[未校訂]6 宝暦の大地震
直江津の災害は昔からいろいろありますが、[笘屋|とまや]文書
「谷沢永続記」の中の地震の記録に、寛延四未年(一七五
一)すなわち宝暦元年と改元
一、四月二十五日八ツ時(午前二時)大地震につき、頸
城郡御役所にて御改覚に死人九百五十二人、けが人三百二
十二人、死馬二百二十五疋、[潰家|つぶれや](全倒壊)四千八百六十
六軒、半潰七千六百九十四軒、[怪我|けが]馬百五十一疋、潰寺百
五十五ヶ寺、半潰八十一ヶ寺、神社十二ヶ所、御蔵三十二
ヶ所。
右は高田、荒井(新井)川浦(三和村)、馬正面(柿崎
町)の御役所にて御改めかくのごとし。………略
四月二十五日地震の前々より妙高山大いに鳴り響き、光
り物出て五智の方へ飛び、虫生郷津の山[崩|くず]れ、海へ五十丁
余り押出し六月九日まで地震百二十八度[震|ふる]い、それより八
月三日に中位の地震。九月二十六日まで数度震い、それよ
り地震相止まり、西浜の内居多村より名立まで往来(道
路)御普請仰付けられ、四月二十六日より十一月まで馬足
相留り、江戸表より御普請役八人御越、十一月まで御逗留
御入用金二千両西浜道御普請にて下し置かれ候とあり。其
節当家の控に
一、四月二十五日八ツ時大地震につき大地一二尺、又は
所により五六尺ばかりも相割れ、水吹出し井戸水三四尺ば
かり上へ吹出し申し候。町内中の者残らず砂山へ逃げ登
る。大肝煎(今の市長にあたる)は町中へ相廻る。……略
頸城郡のうちすべて出火十四五ヶ所相見え申し候、夜明
けまでそうじて震止す。二十六日明け時にいたって少々人
心にも成り申し候へども、家潰れ、穀物など売買これな
く、もっとも二十六日昼頃までは食事も致さず、まかり在
り候の所、時分柄入船の之有(ママ)の節故、船により食(食物)
相送り申し候。とかく時を移さず震い候につき、行末生死
のほどもはかりがたく存じ候につき念仏の声のみ。生きた
心地これ無く候。
また榊原文書の「西浜通の変地」から抜き書きします
と。
一岩戸村地内より虫生村地内五十丁ほど家数十四軒、人
数九十人余りの内六軒は山の下になり、死人十二人牛
七疋、船九艘山の下になる、[潰家|つぶれや]八軒
一虫生村家十五軒、人数九十七人の内五十五人家共山の
下になる。死骸一人もいでず、吉右衛門と申す者家共
に八丁ほど海へ押出す、[宵|よい]より寝入り居る心地にて潮
に入り候てようやく気付き泳ぎ上る、もっとも家内残
らず死す。家数十五軒、船十四艘、牛六疋、猫一疋山
の下になる。
一長浜村家数七十軒、内二十六軒潰家、十二軒半潰、人
は無事。
一有間川村家数四十軒の内五軒は山の下になる、残りは
潰家、人数二百七十人の内五十八人は死す。但し喜右
衛門と申す者の家は川端より山の中腹へ飛び上る、人
は助かり、又右衛門と申す者はいづ方へとも飛び知れ
ず、大町筋より五月十七日までに七人掘出す。
一四月二十五日夜は兼ねて所々家々潰れ、同二十七日夜
は川上に溜り候水、一度に満水して村の下は新川にな
る。東の方八十間余新山が出来る。川より東の方山の
下の畑は仕付けならず、下より四丁ほど上へ畑共に飛
上る、有間川より二十丁ほど上桑取村より山腹に十丁
ほど抜け出る。これによって、たたへ水一度に流れ出
し、川切れ新川になり、もっとも川は山になる。
丹原村、鍋ヶ浦村、吉浦村、茶屋ヶ原村の北陸往来は
抜け落ち、崩れ切れ、人馬通行[絶|た]つ。
なお斎京家の記録に部落死亡数として東吉尾二十人、西
吉尾二十八人、横山二十三人、其の他十二人とあります。
現在の名立駅の南側の山地の大崩れは、断層地震として
当時の惨状を偲ぶことができます。また五智の光源寺、居
多神社はこの宝暦の地震により、かつて北陸往来の海岸に
あったのですが、その後今の地に移転したものです。