[未校訂]伊賀上野市史稿 大地震之事
(注、〔永保記事略〕二七九頁と重複する所は略す)
○大震にて愛宕町、田端町にて家弐拾軒潰れ候事
仏光寺流死塔碑文伝記 宝永四年十月四日正午 東海・畿
内・東山・南海・西海に大震あり、土佐の如きは潮高
拾間潰家二、二〇〇死者四、九〇〇と云う。
南北牟婁内では大泊、古泊、新鹿、遊木、二木島、曾
根、賀田、尾鷲、長島に津浪来り、木ノ本、井戸、有
馬、市木、阿田和には不来にして大泊人家不残、流死
者七八、新鹿も不残、二四人流死、曾根は在所半分流
失人は無難のよし(反古の綴)長島城、人家数千新町
本町あり、仏光寺の流死塔は宝永の地震津浪に多くの
流死漂没数千人(碑面五百余人)の碑を立つ、この時
の尾鷲の被害は流死千人余也と一説には五百余とも云
われる。
仏光寺津浪流死塔碑文
宝永四丁亥歳十月四日未上刻大地震直津浪入在中不(残カ)死
流失其上五百余人流死仕候自今以後大地震時者覚悟可
有事
仏光寺諸住職伝記 この地震と仏光寺との由来あり
一仏光寺諸住職伝記中に四世別伝芳禅に関し
宝永丁亥輪篆総持是冬十月四日熊野沿海有地震海溢之
変長島則溺死者五百有余人常光大殿亦為之傾斜師憂之
相謀総持執事借百金郵贈長島窮民受為猶大早得淋雨也
とあり当時に施を受けたのは漁民が主であったのか以後
返済の意で漁高の一部を寺に納める事としてきた、明治
大正の時代までもこの納金の事を「イツポウセン」と称
した
二仏光寺歴代諸住師伝記十世貫山祖通に関して
(前略)
母撫其背語日憶起宝永四丁五甫八才是歳十月斯地有地
震海溢之変乳母負五逃于仏光寺北門門輒仆吾興(与カ)乳母皆
被塡圧為後数日寺主使夫扶起門材材底微有悲泣声恠発
材則肢体尚幸無恙衆皆以為仏助也爾来常思所以報為而
来果今方有汝告是吾素願成立之状至笑也(下略)
以上二つの伝記あり、この時の流死人は地蔵町の西、俗
に“アンノ”と呼ばれる所に多く葬られた。“アンノ”
とは現在の西小学校の老松のある所で此所の傍に庵を立
てた、これが熊化庵であり、これも昔の位置より大分鉄
道線路よりに移つている。
飯南郡西黒部検地帳 大地震西蓮寺本堂、庫裡、土蔵其他
大破せられ、同六年再建(西蓮寺記録)又此時検地洲の
高須新田堤防高浪のため欠潰田面五町歩荒場となる
鵜倉村調書 午刻大地震ありて後高浪漲り起り当浦家屋多
数流失せり此時の被害次の如し
流失家屋 百四十七戸
溺死者 五十八名
漁船 二十三艘
網類 三百十三帖
米 百五十八俵
麦 百七十一俵
其他諸道具等流失せり。
神戸平原郷土史 大地震 塩浜村福寺倒壊鐘破。