[未校訂]なか六年おいて宝永四年(一七〇七)の願書「口上覚」に
は、
大手門[外艮|うしとら]ノ方石垣一ヵ所、本丸子(北)ノ方多門台石垣一カ
所、丑(北北東)ノ方石垣一ヵ所、艮ノ方櫓多門台石垣折り廻わし一
ヵ所、二之丸[乾|いぬい]方二ノ門左右石垣二ヵ所、丑(北北東)の方侍屋敷角
石垣一ヵ所、三之丸亥(北北西)ノ方三ノ門脇石垣一ヵ所計八ヵ所が孕んだり崩れかけたりしたというものであった。藩主忠虎
はそれにつけて
信濃国高島城石垣破損修覆絵図面をもって願い奉り候通り
御座候、且つまた大手櫓門一ヵ所並びに本丸門左之脇多門
一ヵ所、只今までのし葺きにて御座候、末々勝手にもよく
御座候間こけら葺きに仕りたく存じ奉り候、此段窺い奉り
候御指図遊ばされ下さるべく候 以上
十一月七日 諏訪安芸守
と願い出て、その九日付けで許可がきた。いかにも早い処理
だった。