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項目 内容
ID J0803378
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1751/05/21
和暦 寛延四年四月二十六日
綱文 宝暦元年四月二十六日(一七五一・五・二一)〔高田・越後西部〕
書名 〔新井市史 上〕○新潟県
本文
[未校訂] ついで寛延四年(一一月改元、宝暦元年)四月二五日に
頸城郡一帯を襲った地震は、各村々に多大の被害を与えた。
その状況を姫川原村の松岡弥十八は「寛延四年、地震口説」
として大要次のように述べている。
 爰ニ地震之口説ガ御座ル、遠キ異国之噺ハ知ラズ、
凡日本六拾六国浮世咄シハ数々有レド、越後頸城之地
震之沙汰ヲ、聞モオソロシ、語ルモアハレ、思ヒ出セ
ハ身ノヶモヨダツ、月日重ル年ヘタタレハ、カカルツ
ラキモ忘ルルモノト、ヲロカナガラモ心ヲツクシ、末
ノ世迄ノ噺ノ為ニ筆ニ任セテ書置ナラベ、頃ハ寛延四
年ノコトヨ、去年ノ冬ヨリ未ノ春ハ大雪積リ、殊ニ正
月廿八日ニ思モヨラズ赤雪降リテ、諸人是レワト驚ク
ウチニ、睦月過レバハヤ如月ノ、中ノ九日ニ西風吹テ
窓障子モ皆吹破リ、寒サ時日ヲ送リシウチニ、弥生半
ニ南風吹テ山ノ谷々皆消払不吉有トワ曾ニ知ラズ、キ
セン(貴賤カ)老若歓コブ気ニモ成ルヤナラヌニ卯月
カズヘツ弐拾五日ノ、朝カラ雲リ雨モ降ラネバ、イキ
レガツユク、諸人クルシニ気モ付ザリシ、終ニソノ日
モ早暮レヶレド、猶モ夜ヘニ入リムシ〳〵トシテ寝テ
モ寝ラレス、ソロリ〳〵ト寝イル内ニ、夜半過カト思
ヒシウチニ、ドントナル夜ト思ヒツ直大地動ヒテ、ソ
レ地震ヨト云テ目覚、起キアガラントスレバタフレ、
又ヤウヤクソロ〳〵ト蟹ハヒシテモ、終ニフセラレサ
マヨフ、地震猶々大キウ動キ、大地ソコココワレヌヶ
シ、高田今町在々迄モ、トット一度ニ潰サレテ、張ヤ
キヤクロニヲサレシ死人手負アサマデ其数知ラズ、所
々ノ潰シ家ニ、火カ[焼|モイ]ツヘテ、面(表)テ出ルニモ木
ニ押ラレテ、地獄ノクルシミ……云々
(飯吉徳清文書)
 この文書は、大字猿橋飯吉徳清の曾祖父彦左衛門から堀
之内村の長崎三郎左衛門が借りて写したものだが、文書は
片かな、ひらがななどがいりまじり、当時の記録をたどた
どしく写し取った姿からも当時の惨状を偲ばせるものであ
る。
 文書は、寛延三年(一七五〇)暮から大雪が積り、寛延
四年一月二八日には赤い色の雪が降った。二月九日に西風
が大吹雪となって村々を荒したが、三月中旬に南風によっ
て山々の雪は消えた。しかし赤い雪は不吉の前兆とされて
いた。
 四月二五日は曇天で蒸し暑い夜であった。夜半過ぎ突然
に地震がおそって、高田から直江津まで家は潰れ死傷者の
数は数えることか出来ないほど多数である。さらに潰れ家
から火を発して、戸外へ出ようとしても張や柱が出口を妨
げ、負傷者は蒸地獄に落されたようである。山崩れも一里
にも及んだと記している。
 また被害の状況を、美守・大濁の村々にみると、つぎの
ごとくになる。
乍恐以書附御注進申上候
一潰家六軒 彦四郎・平助・磯左衛門・七右衛門・仁
兵衛・惣左衛門
一半潰弐拾五軒 但し高持百姓共
外拾六軒 是ハかべ落柱折、或ハかしがり半潰同

一用水四ヶ所内三ヶ所名砂田・新江・とよかかり
此度土手江丸掛ヶ落大破仕候、尤自普請ニて用水
水引取候義も難計御座候
一道筋四ヶ通 但外村え通道田場え通作道
是ハ右同断此度不残大破并小橋共一切無御座候
一苗代四歩通リ損失致候
是ハ四歩通リ籾他借仕、追蒔いたし候
一川除三ヶ所 内壱ケ所自普請弐ケ所入用場所
是ハ不残大破仕候
右ハ当四月廿五日夜より同廿九日迄之大地震、書面之
通り家屋用水道橋大破仕候、尤苗代四歩通り不足之分
先達て被仰渡候通、種籾他借致追蒔仕、其外用水并道
等拵候義も、仲々自力難及御座候、依之御見分之上何
分之御慈悲奉願候 以上
寛延四年未四月 美守村
庄屋 森右衛門
与頭 彦兵衛
百姓代 源五右衛門
富永喜右衛門様
荒井御役所
(岩沢源三文書)
 また大濁村では「全潰四軒、半潰三軒、約一町二反が地
すべりした」(豊岡了一文書)と報告している。
 この宝暦の地震についで、弘化四年(一八四七)三月二
四日信州善光寺平(長野市)で発生した「善光寺平大地震」
は、震源地と隣接していた頸城郡の各村で相当被害があっ
た。
 新井地方の村々では、長沢村で一五軒が全潰、五一軒が
半潰し九人が圧死した。大濁村では潰家四軒、半潰二四軒
で、長沢原村では全潰三軒、半潰五軒であると、高田預所
役所へ報告している。
 さらにこの地震による村々の動静を知るべき史料がない
が、長沢村では地震発生の翌々日に、潰家六三軒・死者二
〇〇余人と届出たが、四月になって次の史料のごとく潰家
一五軒、半潰五七軒、死者九名と訂正して届出ていること
からしても、当時の状況を推測することができよう。
乍恐書付を以奉申上候
去月二十四日大地震にて当村百姓潰家六十三軒死失人
凡二百人御座候趣御届奉申上候帰村の上取調候処前代
未聞の地震に狼狽所々逃去又は家へも不沙汰に信州善
光寺参詣の者も有之追々立戻候処全く死失人男五人女
四人に御座候当村の儀は村内の道法一里程も有之家居
家作隔り住居罷有候取調潰家の儀も皆潰十五軒潰家同
様大破の分五十七軒(ママ)其外小破の儀大小の百姓不残に御
座候間致周章前顕の通御届奉申上候段重々奉恐入候依
之以書付奉申上候 以上
未四月 長沢村
(「長沢郷土誌」大3・11・20・桃井徳文編纂兼発行)
 このことによって、高田預所役所では被災地を見分して、
六月に救助米として潰家一軒につき一斗五升ずつ、死者を
出した家一軒につき一斗ずつ下付した。
 長沢村では二石八斗五升(潰家一五軒・死者九人―六軒)
の救助米の下付を受けたが、さらに同役所から稗一一五石
二斗一升を五ヵ年々賦で、金三六両三分を一〇ヵ年々賦で
借用し、全潰一軒につき金三歩を、半潰一軒につき金二歩
を分配して復旧に努めたが、この金額は一ヵ年永三貫六七
五文にあたった。
 また弘化四年の「長沢原村宗門人別御改帳」(阿部道治文
書)によれば、長沢原の戸数は三二軒(名子二軒)であり、
明治三年の「長沢村宗門人別御改帳」(長沢郷土誌)によれ
ば、長沢村の戸数は一七七軒であるので、いずれも三分の
一以上の家が全・半潰となっている。
出典 新収日本地震史料 第3巻
ページ 542
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 新潟
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