[未校訂]宝永四年松平遠江守の在城の時、十月四日諸国に大地震が
あり遠江の国は特に激しく掛川の駅家は一軒残らず転倒
し、御城の櫓その他、御家中、町屋共に非常に大きな被害
を受けた。この地震の後、城郭修復の工事に用いられた松
平家の九耀星の紋の入った屋根瓦が多く用いられていた事
を掛川誌が伝えている。
城代記に「宝永四年亥十月四日大地震御矢倉其外家夥敷破
損」とあり城郭の修復が行われ在城六年一七一一(正徳
元)年摂津尼ケ崎に移封され、武蔵岩槻より小笠原氏が六
万石で入封壱岐守長熙、山城守長庸、能登守長恭と三代四
五年在城一七四六(延享三)年陸奥棚倉に転ぜられた。
天守の丸御門、天守の丸東南にあり
正保城絵図に見られる当初は楼門造りの櫓門であった。南
面し門扉の上に庇屋根を設けその上に漆喰壁塗籠造りの門
櫓を載せ格子窓を設けて門前の本丸より天守の丸に至る登
り坂と本丸に対し掃射が可能で左右に櫓台石垣が積まれ
東・東南・西の三方に矢狭間埤が続いていた。宝永の地震
で倒壊したものと見え小笠原侯時代の図には四足門として
描かれその後修復され安政地震以前は長屋造りの渡櫓門と
して描かれていた。