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項目 内容
ID J0900217
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1707/10/28
和暦 宝永四年十月四日
綱文 宝永四年十月四日(一七〇七・一〇・二八)〔東海以西至九州〕
書名 〔横須賀根元歴代明鑑〕○静岡県▽「遠江資料集」
本文
[未校訂]○天和二年戌年西尾隠岐守忠成公、二万五千石にて信州小
諸より御国替にて御引越被成候、前本多殿は五万石にて御
家中多く、今遍光寺内外皆中小姓屋敷にて小性町と云、其
奥を中丁と云、又西大谷不動下に本多大膳殿は四千五百石
にて住居被成御家敷并に御家中有之番町も南北共に両側其
外南丁御組屋敷山畔丁御組屋敷両側づつ有、石津御家中も
南側西尾隠岐守様御代に至って段々に御潰し被遊田地に成
る御小身故也、越前守殿より隠岐守様へ御引渡の絵図を見
るに、御城の前は入海にて並木の下石がけは波打、西は石
津御家中の南裏通入江にて塩浜有之、三輪堤より撰要寺門
前迄入江也、誠に要害堅固の名城なりしに宝永四亥年大地
震にてゆり上げ段々入海浅くなり、港も塞がり御城前は葭
原となりそろそろと新田を発き今は石津裏川迄新田とな
る。寔に淵は瀬となる飛鳥川とは此事ならん、天正頃甲州
武田勝頼遠州横須賀へ出馬して沖之須村に陣を取る。横須
賀にては家康公三社の山に御陣被成、大須賀五郎左衛門甲
州勢へ被向江を隠れて鉄砲の迫合有しと云、然れとも勝頼
江を渡らず引返し高天神城へ□□□□駿州へ帰りしとすれ
ば、其頃は沖之須裏は大きなる江と見え□□□田地と成て
深田も有、越前守御代には田町裏に馬場有しに今は田地と
成、今丸池新田とも云も宝永の頃迄は大き成池の由、是も
地震にてゆり上げ新田と成、河内守殿御代迄は下紙川河原
崎え流れ丸池え落候由此代に掘替田町を通し申由。
宝永 大地震、富士大焼此時宝永山出来す。
出典 新収日本地震史料 第3巻 別巻
ページ 189
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 静岡
市区町村 横須賀【参考】歴史的行政区域データセットβ版でみる

版面画像(東京大学地震研究所図書室所蔵)

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