Logo地震史料集テキストデータベース

西暦、綱文、書名から同じものの一覧にリンクします。

前IDの記事 次IDの記事

項目 内容
ID J0803377
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1751/05/21
和暦 寛延四年四月二十六日
綱文 宝暦元年四月二十六日(一七五一・五・二一)〔高田・越後西部〕
書名 〔越後府中地方史研究〕
本文
[未校訂] 元来直江津の湊は自然の入海でもなく、風上には何等の
障壁を持たない丸裸体の湊であります。河川を以て唯一の
条件とする湊でありますが、其河川も、水量豊かに常に満
水している大川ではありません。同じ河口港湾としても新
潟の信濃川に比較して遙に劣っているのであります。而も
荒川、保倉川共に上流の沙泥を運ぶこと夥しく、河口を埋
めてしまうために容易ならぬ苦心の在る所であります。加
うるに日本海の波濤狂瀾のため、或は豪雨による荒川保倉
川の氾濫の為の川欠、或は寛文、宝暦年間の大地震のため
幾度か港口が変遷したこともあるのであります。(注1)
 殊に宝暦元年の地震は直江津湊の致命約天災でありまし
た。即ち此の災害の為「川筋狂い湊口浅せ殆んど艀(ママ)、下舟
の出入さへ困難になった」程附近一帯の地形が変ったと云
われます。
 この結果港修築には町民の力を以ては如何とも成し難く
遂に幕府に申請して国役普請を仰ぐの余儀なきに至りまし
た。明和八年九月廿七日、代官小笠原友衛門が幕府の命に
より実地見分の為来港し至徳寺地内御館川落口より湊口ま
で見分致しました。其の時の問答書はよく当時の港の有様
を写していますから、左に掲げます。(注2)
差上申一札之事
一今町湊あせ候て諸国船出入不自由に罷成候儀は如何
の訳に候や
此段関川保倉川之落合にて御座候処関川通段々瀬
向悪敷罷成至徳寺地内畑場へ夥敷欠込、夫より下
今町船繫場之内へ委く欠込、先年よりは川幅多分
に広く罷成水勢甚弱く罷成候に付土砂押埋年々風
波の模様によって湊川口相変じ候故自然とあせ候
て諸廻船出入不自由に罷成候
一中略
一何時頃迄は御城米船諸船共に何百石位之廻船出入致
候哉当時は何百石積立之廻船出入相成候哉御尋ねに
御座候
此段先年松平越後守様御領分の節には千石積以上の船
も入船仕候得共近年に至り段々瀬向悪敷相成当時は二
百石位之船も出入仕兼候
以上いずれも去宝暦元大地震にて変地仕候故に御座候
(以下略)
猶港口の深さに就いては別に左の答申書があります。
先年迄は八、九尺も有之候処別紙申上候通り去る未年
大地震以来変地仕漸湊口五尺位[雪代|ゆきしろ]時分六七尺にも相
成候へども一体湊口極り不申候間一夜之内にも土砂
押埋川床附替り諸廻船共別而難儀仕り自然と入津少く
罷成候
 右二通の答申書によって大体湊の状況が判ったでしょ
う。松平越後守(光長)時代には湊もよく千石船も入港し
たと書いてあるが、それは寛文五年の大地震前のことで以
て如何に地震の災害の甚だしかったか想像ができましょ
う。
 こうした地震や川欠等の被害は幾度か国役普請を以て修
築しましたが、北海の暴風や河川の氾濫のため幾もなく瓦
解し、自然の猛威には容易に抗し難く港の不良を[喞|かこ]ちつつ
諸廻船は沖懸りをなし荷役を為して来たのであります。
 かゝる自然的条件の悪い湊を持ちながら、港町の名を堕
さず栄えた所以は一に御城米、御蔵米の江戸、大阪への廻
米があったからだと私は深く考えているのであります。築
港に就ては「直江津湊築港史」に於て詳しく述べてありま
す。
注1・2 福永家文書
次に宝暦の大地震に就いて今町大肝煎福永十三郎の手記を
掲げます。
四月二十五日夜八ツ時大地震ニ付潰屋死人其上大地一
二尺又ハ所ニヨリ五、六尺斗リ相割レ水噴出シ、井戸
水三、四尺斗ツゝ上ニ吹出シ為ニ町内一、二尺水湛へ、
依之津波ノ由ニテ町中ノ者不残砂山へ迯登ル、大肝煎
モ町中へ廻ル諸人取付歎願事筆紙ニ尽難候頸城郡ニテ
出火十五ヶ所相見エ申候、夜明ヶ迄惣テ震止マス其日
明ヶ時ニ至リ少々人心地ニモ成候ヘドモ居家潰レ穀物
等売買無之尤其日昼頃迄ハ食事モ不致罷在候処時折入
船有之故船ニヨリ食物相送申候、震ヒ止マズ候ニ付
行末生死ノ程モ難斗存候ニ付念仏ノ声ノミ人心地ハ無
之候諸人元気衰へ候ニ付御宮ニテ火盗ノ祈禱申付候右
祈禱札ハ砂山へ立テ置洗米ハ町中へ配候其後諸々方々
ニテ右火盗祭礼有之御宣託等有之候ニ付今町ニテモ五
月二十一日祭礼仕候
而して地震の被害については
直江津今町
一、潰家 三二一軒 一、半潰家 三八四軒
一、無難 一六五軒 一、潰土蔵 二〇程
一、寺院 九ヶ寺 一、死者 四十七人
内男二十四人
有名な西頸城の名立崩が起ったのも此時で、全村埋没し生
残ったもの三人であったのを見ても海岸地帯の地変が甚だ
しかったか判ります。(中村慶三郎「名立小泊村の震災復
興」)
 宝暦元年四月廿五日八ツ時、突如として起った地震は頸
城地方に於ても如何にその災害の甚だしかったか左に示す
記録によって明らかであります。
【高田藩及荒井、川浦、馬正面代官所調査綜合】
一、死人 一、九五二人
一、怪我人 三二〇人
一、死馬 二二五匹
一、潰家 四、八六六軒
一、半潰 七、六九四軒
一、潰寺 一五五ヶ寺
一、潰神社 一二社
右の如き惨状に対し幕府は高田藩へ救済資金として金壱万
両を貸付けました。
話は少しく前後致しますが曩に元禄享保年代の今町湊の築
港は如何なる程度か詳しくは判りませんが、北越の良港と
して其面目を保つに不足はなかったのであります。即ち
「福永家文書」に
先年湊口も深く御廻米船之儀も百五六十石より千石位
迄多分入津仕候故湊も賑合候に付夫々渡世仕候
とあるを見ても想像するに難くはありません。然るに幾
ぞ知らん宝暦の大震災は忽ち今町の港口を崩壊し、町民を
乱離塗炭の苦に陥れたのであります。今町より提出した
「湊口修覆願書」の一節に
宝暦元未年大地震にて変地仕湊口悪敷罷成殊に関川
之儀 春日新田の方へ附淵出来仕川瀬至而不宜、至徳
寺地内より今町地内へ欠寄御見分 被成下候通り田畑
夥敷損地出来 此上捨置候ては亡所可仕既に今町之儀
は家下迄欠込漸く一二尺寄候へは所々より家崩れ不申
候ては難相成 右体川筋附替り候故水行悪敷罷成 別
而湊口あせては御廻米船も湊内に懸候儀難成 三四十
町沖に船懸仕積荷申候……当湊へ心懸に御座候船も外
湊へ入津仕候様罷成候ては自然と湊衰微可仕候……
(福永家文書)
 と頻りに其窮状を訴えたのでありますが当時榊原藩は播
州姫路より転封して間もなく又地方の実状にも暗く、剰へ
藩の財政困難の極にありましたので、今町湊に対し何ら為
す手段もなかったのであります。斯くして空しく十数年は
経過致しました。
 里方の町役人となるに及んでは今町湊の浮沈に関する此
難局を看過する筈はありません。烱眼なる彼は榊原藩恃む
に足らざるを知り而して此大工事は一町一郡の財力を以て
しては到底成就し得ざるを思い愈々♠に幕府に訴えて国役
普請を請願したのであります。
 然るに幕府も当時多端なる折柄此の北辺の一小港を顧る
遑がなかったのであります。里方は不屈不撓幾度か同じ運
動を起し幕府要路の人を動かして遂に所期の目的を達成し
たのであります。
 かくて明和八年九月廿九日小笠原友右衛門は幕府の命を
奉じて来り、大肝煎福永彦左衛門(里方)大年寄白川藤右
衛門を案内役として至徳寺村地内御館川落口より湊口まで
実地検分をなす運びとなりました。
 続いて安永五年川浦代官竹垣庄蔵また幕命により九月廿
七日川浦代官所を発し川船に便乗して今町港の検分を為し
たのであります。而して翌安永六年機熟せりと見て高田藩
は榊原式部大輔の名を以て幕府に対し左の請願書を提出し
ました。
榊原式部大輔領分越後国頸城郡今町湊川口御普請之儀
相調べ申上候旨被仰渡奉畏候 早速右所へ申越吟味仕
候処去申年竹垣庄蔵殿御見分之節より川瀬悪く狂居候
居家敷まで多分欠崩れ川中洲出来仕候ニ付水幾筋に
も相分れ依之川口砂押払候程に水勢無御座吹荒れ毎に
澪漂筋狂い遠浅に相成 荷物積受候ては小船も出入難
儀仕候…中略……右湊之儀は領分と乍申 御廻米御用
相勤め勿論信越両国之諸荷物運送之場所にて御座候間
為御救早速国役普請を以御普請被仰付候様仕度奉存候
依之以書附奉申上候 以上
御勘定所 榊原式部大輔
(福永家文書)
 然るに幕府も貨幣経済の発達にともない諸種の失費も多
く容易には此今町湊へは手を出さなかったのであります。
 兎角する中に又復今町湊に天災が見舞いました。即ち天
明元年五月廿四日関川保倉川の大洪水であります。此の洪
水は幸に流失した家屋は二軒にとどまったが湊口の欠潰甚
だしくもはや今町湊としての用を果すことができなくなっ
たのであります。
 以上述べた如く長年月の間多くの迂余曲折を経て天明五
年に至り町民待望の国役普請が着手されました。全町々民
の皷腹撃攘して喜んだことは云うまでもありません。
 顧みれば明和八年九月小笠原友右衛門が実地検分をなし
てから十五年、宝暦の大地震より実に三十五年目でありま
す。
 天明六年五月には普請役田村七郎治、根津唯助の両名が
来港して工事監督の任に就きました。翌七年には工事一部
の完成を見たが同年冬、暴風雨の為多少の破損がありまし
た。翌八年に至って全く工事が完成して遂に多年の宿望を
達したのであります。其間年を経ること実に四ヶ年、延人
員拾七万七千三百余人、而して総工費が参千八百五十余両
に達する近代稀に見る大工事でありました。(以下工事内
容は省略)
出典 新収日本地震史料 第3巻
ページ 539
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 新潟
市区町村

版面画像(東京大学地震研究所図書室所蔵)

IIIF Curation Viewerで開く
地震研究所特別資料データベースのコレクションで見る

検索時間: 0.001秒