[未校訂](前文略)
又浜名郡角、比古神の社大湖を見のぞむ。此湖に一口の開
塞あり、是則ち神の守のなしたもふ事として名神大に祭り
給ふ。文徳の正記(文徳実録十巻物)まへにしるせり。然
るゆへに湊の開塞を守り給ふ神とて人よんで湊大明神とい
へり。これ角避比古の神と知るべし。
一説に角避彦神社開塞を守給ふ神なりとあり、然則ハ今
橋本の上下の社なるべし。昔は水海大海の流口松山の東
より流出しと云説あれば、極めて上下の明神の社と見へ
たり。又浜名郡猪之鼻の社あり。此社号によって考ふれ
ば、此神は水海の峯の上に鎮座とみえたり、今聞くに八
王子の社もと浜辺の岡の上に有りしを、宝永五年(百十四
代東山院御宇)戊子三月より六月迄、当所引越これある
に付て、社をも遷しの時、諏訪の社中今の所に移せりと
いへり。然れは八王子は若し猪鼻湖の社にはあらずや、
且又諏訪の事にもあらすや、世の中うつりゆけは古名を
うしなひ、悪敷き名を呼ふことまゝ有ることなり。
宝永四歳丁亥十月四日午ノ下刻、大地震津浪にて五畿内東
海道大浪打、人多死す。当国本坂往来諸人専ら有之。
明歳子ノ三月より六月廿五日迄、荒井引越有之、吉田の御
城主牧野大学様家中土肥孫兵衛殿東福寺に宿。