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項目 内容
ID J0803367
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1751/05/21
和暦 寛延四年四月二十六日
綱文 宝暦元年四月二十六日(一七五一・五・二一)〔高田・越後西部〕
書名 〔宝暦と弘化の地震〕○新潟県
本文
[未校訂]「名立崩」を写真に撮りに出かけたのは、昭和三七年夏
でも、特に暑さの烈しい日であった。断壁の東寄りの道を
登る時の熱気、それとは逆に、段丘上は東の風が強く、燈
台の日陰に入ると、いっ気に汗のひく涼しさであった。こ
の燈台の裏から断壁は西に向って走り、およそ一キロ程あ
らわな断壁面を見せている。断壁は、上下二段に分かれ下
段の棚上に小さな池が見える。その池を見ていると「名立
崩」の不気味な生命が、今も呼吸づいている様に思われ
る。断壁の上に立っていると黒い蝶が嵐に流されて海の方
へ消えて行った。
 「名立崩」は、今も尚こうして人の心をとらえる魅力を
持っている様に思われる。やはりこの山崩れの関心を一番
強くかきたてたのは橘南谿の東遊記の中の文章があった為
に「名立崩」が有名になり、人々の関心も強まったのであ
るが、その宗教的な物語り風な文章のスタイルは「名立崩」
を特異なものとして、印象つけたようである。言うなれ
ば、何んの関わりもなく突然宿命的な異変が、そこに起っ
たと言う感じである。私は前回で天災のうちの台風のこと
を記したが、本号から地変のうちの地震を考えようとした
とき「名立崩」が寛延四年の地震の一つとして、今までの
印象とは違った姿を感じたのは、東遊記の影響によるもの
であろう。「名立崩」は、地震の面から考えると、これは
地震によって起った、大きな山崩れの一つであって、必ず
しも名立だけに起ったものではなかったと言うことであ
る。このことは、別に取り立てて言うべき事ではなく、誰
でも知っていることでありながら「名立崩」の印象が強く
て地震の方が忘れられがちになるのであろう。就いて検討
をしてみたいと思ったからである。
 この地方を襲った地震の状況がかなり分っているのは、
この「名立崩」の時の宝暦元年(一七五一年・寛延四年)
の地震と、俗に善光寺地震と言われる弘化四年(一八四七
年)の地震である。この地方としては「名立崩」の時の地
震が被害が大きかったので被害を調べるにはこの方が都合
がよい。この二つの地震の前に、この地方で地震がなかっ
たかと言えば、必ずしもそうではない。西頸城郡誌によ
れば、およそ七回はあったことになっている。
 その中で注目すべきものは、次の地震であって、端的に
当地方の地震の持つ危険な様を示している。
永祚元年(九八九年)海涌山崩
永長元年(一〇九六年)大地震、大津波
地震に伴なう山崩れと津波が、この地方の被害としては最
も警戒すべきものであることが、この記録でも察知でき
る。
 再び宝暦の地震について調べて見よう。能生谷村滝川家
の記録によれば、被害状況を次の如く報じている。「能生
谷村西の方は、平村より槇村までに、東は鷲尾村より高倉
村まで、この村々は別して山崩にかかり家屋を潰し馬の怪
我夥敷」と言っているが、特に山崩れにかかり、と言って
いることが注意すべき点である。
 山間地に於ける地震の被害は、山崩れによる場合が多い
ことを指摘しているのである。言うなれば、震動による家
屋の崩壊よりも、山が崩れることからの被害の可能性が極
めて多いことを考える必要があると言うことである。
 尚念の為に山崩れが誘因しての地震の例は、極めて多い
ことが、中村慶三郎著の『山崩』に記されている。本著書
中更に「現今地形的に認められる山崩れのうち、大規模の
ものは地殻変動により圧成されたものではないかと考えら
れる」と述べ、地震が山崩れの誘因の最大なものではなか
ろうかと強調されている。
 山間の村々は、この山崩・崩土の上、または下に発達す
る場合が多いのであるから、当然地震による被害の可能性
が多いわけである。名立村の場合は、この地方は更に震源
地に近かった為に、山崩による被害の傾向が強い。
 即ち「東蒲生田村の下岸まで突付しにより」「小田島村
人家残らず潰れて男女即死三十八人」とか「高峯崩れて」
或いは「山嶺切れ落」と言うふうに、殆んど山崩れの被害
であるが、小田島村の場合は河川をふさいだ為の湛水の被
害も伝えている。
 以上も滝川家文書によるものであるが、同文書は桑取谷
に於いても山崩れの被害を記録している「高峯崩れて」と
か「追立山崩れて」と言う記録が至る処に見える。このよ
うな立ち場から「名立崩」を考えると人家の密集地帯であ
った為、被害は他に較べて大きかったことは確かである。
 高田町家の被害程度に較べても、死者の人数が多いので
あるから、最大の被害地であったと言えよう。前にも述べ
たように、こうした意味でも「名立崩」は特別な存在では
ない。また山崩れの起った時間と、地震の時間との間にも
差違がなく、共に四月二十五日夜八つ時である。正確に
は、四月二十六日暁八つ時であるが、この事からもその誘
因が地震であったことがわかる。八つ時と言えば夜中の二
時、山崩れによる人畜被害が多く出たのも当然であろう。
能生谷村までかなりの被害を出したこの地震は、糸魚川で
は破損家屋一二軒のみにて、他は災害なしと、西頸城郡誌
震災の項で報じている。
 西程弱く、東程強いことから震源地は、西頸城東部地方
或いはもっと東寄りの地であったろうと推察される。
 震源地はどこかと言うことは、更に研究を必要とするこ
とであるが、次回に触れたいと思う。津波は自家所蔵の
「今町会所地震書留写、寛延四辛未四月廿六日、暁八つ時」
によれば、地震の起時と水位上昇の起時との間に差のない
こと、また水位上昇面の最高時とも差のないことを考え
て、海中ではないと言うことを一応断定してもよいのでは
ないかと考えている。
 ともすれば人は自分の知識を信じ過ぎる。この地震で、
桑取谷の被害は人智の想像を絶した、自然の猛威と言うべ
きである。
 桑取谷ではこの地震で、山崩れが幾場所かに起り、それ
が各々河川をせき止め、然る後、その一つが崩れる。そう
した流水が集って、河口へ突出して来たのである。泥砂、
樹木、民家を一緒くたにした水が河口の平地で展開すれ
ば、水は流路を変えて、どこかへ突破口を見つける。この
場合「五十八人程災死したり」と記されているが、この流
出路に当った運命は、過ぎれば幾文字かで終わる儚ないも
のであった。
 この記録は、庄田真道翁の頸城郡誌稿の気候の災害の部
に記されている。「桑取村地内より所々山崩れて、桑取川
所々水潮をなし、それは一度に押流し、有間川駅橋場に、
山を築き、往還駅内とも河となり、為之五八人の災死あ
り」この文章を読みながら思うことは、災害が大きくなる
時は、多くの場合に、同質または異質の悪条件の重複する
事である。
 この地震には幸いに、つきものと言ってよい程の津波が
なかったことである。もしこの地震に津波が伴っていたら
どうなったか、想像に絶する悲惨な状態が現出したことで
あろう。
 ここで、この地震の起ったときの状況を調べてみよう。
旧で四月二十五日は、新暦では、五月二十日であるが、庄
田翁の『頸城郡誌稿』では、「昼空色薄赤く風もなく、霞
曇りにて、空合近く暑き事六月の時候の如し、同日暮頃雁
東の方へ飛行く事数多し」と記されている。俗に言う、南
がかった五月の天気は確かに七月のような暑さであったろ
う。
 のどかなお天気で、この夜の悲劇とは無縁に、沿海州を
東に、低気圧が通っていたのかも知れない。橘南谿の『東
遊記』にも「夜は風静かにして、天気よろしくありしか
ば」と書かれているから、多小どんよりとした、静かな天
気で、唯低気圧と、それに伴なう弱い低滞気味の不連続線
が、日本海にあったのかも知れない。
 梅雨に近い花曇りのような空中に、水蒸気の多い天気で
あったのだろう。『東遊記』では「名立崩」の前の夜空を
「空を顧みれば名立の方角と見えて、一面赤くなり」と更
に続けている。この神秘的な表現は、文学的な臭気があり
ながらも、地震、山崩・津波の発光現象の問題を提起する
ことになる。
 現在の科学では、音響のあることは認めているが、その
他の現象は確認できぬ状態である。ともあれこの二つの記
録が空の赤いことを記ているのは面白い。
 空中の水蒸気の為てはないかと私も異論を述べたくなる
ところでもあるとは言え、私は東遊記の赤気考に依って、
地震と空の色の関係を述べるつもりではない。私は一応こ
の日の天気を明確にしておきたかったのである。特に記さ
るべき雨も風も、この日この夜はなかったと言うことであ
る。
 私の所蔵する文書の一節を引用しよう。「四月廿五日夜
八つ時(現午前二時)大地震につき、潰家死人其他大地一二
尺、所々より五六尺ばかりづつ相割れ水吹き出し、井戸水
三四尺ばかりづつ吹出し候。町内一二尺水湛え依って津波
の由にて町内の者不残砂山に逃登り大肝煎者町中江廻る」
 この文章は、この寛延の地震を最も具体的に伝えたもの
である。
この文章は、自家所蔵の筆者本であるが、渡辺慶一氏の
『越後府中文化』では「今町会所地震書留写」で表題は
「寛延四辛未四月廿六日、暁八つ時」と、自家所蔵のもの
はなっている。これは言うまでもなく、この地震の時の直
江津の地震の状況を書いたものである。この地方の被害を
考えるとき、山崩れの外に重要なものは津波である。
 ところが近世の地震のなかで、この文章が最も具体的な
状況を語っている。しかしこの文章だけで津波があったと
断定することも軽率の様にも思える。とは言え引用した文
章の様な事実があったとすれば、この問題をもっと掘り下
げて検討を加えることも興味があろう。今一度過去の地震
について振り返って見ると、かなり資料のある地震は、こ
の地震の他に、弘化年間の善光寺の地震だけである。弘化
の地震はその震源地から考えても記録の上で検討しても、
津波があったという結果は見られない。
 とすれば寛延のこの地震の記録だけが、津波らしきもの
の具体的な例ということになる。ここで先の記録を振り返
って見よう。この地震の一つの特色は地割れのあったこと
で、高田でも同様の記録があるのであるから、かなり関心
も惹く程地割れが多くあったのではないかと思う。
 同時にこの地割れから、高田では泥水や水を吹き出して
いる、直江津では井戸水も噴き出したと言う記録もある程
だから、地割れの部分からも当然そうした水の噴出があっ
たと考えられる。以上の様な事は、地震の結果例として
は、特に注意すべきものとは思わないが、直江津の記録で
はこの水について、極めて大量な記録となっていることで
ある。見方によれば大袈裟だとさえ言える表現をしている
ことである。水浸が一二尺になったとか、井戸水が四五尺
も噴き出したとか言うことは、ちょっと想像しにくい。
 殊に井戸水の噴出が四五尺とは一体どう言うことであろ
う。この日の天候については、先に触れたが、風もなく、
雨も降らぬ梅雨前の静かな薄曇りの夜であった。従って風
波による水位の上昇が考えられぬとすれば、山崩れによる
河口の閉塞、或いは流路の変化も考えられるわけだが、河
口の閉塞は現在の右岸の状況からも考えられぬとすれば、
水路の変化であるがこれには多少の時間的なズレがありそ
うであるが、前に引用の文章からは、そうしたズレは感じ
られない。地震と間もなく水位が上昇した様に読みとれ
る。
 そうだとすれば「津波の由」にてと言う記述が根拠を持
つことになる。直江津は被害の状況から見ても、中心地に
近かったこと、河口の形状が津波の影響を受け易い湾入状
である点からして、津波があったとする説が、案外に有力
となって来る。大きな津波とは言えないが、小さな津波が
あったと考える方が確かに妥当性がある様に思われる。
 否定する要素としては、河口の流路が変った場所が一カ
所あったことで「荒川瀬違一カ所」と記された文章が、同
書の被害記録のなかに見える。
 いずれにしても津波とは言われなくても、そうした現象
が起ったのであろう。
引用した文書の中で興味深いが分りにくいのは井戸水の噴
出である。これはどう考えたらよいのであろう。家の大部
分が潰家または半潰になった地震の最中、確かに井戸から
噴出する水であったのだろうか。
 井戸水が三、四尺も噴出したと言う記録は、その通り信
じてよいのであろうか。暗夜の午前二時恐怖の幻想の描い
た記録なのではあるまいか。これは一つの仮説であるが、
この時、地下でガスの噴出が考えられないであろうか。
 地割れがあり、泥の噴出があったとすれば、地下水の露
出部分である井戸からは、噴出する可能性が、充分あるわ
けである。いずれにしてもこの記録は、更に別の資料のな
い限り、決め手もないから、この辺りで、筆を止めるより
道があるまい。こうした記録とは別にこの今町会所書留の
被害の記録は、極めて明細で確実である。計算の達者な有
能な行政的識見のある人物がこの記録の背後を支えている
ように思われる。人家の倒壊の程度記録は、右記録には珍
しく統計的である。
 実はこの辺りで、寛延の地震は終る予定であったが、再
び筆を続けたのは、この記録に感心し、心が惹かれたから
である。先にも書いた様に、当地方としては、かなり記録
の確実な大きな地震の例は、他にないのであるから、この
地震の被害等は極めて参考になる。殊に海岸に沿う沖積地
に、殆んどの市町村の中心がある。当地方は、直江津の被
害を無縁のものとは考えられない。
 この程度の地震では、この位いの被害がある位のことは
承知して置く必要があろう。直江津も含めて、高田平野の
生成については、近来研究が進んで来て、地質学的には、
意外に新しい時代に高田付近まで海入があり、海水に住む
微生物の遺骸が地底より発見されている。
 したがって朧気ながら高田平野の生成の推移が想像でき
る段階に入ったと言っても差し支えあるまい。この場合、
入江―湖―沼―の推移を考えられるが、さして誤りとは言
われない。佐渡に於ける旧国中湖の存在等と較らべても、
そうした変化は想像される。この変化は初期繩文時代以降
のものであると推定して大きな誤りではあるまいと思う。
 この様な考えを、直江津付近の地質に特に当てはめて考
えると、現在の直江津も砂丘地と沖積地の上に発展した町
であると言われる。砂丘地は砂嘴として発達した砂丘地で
あるし、沖積地は沼を埋めた沖積地である。かつて直江津
は荒川が流れた時もあろうし、葦の茂る沼のほとりであっ
たこともあろう。
 いずれにしても砂丘地と泥砂の埋めた沖積地の上で、直
江津の発達が続けられたと言うことである。こうした見方
をすれば、糸魚川も、能生も似た土地の上にあると言うこ
とができる。寛延四年、直江津の総戸数は八七〇戸であ
る。人口にすれば五千足らずの町であったが、それでも三
十六人の死亡者の中に遊女が一人あるところから見ると、
ちょっぴり港町らしい。更にこの地に十一人の他所者がい
る。
 他所者とは如何なる人達であったかわからないが、内容
は男八人、女二人それに浮身が一人となっているのも面白
い。簡単に言えば、他所者は男が多く、女が少ないことを
推定させるが、これも当時の人口の動態を考え合わせる資
料であろう。死亡者を他所者と今町の者との比較は、凡そ
三対一であるが、この数字から見ると、直江津の人口の三
分の一に及ぶ。凡よそ、一千五百人程の他所者が直江津に
居たと言うことである。
 これはいかなる人達であったろう。当時の直江津の殷賑
さが推定される足がかりであるが、本論ではないので、こ
の辺りで止める。この時のケガ人は男二十一人・女十八
人。いわゆる他所者を除けば男女比は、そうちがわない。
 今町は、男女とも凡そ同数であったと、この点からも推
定されるが、これに対して他所者の比率の違いは明瞭であ
って面白い。先きに寛延四年の戸数が八七〇戸と書いた
が、この地震の被害程度は次の如くである。
▽全壊三二一戸 三七・〇%
▽半壊三八四戸 四四・二%
▽無難一六五戸 一八・八%
で、凡そ八〇%の家屋が被害を受けていることは、この時
の被害の大きさを物語っている。
 高田の被害も、これに劣らぬものであったから、高田藩
の救済に対する経済的な負担は、大変であったであろう。
同時に救済が辺地に及ぶことは困難であったろう。さてこ
の時の被害の調査で私が感心したのは、直江津、当時の今町
の会所の記録が、各町内に及んでいることである。数字を
確実に記録されているので、全壊、半壊、無難と分けて、
各町内の%を計算するのは、極めて簡単である。
 ただ記録は旧町名であって、新町名でないのが残念であ
り、筆を執る以上新旧比較して記すべきであろうが、その
余裕がなかったのは、私の責任で、申訳ない。(この印刷
を行うに当り、古地図を現代の地図に比較して、かなり正
確と思われる旧町名を新しい地図の上に入れた参考図を後
にそえてある)。(注、地図略)細かい計算はしてあるの
だが、被害の少ない方から記録を拾い上げれば、無難の最
も多いのは裏砂山町四八%、次で本砂山町、坂井町、片原
町、中浜町の順である。逆に全壊家屋の多い比率から取り上
げると、中町の八三%、川端町の六四%、寄町、横町、中
浜町、新町の順となっている。上記の詳細は、再び計算の
上、表として末尾に加えてある。
 この町名から見て考えさせられるのは、被害が海岸より
砂丘地面に少ないと言うことである。町名の新旧を地図の
上で比較しないで、この様な断定は恐縮であるが、そうし
た推定に大きな誤りはなかろうと思う。この被害状況を更
に検討すれば全壊の少ないのと無難の多いのとの関係は密
接であって、前者を後者の%から減ずれば本砂山町、坂井
町、裏砂山町辺りの順位となる。
 また横町・川端町・中町・新町・寄町には、無難の家は
一軒も存在しない。以上面白くもない数字を並べて恐縮で
あったが、砂丘地の方が、私の推定が誤まらなければ、被
害が少ないと言うことが言われそうである。砂丘の高さが
高い為に先きに書いた水浸の被害が少ない為であろうかと
も思われるが、私はこれを地質的な関係だと考えたい。
 砂丘地と沖積地の相違が重要な点となるのではあるまい
か。関東の大震災の折、沖積地帯が木造家屋の倒壊が多
く、逆に洪積地は、土蔵の倒壊が多いと言われている。地
質の軟弱な所では木造家屋が弱いと言う例に旧今町直江津
の例が適応するのではあるまいか。この事はもっと研究す
れば、面白い結果が導き出せると思うが、別の機会にゆず
りたい。
(注、以下、弘化の地震について続くが、略す)
出典 新収日本地震史料 第3巻
ページ 523
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
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