[未校訂]予其老母は昔大地震せし時の様を覚えしやと尋ねしに、老
嫗の曰く、老婦より年三つ四つまさりし嫗の話にはそれが
し幼かりし頃は大地震にて七日ばかりは、日夜となくひた
ゆりにゆりて、藪にのみうづくまりゐたりしといふ。より
て旧記を考ふるに、横須賀の地震は宝永四年十月朔日未の
刻よりゆり始めしという。この姥文化二乙丑年百才は宝永
三年の生れにして、それに三四まさりぬるからは、地震ふ
りし頃は五六にてもあらんかし、いかにも其頃の様おしは
かられいとおそろし又予の知る所の浜松藩の老人のいひし
は、其人の父なる常々の物語に、井上公横須賀をしろし召
され石津という所に居たりしが、其居宅のせどより十六七
歩先は直様江浪うち寄せ、手舟に掉さして投網など持ち行
き江中を漁撈すれば、魚蝦の獲物夥しかりしとなん、これ
等にても其頃の様知らるるなり。
横須賀の地昔は国々の船共ここに船がかりせる大湊ありて
いと賑はへる里なる由にて、今も昔の掟残りて市中に示さ
せ給ふ御条目にも他国の船ながくつなぐべからずなどかか
せ給ふ、制札御条目内に、
一港に長く船をかけ置く輩あらば、仔細をところの者に相
尋ね、日和次第早々出帆いたすべし、其上にも令難渋ば
何方の船と承届け、其浦々の代官地頭へ急度申すべく達
事、其余の御条目略す。
寛文七年閏二月十八日
されば正しく古の様を思ふに足りぬべし、之によりてここ
ろの年月を多重ぬきて、今は其後さへさだかには知れず、
正徳五年に描きたる国図を見るに、今の今沢村と中新田と
の門、弁財天の川筋より御城前を西へ裏川までおし廻して
の入江と見えたり、宝永の頃地震夥くありしにより、此湊
のやをら浅くなりしか、蒼海変して桑田となり今は天地も
良田ならざるはなし、今の石津といふ所は江の面を横様に
さしいで、其後へひき廻して入江のありしより横須賀と名
も呼びなししなるべし、総てここらあたりの方言に砂原を
すかといふより、横にさしいでたる砂原なれば横須賀とは
云ふなるべし、白須賀掛須賀大須賀蜂須賀等いふも同じ心
と思はるなり。