[未校訂]二 震災
イ 寛延の震動
「滝川善兵衛記録」に、
日行月亦来って其年も既に暮れ明れば寛延四辛未年に
至り諸人も去年の潤にて卯年以来艱難辛苦忘れ果て角
て正月は新年之御慶も始り歌や笑ひの絶し世も一時に
賑はふ世と換し峯も下りて淵となり淵も上りて峯とな
り明日は泣世と換るとも知らぬもの□□哀れなり早正
月も末方の廿五日の夕方より雪降出て同二十九日の明
け方に小粕の如き赤色なる雪降り来り依之亦もや危変
の来るかと皆人顔を見合へけり
とある。引つづく災害から一息ついて、四年の春を迎へ
た人達は、赤雪を見て、無気味な予感に襲はれてゐたもの
らしく、何かしら人心の動揺を禁じ得なかったらしいが、
果して四月の廿五日に至って、突如として午前二時頃大地
震に襲はれたのである。
被害区域は名立谷、桑取谷、能生谷、高田、直江津等頸
城地方一帯に亘り、その被害状況も延享の水害に幾十倍す
る。実に言語に尽し難い惨状を呈し、東吉尾桑取ヽ谷小田島
名立、谷平谷同上の如く、一村全滅の箇所も少くなかったと云は
れてゐる。
古書類に拠れば、能生谷村の被害状況は次の如く、全滅
の村は一村もなく、他の地方に比し、比較的に被害が少か
ったものと思はれる。
○上略能生谷西の方は平村より槇村迄に東は鷲尾村よ
り高倉村迄此村々は別して山崩にかかり家屋を潰し人
馬の堅(怪)我夥敷平村にては皆潰一軒、半潰十二軒槇村に
ては皆潰五軒・半潰数多同村治郎左衛門即死す此外谷
中村々半潰堅我人等無之村は更になし。○下略
(「滝川善兵衛記録」)
「能生谷史料寛延四年地震」には、
一、能生谷ハ地震軽ク谷中潰家参拾弐軒死人四人内壱
人槇村耕田寺弟子名立小泊村宗竜寺ニ而相果壱人ハ槇
村次郎左衛門年九拾壱才ニ而家潰ニ而梁桁之(ママ)ニ成相果
壱人ハ高倉村与七郎子壱人鷲尾村由右衛門弟ニ候右之
内六軒槇村治郎左衛門潰半潰ハ四郎右衛門太郎右衛門
庄左衛門与左衛門大郎右衛門ニ候
(伊藤藤市郎所蔵「寛延四年御用留」)
とある。
此の大地震後、余震が頻々と起り、数ヶ月も止まず、各
村は極度の不安に戦いてゐた。
此地震毎月昼夜数度動き諸人困却少なからず依て谷中
村々相談整ひ藤後村庄屋太郎左衛門を以て伊勢大神宮
へ祈念の代参を立て則祈念するに御師より一万度の神
祓御附与相成候代参も無恙く帰国致され尚亦谷中相談
の上御祓は槇村金山権現へ奉納す亦十二月に至り伊勢
御師より五千度の御祓能生谷村々へ壱封つつ御下与相
成候依て村々より御初穂として銭五百文つつ献納す。
(「滝川善兵衛記録」)
は、いかにも此の人心の不安を物語るものと云ってよ
い。尚、伊藤藤市郎所蔵の割帳「能生谷史料寛延四年地震」所載には、
(表記)
寛延四年未四月廿五日夜大地震ニ付其後茂山抜掛等気
遣敷谷中相談ノ上同五月四日相談極リ藤後村太郎右衛
門同六日出立伊勢へ代参ニ参リ候処同十六日上着同廿
九日下着仕候
尤日々御祈禱被成候間静マリ次第一左右可仕旨御申越
候ニ付為其届六月弐日又々槇村勘六飛脚遣シ右入用其
後御札初穂等之割帖
○上略
溝尾村
一、四匁四分 面割
一、四匁八分 家別割
一、四匁六分七厘 高割
〆拾参匁七厘
○下略
とある。
一方、此の災害に対し、領主榊原侯から幕府へ上申し、
金一万三千両の拝借金寛延四年の御用留に拠れば、一ヶ年千三百両づつ、申年(宝暦二年)から巳年(同十一年)迄
十ヶ年々賦で返納する事になつてゐる。を得て救恤に当てたが、次の如く割当て
た。
○上略
参千両 御城築
七千両 御家中諸士方屋敷
二千両 在中、但今町ハ在中分ニ候
千両 町方
○下略
(「寛延四年御用留」)
即ち、領地被害の村々六万石へは二千両を貸下げたのであ
る。
此の二千両のうち、「滝川善兵衛記録」に依れば、能生
谷廿四ヶ村へは、皆潰一軒に付金壱分と銀六匁二分五厘
寛延四年の御用留は六匁二分五毛に作る。半潰一軒に付下銀七匁三分づつ、此の外、
谷中の生活艱難な者へ金参拾両が割当てられたのである
返納規定は申年(宝暦二年)から巳年(同十一年)迄十ヶ年年賦で皆済する事になつてゐる。尚、寛延四年の御用留
に依れば、槇村の分は合計金三拾九両三分、銀八匁三厘
で、その内金二拾六匁三分、銀八匁三厘は皆潰、半潰の被
害者へ、拾三両は村中の難渋する者に貸付けたのである。
拾三両に付いては、御用留に、「金拾三両 是ハ右潰家半潰之外極難儀致シ候者共へ見計ヲ以テ借渡候、被仰付候へ共片寄候義難成組中惣高ニ割リ今壱
軒ニ銀壱匁弐分五厘弐毛ツツ当ル」とある。
震災後の状態に就いては、「滝川善兵衛記録」に、
一、宝暦二壬申年本年も早春より尚地震度々動るくと
雖も僅少の事にて諸作は十分に満熟也従て米価も下直
きし諸品も直を下直さすれば諸人五ヶ年の艱苦を離れ
て再ひ安堵の思ひをなしにけり
とあるから、早春から度々小地震はあったけれども、作
がよく、人心は安定し、小康を得たものであらう。
五 寛延の山崩
寛延四年○宝暦元年に高田大地震があり、そのために所謂名立
崩れが起って多数の死傷者を出した事は人のよく知るとこ
ろであるが、能生谷にても尠からぬ被害があった。これに
就いては既に述べたので、♠には山崩に関係の分のみを古
記録から抜萃してみる。
能生谷西の方は平村より槇村迄に東は鷲尾村より高倉
迄此村々は別して山崩にかかり家屋を潰し人馬の堅(怪)我
夥敷、平村にては皆潰一軒・半潰十二軒、槇村にては
皆潰五軒・半潰数多、同村治郎左衛門即死す、此外谷
中村々半潰堅(怪)我人等無之村は更になし
(「滝川善兵衛記録」)
寛延四年未四月廿五日夜大地震ニ付其後茂山抜掛等気
遣敷云々
(伊藤藤市郎氏所蔵「割帖」能生谷資料寛
延四年地震所収)