[未校訂](前略)
然処ニ亥の十月四日昼四つ時、大地震致し、[殊|こと]に富士山
・富士郡強く揺り申候と聞候、其節ふじ山は[不断止事|ふだんやむこと]な
く揺り候と承り候処に、冬霜月廿二・三日、大地震可
仕と風聞致し申候付、世間人々地震小屋かけ、廿日時分
より小屋に罷有り候、地震はゆり[繁|しげ]く、同廿二・三日た
へずゆり、廿三日五つ強くゆり候、然処に、西の方より
石[礫|つぶて]ふり下り[震動雷電|しんどうらいでん]しきりにして、天地もくらやミ[計|ばか]
りなり、さる砂前は御私領、砂降後は御[料所|りようしよ]に罷成、伊
奈半左衛門様御支配相極り、御扶持可被下筈にて、日
本諸大名・旗本衆迄砂金とて高百石ニ付金弐両宛御[当|あて]
被遊候と、風聴御座候ヘバ、方々へ逃散りし人は皆我
村々へ罷帰り、其家々の人をへらし、馬并諸道具[抔|など]売払
申候、作場無之候(上)故ハ、残る人の喰ものたくわへ候様
に仕候、[扨|さて]又貧賤之ものハ、近国罷出、[稼|かせぎ]仕、間々にハ
在所へ帰り候もあり、又々先々に住居も極め申候もあ
り、又は皆々砂少々宛もとりのけはじめ、川辺かけばた
砂をかき抔し、毎日砂のけ候ヘバ、思之外ニ弐坪・三坪
程づゝも日重候へて、さゑん(菜園)仕、或は芋少々づゝもつく
り申候、夫より場所よき所ハ、壱反ニ付金三両・五両に
て受砂かきのけ申候、砂降りより金銀貸引[取遣|とりやり]一切無
之、只金子[貯|たくわ]へ候者[計|はかり]少々宛わりて五畝・壱反づゝも砂
をのけ申候、
五十八ケ村へ砂降申候、段々江戸御奉行御見分被遊、
御改之上右之内三十九ケ村深砂と御わけ被遊此村々
へは子の春より惣扶壱人ニ付米壱合づつ男女隔なく丑之
暮迄弐年分被下置候(以下噴火の記事につき省略)