荒
地となり、明和六年再び見取場となりし所、弘化三年(一
八四六)多羅尾久右衛門検地にて高入となる。其の面積最
初より少しく減じて五反四畝拾弐歩、高参石六斗七升弐合。
昌栄新田
 此の地が斯く再三所有者の移動したのは宝永四年の大地
震の被害を始め、屢次の風水害に因る維持困難の然らしめ
た所である。而して此間屢屢区域及面積の異動があった。
出典 新収日本地震史料 第3巻 別巻
ページ 277
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 三重
市区町村 四日市【参考】歴史的行政区域データセットβ版でみる

版面画像(東京大学地震研究所図書室所蔵)

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