[未校訂]この地震で吉原宿では多くの半壊家屋を出した。
いっぽう、この頃における岩本村に関係のある潤井川の
堤防を見ると、これについては宝永四年(一七〇七)の
「駿州富士郡岩本村潤井川通堤書上帳」(山崎文書)によ
って見るとつぎのようになっていた。この書上帳は宝永
四年一〇月四日、五日の両日この地を襲った激しい地震
で堤防の何カ所かが崩れたので、その復旧工事に関係して
提出されたものであった。
駿州富士郡岩本村潤井川通堤書上帳
一堤長五百弐拾四間
敷三間半
但シ 馬踏七尺五寸 二ケ所
高七尺五寸
右は当月四日、五日之地震ニ而崩潤井川岩本田場江押入
申候、前々御入用ニ而堤出来候場所ニ而御座候
一長百五拾間
敷二間弐尺
但堀土手共堀坪
高五尺
是ハ岩本用水潤井川 辻畑堀 前々御入用ニ而被為仰付
候場所 此度之地震ニ而堤堀崩押込申候
一長拾四間
横四尺
但シ 石坪
高九尺
是は右堀筋前々御入用ニ而被仰付候場所 此度之地震ニ
而崩落申候 石堰ヲ以不仕候而ハ堪不申候 石坪壱坪拾
人程掛可申候 右之通用水之儀ニ御座候間御入用を以早
々被為仰付候様奉願上候 以上
宝永四年亥十月
岩本村
割本 又治右衛門㊞
〃 与右衛門㊞
名主 茂左衛門㊞
〃 治左衛門㊞
〃 六郎右衛門㊞
〃 安左衛門㊞
〃 孫左衛門㊞
年寄 次郎右衛門㊞
〃 伝兵衛㊞
〃 治郎兵衛㊞
とあるのである。
八幡信仰と村の人々
「駿州富士郡下方庄小木里、賀嶋郷横割村八幡宮之御事、
古今申伝候荒増書記候覚」という書き出しで水戸中納言綱
繁卿の家臣、横割村住人の伊藤十郎兵衛尉正勝という藩士
が宝永六年(一七〇九)に書き記したと言われる覚書(以
前は横割八幡社に納められてあったが、その後笹山十兵衛
氏のところに保管されていると伝えられている)が「加島
沿革誌」(神社仏閣)の部に収録されているので、次にそ
れを転載して置くことにしたい。
(覚書前文略)
就中去宝永四年十月四日五日両日之大地震、隣郷不残屋
体潰、人馬辛命助候得共、当村は人家一軒潰不申、怪我
無之候事。偏産神之御神徳存候。然所同年自十一月廿三
日十二月九日迄、富士山焼立、震動雷電無止事、方一里
之火煙天上、富士山焼崩、村里忽大地之底埋哉。肝魂失之
砌、氏子一同此八幡奉祈誓候所、石砂降不申、暗闇入
不申。日数十七日而焼静所安穏罷成候事。諸人奉難有
思。当村住人伊藤十郎兵衛尉正勝(私云、水戸中納言綱繁
卿家臣於水戸恩地村附三百石被宛行。当職足軽大将勤、
一ヶ月之内四ケ月江戸勤。八ヶ月当所休息ス)此趣吉田之
御神職奉告知事願。当村領主石川四郎左衛門尉政常以添
状。宝永六(大歳己丑)之四月、伊藤宇右衛門尉吉田殿
為指登候処、神慮之新事忽達叡聞。以宣旨正一位八
幡宮之御綸旨並宣命一通御幣帛。右三種御宝納附、以猶天
下泰平、国土安穏、所繁栄之霊神奉仰乎。
于時宝永第六大歳己丑五月廿四日(傍点筆者)