[未校訂](前文略)戦国当時南方一帯は入海で、横順賀港として船
の出入が多く、この港を姥が懐と呼んでいた。即ち風猛く
浪荒い時でもその港に入れば、丁度赤児が姥の懐に抱かれ
た様に静かだったのでこの名が付けられた。
其の後、宝永四年の大地震によって地面が隆起して港をな
していた入江が丘となり、現在の様に田甫となったのであ
る。
横須賀港
室町時代以前から横須賀城附近は入江になって姥ケ懐と呼
ばれ、弁財天川が注流していた。築城後は南遠唯一の波静
かな良港であった。
宝永四年、十三代城主西尾隠岐守忠成の時、宝永山噴火に
伴う大地震の為地盤が隆起して、港口が塞り尚安政元年の
地震の災もあって港としての用を果さなくなった。入江は
沼地湿地と変り、遂に耕地と化した。
港として最も繁昌したのは元禄年間である。当時回漕問屋
として、巨商と謳われた来家多七は横須賀港を本拠として
活躍し、江戸小舟町に出店を置き、北は北海道松前から、
西は九州筑紫にかけて交易した。石材なども扱った。現在
町内清水家の林泉は来家多七の庭園であった。小谷田の撰
要寺入口に有る釈迦の大石像は来家多七の寄進によるもの
で、その傍に来家氏の墓がある。
松尾町
城の表道路沿いに家並が出来、城地の松尾山の名を取って
町名となった。入江が無くなってからのこととて歴史は浅
い。
(中略)
清箇谷
横須賀城の西北に当り、この村の西及び南は昔入海であっ
て、当時船舶が風をのがれて出入りしたものであるが、宝
永の大地震後、現在の様に沼田となり良田と化した。
昔は里人の一部は塩焼く海人であったという。その頃山
谷の間に潮さして石花貝が磯辺に多かったのでその名が広
まって、寛永三年に地名となり清箇谷と名つく。
又、里人の一部は陶窯業で暮しを立てていた故陶(すえ)
ケ谷の地名という説もある。
(中略)
沖之須
大昔この村の周辺は海で州が今の様になって村が出来たも
のと思う。この地は昔から戸数が多く田圃が少くて魚漁や
船匠を業とする人が多かった。
(中略)東大谷川と西大谷川が大雨の都度土石を流出して
川を塞ぎ、宝永の大地震に依って土地の隆起に伴い、今は
三俣川の面影さえも残っていない。
今沢
横須賀港の港口で、弁財天川、坊子淵川の川口に当る。宝
永四年の大地震の時海浅くなって入海も消え附近は田甫と
変った。
当時はこの川口より船は入江に入り、城門前迄、或は小谷
田・浦ケ谷に乗り込むことが出来た。
十三代城主西尾忠成は港口の塞ったのを嘆きこの地の前よ
り在って当時頽廃していた八大竜王弁財天の社を建立し
て、港口が開けるように祈願した。