[未校訂] 寛延四年四月廿五日八ツ時強震があり七ツ時又強震、廿
六日昼夜度々の微震があり、其より五月七八日頃迄微震が
つゞいた。此地震の震源地は、越後高田附近今町辺の地盤
陥落した所に在つたやうである。今其当時の日記を記して
参考とする。
高田にてハ町家大方揺り潰し、其上二三ヶ処より火事起
り焼け申候由、御城内も余程家潰れ、御城にても高塀倒
れ石垣崩れ申候由。今町は不残家潰れ地も余程裂け砂
泥おし出し候由。加賀道筋有間川と申す宿は、山押出し
不残其所無御座候由、往来の飛脚物語被成候、殊更
人馬は不残死し、かたちも無御座候由、此節飯山牟礼
之辺も家屋余程潰れ、少々人死も有之候由、高田にては
家五千軒程潰れ、亭主之死するもの八百人、其外子供家
来の死人委しく相知れ不申候由
此地震は松代あたりも強震の被害があり、松代城の石垣
土手塀等の崩壊した所尠なからず、町家三軒の倒潰れもあ
った程であった。(問屋日記)