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項目 内容
ID J0803346
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1751/05/21
和暦 寛延四年四月二十六日
綱文 宝暦元年四月二十六日(一七五一・五・二一)〔高田・越後西部〕
書名 〔越後国名立小泊村の震災復興〕
本文
[未校訂]序言
 寛延四年(宝暦元年)四月廿六日午前二時頃越後国西部
地方に大地震が起った。所謂宝暦の高田大地震は是れであ
って、震央は現在の高田市附近であったが、その震域は広
範囲に亘り富山城下なども強く震動した事が『越中旧事
記』に誌されてをり、我国に於ける歴史的大地震の一ツに
数へられてゐる程である。
 此の時、高田から四里ばかり西方に位置する[頸城郡名立|くびきごほりなだち]
[小泊|こどまり]村(現在は新潟県西頸城郡名立町大字名立小泊)の裏
山が大崩壊をなし、世に「名立崩れ」として知られてゐる
災害を惹き起した。橘南谿の紀行文『東遊記』(註一)には名立崩
れに関する一章があり、また恐らく其れにヒントを得たか
に思はれるものに岡本綺堂の戯曲『名立崩れ』がある。此
の地変が北陸の一僻村―『東遊記』には「まことに此の辺
りは都遠くよろづ心細き土地なりき」と誌さる―に起った
ものである割合に著名なのは、此のやうな文学的素材とし
て取扱はれたためであらう。
 而して此の地変に関する正確な記録の如きは従来全く此
の地に、伝はってゐないものとされ、従って名立崩れの物
語りも漸く伝説化されやうとしてゐたのであるが、此処一
二年来此の村に関する多数の文書が見出され、吾々は此の
地変の真相や善後策等を知る事が出来たのである。本文の
目的も亦
1名立小泊村崩壊の真相
2災害復興の一例としての名立小泊村
3崩壊地に実施された土地割替制度
等を述べるにある。尚ほ本文を草するに当り名立小泊小林
家及び糸魚川中学校郷土室所蔵の関係古文書数百点を閲覧
する事を得、また相馬御風氏及び月橋正樹氏からも文書を
借覧した。また名立町大門源太郎氏及び平原一郎氏からは
同地の現状や伝承等に就き詳細な談話を聴く事が出来た。
以上の人々に対し深謝の意を表し度い。
名立附近の現状
一地形 五万分一地形図「高田西部」に就て名立町附近
の地形を観察するに、名立駅の東方に大きな断崖があ
る。此の崖は更に西部方の急斜面に続き、崩壊区域の延
長約一粁弱、高さ最大約百六十米に達し、其の前方に高
さ八十米前後の――土地の人は棚と呼んでゐる――があ
って後方に向ひ幾らかの傾斜をなす。此の段は崩壊した
山林の一部が取残されたものである。断崖から海浜まで
は概して平坦であるが、土砂岩塊の堆積した部分もあっ
て、停車場の敷地の如きは斯様な堆積物の小丘の表面を
均して造られたものである。現在の聚落と海浜との間に
は幾らかの畑地などもあるが、地変前は山地が直ちに海
に迫ってをり、その山裾を通ずる北陸道に沿ふて名立小
泊村は細長い街村式聚落を形造ってゐた。要するに此処
の地形は『東遊記』に誌されてゐる「南に山を負ひて北海
に臨みたる地なり」の一語によってよく表現される。当
時の耕地は―今も同様であるが―大部分裏山にあった。
そして裏山の崩壊に際して部落の家々は或は岩塊の下に
圧し潰され或は海中へ叩き出されたのである。
二地質 此の地域の岩石は地質学上いはゆる第三紀に属
する頁岩・砂岩の類であって、名立小泊の附近に於ては
頁岩類の間に厚い礫岩の層を挾んでをり、其の層は断崖
の中腹に沿ふて明瞭に露出する。厚さ約四―五米に及
び、直径一尺乃至二尺前後の大礫をも含み、粗粒の砂を
以て硬く膠結されてゐる。此の礫岩の下には粗粒砂岩の
厚い層があり、上には頁岩がある。崩壊に際して此の砂
岩・頁岩・礫岩等がなだれ落ちたのであるが、礫岩中の
大礫が転落した事は此の地変に依る災害を一層悲惨なも
のならしめたと考へられる。現在も尚ほ斯る砂礫や岩塊
の累々と堆積する有様を見る事の出来る部分もあり、部
落中央部には堆積土の上に地震塚が祀られてある。因み
に嘉永年間には此の塚に於て地変横死者の百年祭が営ま
れた。
名立崩れの被害情況
三注進書 地変の翌日即ち寛延四年四月廿七日附を以
て、庄屋池垣右八氏から代官富永喜右衛門へ提出された
注進書に拠れば、被害の実情は次のやうである。
乍恐以書附御注進申上候(註二)
名立小泊村
諏訪因幡守様御検地
一御水帳壱冊 是は山抜突埋紛失仕候
名立新田
諏訪因幡守様御検地
一御水帳壱冊 是は右同断
一御公儀様より御渡被置候御高札都合七枚山抜突埋申候
名立小泊村 名立新田
一古来より去午ノ年迄御渡被成候御割付御年貢皆済目録
御年貢金納御通イ並庄屋方ニ御座候諸書物不残山崩突埋
紛失仕候
一名立小泊村組合筒石村筒石新田大洞村藤崎百川村此五
ケ村戌年より去ノ巳年迄六ケ年分御年貢皆済目録並去
午ノ御割付同年御年貢金納御通イ御用ニ付小泊村庄屋方
預置申候処此度大変山崩突埋紛失仕候
一御陣屋壱ケ所山抜突埋家形相見ヘ不申候
一御蔵壱ヶ所 同断半突埋ニ相成候
一名立小泊村惣家数九拾壱軒

八拾壱軒 是は山抜突埋家形相見不申候
四軒 是は本潰家
三軒 是は半潰家
三軒 不難家
一同村人数五百弐拾五人

死人男女四百六人 此内死骸三十八人程相見へ
申候
此外他所へ罷出候もの如何御座候哉難計奉存

同村禅寺 宗龍寺
一寺壱ケ寺 是は山抜突埋寺形相見ヘ不申候
同村浄土真宗 浄福寺 正光寺
一寺弐ケ寺 是は右同断半潰
一社家壱軒 是は右同断突埋家形相見ヘ不申候
自身葬祭社人壱人相果申候
一宮壱ヶ所 是は右同断宮形相見ヘ不申候
一堂壱ヶ所 是は右同断
一土蔵四ツ 是は右同断
一死女馬十疋 是は山抜突埋申候
内八疋ハ宿駅馬
一御役猟船 去午ノ暮帳面書上候通
不残山抜埋船形相見ヘ不申候

一名立小泊村××家壱軒突埋申候
一××人数男女拾六人相果申候
右は当月二十五日夜八ツ時より翌二十六日明六ツ時迄大
地震ニ而小泊村々之裏山下通り長拾五六町程高サ七八拾丈
許山奥五六町程村方海中へ三拾町程山抜突出し右一書ニ
仕候通大破仕候尤御田所数ケ所ニ山崩検地難相積り候今
以地震入止不申候追々山崩抜落候ニ付御注進申上候
四月二十七日 小泊村 庄屋右八
富永喜右衛門
御役所
右の報告書に就て見れば、崩壊区域の規模に於ては幾分
過大に誌されてあるが、災害の状況はまことに激甚であ
った事が分る。即ち百戸に近い村落の人家が其の九十パ
ーセントも埋没或は倒壊し、無難の家は僅かに三戸しか
無かったし、五百余人の住民の八十パーセントもが一瞬
のうちに横死したといふ事は、稀れな惨事と云はねばな
らない。高田大地震の死者総数二千人のうち此の村だけ
で其の五分の一に当る死者を出したわけである。それで
も『東遊記』に、伝へられてゐる状況―人馬鶏犬悉く横
死し、生存者は某家の女房唯一人であった―よりは幾分
被害は少なかった。
尚ほ庄屋から提出された一報告書や前掲の注進書によ
れば、庄屋方に預ってゐた文書の類はすべて烏有に帰し
たやうに書いてあるが、その後の発掘に依るものか、地
変前の書類も少くとも七八点は現存してゐる。
四地変の日時 前項の注進書には四月二十五日夜八ツ時
に地震が起り、二十六日明六ツ時迄激しく揺れたと書い
てある。『東遊記』には「時刻はやう〳〵夜半過ぐる頃
なりしが」と誌されてゐるが、いづれにしても地変は四
月二十五日の真夜中かそれを少しく過ぎた頃に勃発した
ものゝやうである。即ち二十六日午前二時頃から同六時
頃まで大地震だったと解すべきであらう。
五死者と生存者 注進書に明記されてある死者の数は村
人四百六人・××十六人・自身葬祭社人一人、合計四百
二十三人である。其他に、別の文書に拠れば宗龍寺には
五人の死者があった故、全部で死者四百二十八人とな
る。半潰の浄福寺や正光寺には死者は無かったやうであ
る。
次に生存者の数を検討しよう。地変の翌月庄屋から代
官へ差出した文書の一節に「天命ニ相叶不思議ニ助命之
者男女百三拾七人にて候」と誌され、また同じ文書のう
ちに「名立小泊村此度の大地震ニ而大山抜崩 村方及退
転候所此節他所罷出候者⑴並山抜被突出海中より浮揚り
不思議の命相助候者⑵……家数十軒寺二ケ寺本潰半潰ニ
ハ罷成候得共身命無難ニ罷在唯今命相助リ居候もの⑶小
泊村僧俗男女⑴⑵⑶の合計百三十七人御座候」とある事から考
ふるに、生存者が百三十七人あった事は確実である。
(傍線傍註筆者)。其のうち宗龍寺・浄福寺・正光寺三ケ
寺の生存者十六人がある故村人は百二十一人生残った事
となって、注進書から割出される生存者525人―406人=
119人とは厳密には一致しない。
六全滅の家文書上から推定し得る一家全滅の家は六右
衛門、長三郎、八左衛門、七右衛門、三郎左衛門、源右
衛門、久右衛門の七戸だけであるが、此の外にも多数あ
ったであらう事は容易に推量し得る。その事は第十三項
からも容易に考へられるのである。
七幸運なりし人々 此のやうな大変災に遭遇したにも拘
らず兎も角一命を拾った百三十七人は幸運な人達ではあ
ったが、わけて次の人々は一層幸福だったと思はれる。
1庄屋池垣右八氏は地変の当日、村から五里程西方にあ
る梶屋敷と云ふ地の陣屋へ出張してゐたため助った。
彼の家族は全滅したが、彼も若し家に居たならば横死
したであらう。
2曹洞宗宗龍寺では住職超倫以下五人は惨死し、死骸も
遂に見えなかったが、弟子の一人貫之は丁度当日他行
中だったため崩壊に遭遇せずに済んだ。そして同年九
月卅歳を以て、潰滅した宗龍寺を再建することとなっ
た。因みに此の寺の開基は永録年中の事であって、越
前ノ国の僧侶輝山和尚といふのが越後ノ国へ行脚の途
上、偶々名立小泊村の右八の先祖市右衛門方に一宿を
求めたのが抑々の端緒だったのである。
3久右衛門の娘でみよと云ふのが、直江津の又三郎の伜
彦右衛門に嫁いでゐたが、地変当時子を伴れて里へ帰
ってゐた処、久右衛門らは悉く惨死したにも拘らずみ
よ母子は不思議に助った。其の翌々年四月みよ夫婦は
子供を伴れて久右衛門家を相続する事になった。
4裏山の崩壊と共に海中へ叩き落された人達も多数あっ
たらしいのであるが、其のうち九人ほどは海中より這
上って助った。しかし地変の翌月に至るまで半死半生
の容態であった。
八街道の破損 名立小泊村は当時隣村名立大町村と共に
北陸道の宿場をなしてゐたが、大崩壊のため一時交通杜
絶の止むなきに到ったらしい。『越中旧事記(註三)』に拠れば「利
幸公御帰城時節之処 右之越後大変ニ付テ通路無之依御
願同八月中仙道通リ御帰城也」とあって非常な迂回を余
儀なくされた事が明らかである。また金沢藩に於ても名
立崩れの報に接して驚愕した。『前田金沢家譜(註四)』には次
の如く誌されてゐる。「五月二日重煕大将軍賜フ所ノ
鶴ヲ宰シ 物頭以上ヲ饗シ散楽ヲ観セシム 楽半ニシテ
前日二十五日夜 越後地大ニ震ヒ 名立ヨリ高田ニ至ル
ノ地圧死スル者多シト伝フ 重熙報ヲ聞キ便チ席ヲ起チ
急ニ健歩ヲ発シ 金ヲ齎シ 藩臣ノ江戸ニ于役スル者或
ハ災ニ罹ル者アルヤヲ存問シ 且ツ旅費ヲ給セシム 後
数日使者還リ報シ曰 于役ノ士一人ノ災ニ罹ル者アル
ナシト 是ニ於テ重煕坐立始テ安シ 聞者感喜セサルナ
シ」
九地所の被害地震前年の寛延三年に上納した年貢は、
皆済目録に拠れば、米三拾弐石弐斗六升八合五勺であっ
たが、地変の年の年貢割引帳に拠れば米四石弐斗四升三
合五勺となって居り、災前の約十三パーセントに減ぜら
れてゐる。此の両年に於ける年貢割付高を比較して見れ
ば(詳細は第十二項に誌す)、田畑山林の破損した程度
は略々見当がつくわけである。即ち年貢のみから推定す
れば、田畑共に震災前の一割余に減少し、山林は何ら損
じなかったらしい。当時どれほどの広さの耕地や屋敷が
あったか正確には分らないが、天和三年の検地水帳に拠
れば田畑の面積は次の通りである。
一田方四町四反八畝廿六歩 分米六拾壱石五斗四合
一畑方九町四反三畝三歩 分米弐拾八石九斗三合
一山高壱石弐升七合
高都合九拾壱石四斗三升四合
田畑合計拾三町九反壱畝廿九歩
併し右は地変前六十八年の頃の面積である故地震当時の
田畑の広さとは同一でない事勿論である。
 次に屋敷は、長さ百二十間幅二十五間即ち三千坪が崩
土堆積のため荒廃したと報告されてゐる。天和の検地帳
に拠れば屋敷の面積は壱町五反九畝十九歩となってゐ
る。
十困窮の状 地変が田畑の仕付けに取掛る直前であって
農家には何らの貯へも無い時季であった事も困窮の度を
大きくした原因であったかも知れないが、たとへ米穀そ
の他の貯蔵があったとしても、大部分の家は全く土砂岩
塊に埋められて了った事故何の足しにもならなかったで
あらう。小山のやうな岩塊に蔽はれて了っては家屋・財
産の掘出しなどに手の下しやうもなく、命だけは助った
ものの即日から飢餓に悩まねばならなかったのである。
幾つかの文書に散見される困窮の状態を摘記すれば「此
度不思議ニ助命人数立儘ニ而何ニ而も一品無之 殊ニ田
畑ハ不残損地 身之立ツ所も無之 路頭に迷ひ候間 身
命落着之御救奉願上候」また「只今命無難ニ而罷在候者
小泊村地内ニハ小屋懸ヶ等仕候場所モ無御座候ニ付 大
町村々立裏ニ少々ノ小屋ヲカケ罷在候得共 当日ヲ送候
儀難成 飢死候体ニ御座候何卒御慈悲ニ相残人数命取続
候様御救奉願上候」ともあり、或はまた「田畑共に仕
付盛リ相成候得共田方ハ苗等無御座」とか「此度之大山
崩土中江船数十三艘せめて一品之道具も無之埋り候」と
いふ状態で、半農半漁の此の村は全く生業の方策が立た
ない事となり、更にまた「此度地震ニ而呑水一滴も無御
座候」とあるやうに、地形の変化に依って飲料水(引き
水)さへも杜絶えたのであった。
 此の様な惨めさであったため、地変直後他郷に稼ぎに
出た者も少くなかった。その事は幾つかの文書に窺はれ
るのであるが、例へば「漸ニシテ相残リ候人数……右之
内四十人程ハ他所江奉公ニ罷出候」と、地変の翌月庄屋
から代官へ差出された文書に記されてゐる。唯さへ少い
生存者の三分の一もが出稼ぎして了ったため、あとには
働きの無い老幼のみ多く残り、此の村の荒廃を一層大き
くした。その事は「漸クニシテ作場等へ罷出候者男女七
八人ニ御座候」と書かれてある事によっても明かに窺ひ
得る。
罹災者の救済
十一救済の出願 寛延四年五月といふ日付を以て、庄屋
右八外百姓三人の連名にて「富永喜右衛門様御役所」宛
に提出された救済並に復興の出願書を摘記すれば左の通
りである。
一北陸道往還越後国頸城郡名立小泊村地内 長拾七町三
拾八間之内此度大地震ニ而山抜 往還道長拾壱町四拾
八間之内大石岩等にて如山に罷成候
是は北国往還之儀ニ候間道御普請奉願上候
一居屋敷場長百弐拾間幅弐拾五間之所抜土ニ候間石砂利
持込堅メ屋取仕候様ニ御普請奉願上候 右長百弐拾間
幅弐拾五間之内大石岩等有之候間切除 或ハ山谷ニ成
候場所等御座候所引平均候積り 第一此度地震ニ而呑
水一滴も無御座候間 裏通険阻成大山より水引取候様
御普請奉願上候御事
一波除石垣長拾七町三拾間 但高平均一丈
一小屋掛家弐拾五軒 但表口四間裏行六間
此御入用金三百七拾五両但一軒ニ金拾五両ヅゝ
是ハ此度不思議ニ助命人数立儘ニ而一品無之 殊ニ
田畑ハ不残損地 身之立所も無之 路頭に迷ひ候間
身命落着之御救奉願上候 勿論耕作漁猟稼仕候ニ付間
狭ニ而は難成 其上風烈大雪降リ候所故不丈夫ニ而は
風雪に潰申住居難成 殊ニ雑木かや葭竹繩諸色共遠方
より買出に付 過分入用相懸リ候間如斯小屋懸之御入
用被下置候様ニ奉願上候御事
一漁船五艘 此訳 杉丸太、釘、♠、船梁、ろ、かい、
楫、帆、帆柱、漆、大工木挽作料飯
料、漁猟道具共不残一艘ニ付金四拾
壱両弐分
此御入用金弐百七両弐分
但一艘
船諸道具一色 金弐拾両壱分
漁道具一色 弐拾壱両壱分
…右御入用被下置候ハバ当年より船の御運上 永壱貫
文 上納仕 夫より年々御運上相増上納仕 相残リ人
数身命相助リ一村取立申度候間 御慈悲之御手当奉願
上候 此度右ノ手当ヲ不被下置候而ハ相残候人数離散
仕 此上一村無跡形退転仕候儀ニ御座候
一農具代金弐拾五両 但一軒ニ付金壱両ヅゝ
是は鍬、鎌、山刀、其他鶴嘴、唐鍬、仕上御田畑大石
岩等ニ而山抜荒地ニ罷成候間 切除起返シ申度奉存候
間農具代被下置候様奉願上候 願之通被仰付候ハバ出
精仕起返シ一畝一歩成共御供進可申上候事
一家具小道具代金五拾両 但一軒ニ付金弐両ヅゝ
是ハ椀、折敷、茶椀、挽臼、摺臼、搗臼、箕、とふし
筵、茶釜、鍋類、水溜桶、汲桶、味噌桶、漬物桶、こ
え桶類、山抜候而突埋無跡形損失仕ニ付 新ニ相求メ
不申候而は家業難成候間 右調代金五拾両被下置候様
ニ奉願上候御事
一小泊村大変損地ニ罷成候ニ付 小役永 荏胡麻代永 
大豆納 浅草御蔵前入用 川役 等当年より御免許被
成下候様奉願上候 尤一村取立候上家数人別多相成 
田畑等段々起返リニ罷成候節は上納可仕候 且又郡中
割西浜割当年より当村高相除キ候様ニ郡中村々江被仰
渡被為下度奉(願カ)罷上候
此度の大変災一村及退転候処 露命相助居候者共ニ候
間 身命限加精仕一村取立荒地御運上物共年々起返シ
相増御上納仕度奉存候 然共命助リ候計ニ 着の儘に
て 何事可仕候様も無御座候 路頭に迷ひ罷居候ニ依
御慈悲ニ一村取立之儀ニ候間 右之趣被為聞召上御入
用被下置候様奉(願カ)罷上候
右の救済並びに復興出願書を総括するに、要点は⑴道路
及び屋敷の普請 ⑵防波石垣の築造 ⑶飲料水を引く工事
⑷小屋掛け料・漁船代・農具代・家具・小道具代の下附 
⑸諸税の免除等であるが、其の復興計画がかなり周到に考
へられてゐる事は書面に見られる通りである。同時にまた
随分強硬に救済並に復興を出願した事も明らかであって、
例へば小屋とは云へそれは四間に六間の大きさのものであ
り、家具・小道具・農具・漁具等も多種類のものを完備し
ようとしてゐる。
 また諸税の免除を云々してあるが、本途米の事には触れ
てゐないのは、此の年は当然全免される事を予想したため
であらう。
 次に、小屋掛け料其他の貸附を申請するに当って戸数を
廿五としてあるが、出願当時果して廿五戸の人がゐたかど
うかは頗る疑問である。地変に死絶えなかった家は廿五戸
ほどあったであらうが、地変直後他郷へ出稼ぎする等のた
め、出願当時の戸数は廿五は無かったものと考へられる
(此の事に就ては第十三項にも述べる)。然るに廿五戸分
の救済金を申請してゐるのは、地変直後稼ぎに出た者が近
き将来に於て帰村して絶家を復興する事を見越して実数以
上に見積った結果と考へられる。
 もう一つ出願書に就て注意すべきは、救済をゆるがせに
しては一村離散に到るは必定であり、さうなれば役所の立
場としても不利であらうと云ふ意味を、それとなく仄めか
したと思はれる節々のある事である。「右ノ手当テ不被下
置候而ハ 相残候人数離散仕 此上一村無跡形退転仕候儀
ニ御座候」といひ、「願の通被仰付候ハバ出精仕 起返シ
一畝一歩成共御供進可申上候事」と誌し、其他にも斯様な
言葉が散見されるのである。
 とまれ庄屋池垣右八が相当の手腕家であった事は各種の
文書に依って推定されるのである。
十二 救済の実際 前項に誌した出願に対して役所の救済
がどの程度に及んだかの一事は若干の興味ある問題であ
る。しかし救済の実際を一纒めに記した書類は無いの
で、年貢皆済目録其他の文書から推定すれば其の主要な
条項は次の通りである。
1扶食(持?)米代金拾三両壱分 永百弐拾五文五分
是は宝暦二年以後二十ヶ年賦で返納させる約束で貸
下げられ、一年に六百六拾八文八分宛七ヶ年返納し続
けたが、宝暦九年度に於て残額八貫六百九拾三文九分
を全納せしめられた。年賦の年限を繰上げた理由は不
明である。
2農具代金拾両弐分
是は宝暦二年から十ヶ年賦で返納の約束で貸下げら
れたが、一年に壱貫五拾文づゝ七ケ年返還し、宝暦九
年に残額全部三貫百五拾文を償還せしめられた。其の
理由は前者と同様不明である。
3漁船代金弐拾五両弐分
是は宝暦三年以後拾ケ年賦で償還の予定の下に一ケ
年に弐貫五百五拾文或は弐貫五拾文づゝ償還せしめら
れた。
4屋敷引均し費用金三拾四両余
 此の金は全く給与されたものゝ如く、地変後数十ヶ
年間の皆済目録をはじめ他の文書にも是れを返還した
事は少しも見えてゐない。
 積極的救済としては右のやうなものであって、此の
四口の合計金八拾弐両五分と永(銭)百弐拾五文五分
となり、出願額六百五拾七両弐分の十二パーセント強
に当るに過ぎない。此の両者の開きが斯く大きいの
は、救済の不十分を物語るか或は出願に掛け値のあっ
たためか、恐らくは其の両方を意味するものであら
う。尚ほ申請書に誌された波除け石垣は築造されなか
ったし、家具小道具代は下附されなかった。又飲料水
を引く工事も実施されなかったらしい。
 次に諸税の減免に就て見るに、地変の年の年貢割付
帳と地変前年のそれとを比較対照すれば一目瞭然であ
る。しかし此の減免は田畑の破損に基づくいはゞ当然
の割引であって救済とは云ひ難い。
午御年貢可納割付之事(寛延三年)
寅より午迄五ヶ年定免
一高九拾壱石四斗三升四合 名立小泊村
此取米三拾弐石弐斗六升八合勺(ママ)
此訳
高六拾壱石五斗四合 田方六斗四升 前々川欠引
内壱石参斗参升六合 去ル卯川欠引
壱石参升九合 去ル卯砂入引
外参石参斗四升 当午起返小以参石参升五合
残五拾八石四斗八升九合
此取米弐拾弐石六斗六升九合
三ツ八分七厘六毛内
内壱石弐斗九升五合当午起返増
高弐拾八石九斗三合 畑方

七斗壱升弐合
六升九合
郷蔵敷引
××高引
小以七斗八升壱合
残弐拾八石壱斗弐升弐合
此取米九石八升六合 三ツ弐分三厘壱毛内
高壱石弐升七合 山高
此取米五斗壱升三合五勺 定五ツ

一米五升五合 御伝馬宿入用
一大豆五斗九升壱合六勺 大豆納
此代米弐斗九升五合八勺
一永百五拾七文 荏代
此荏壱斗七升九合
此代米壱斗壱升弐合
一永五拾三文六分 胡麻代
此胡麻四升五合
此代米三升
一永百五拾壱文五分 小役
一永百五文 川役
一永三百五拾文 酒役一永弐貫弐百八文三分 船役
一永弐百弐拾六文六分 御蔵前入用
米三拾壱石八斗八升五合七勺
納合 外四斗三升七合八勺 諸代米引
大豆五斗九升壱合六勺
永三貫弐百五拾弐文
米 九斗六升八合 口米
外永 八拾四文四分 口永
未御年貢可納割付之事(宝暦元年)
定免年季明ニ付検見取
一高九拾壱石四斗四合 名立小泊村
此取米三拾弐石弐斗六升八合五勺
此訳
高六拾壱石五斗四合 田方
六斗四升 前々川欠引

壱石三斗三升六合 去卯川欠引
壱石三升九合 去卯砂入引
三拾七石七斗九升九合 当未地震山崩引
拾壱石弐斗六升弐合 当未地震川欠引
小以五拾弐石七升六合
残九石四斗弐升八合
此取米弐石九斗四升六合 三ツ壱分弐厘五毛

外拾九石壱升六合 当未地震山崩川欠減米
七斗七合 当未地震ニ付出来劣
高弐拾八石九斗三合 畑方

七斗壱升弐合 郷蔵敷引
六升九合 ××高引
弐拾五石六斗九升五合 当未地震山崩引
小以弐拾六石四斗七升六合
残弐石四斗弐升七合
此取米七斗八升四合 三ツ弐分三厘余
外八石三斗弐合 当未地震山崩減米
高壱石弐升七合 山高
此取米五斗壱升三合五勺 定五ツ

納合 米三石八斗六升七勺
外四斗三升七合八勺 諸代米引
大豆五斗九升壱合六勺
永壱貫四拾三文七分
外米壱斗弐升七合 口米
永拾八文弐分 口永
是を要するに、
1宝暦元年に於る本途米以外の諸税(記載を省略した)
は前年に比較して、唯船役弐貫弐百八文三分が免ぜら
れただけで、其れ以外はすべて何ら変動がない。
2山高に於ては何等変動なく。
3田高六拾壱石五升四合のうち地震山崩引としての三
拾七石七斗九升九合と地震川欠引としての拾壱石弐斗
六升弐合とが地変の年新たに引かれ、税率は三ツ八分
七厘六毛から三ツ壱分弐厘五毛に引下げられてゐる。
結局田方の取米は弐拾弐石六斗六升九合から弐石九斗
四升六合に減ぜられてゐる。
4畑方弐拾八石九斗三合のうち地震山崩引として弐拾
五石六斗九升五合が減ぜられ、取米は九石八升六合か
ら七斗八升四合に減ぜられた。
なほ宝暦五年の年貢割付帳に拠ると、諸税のうち御
伝馬宿入用・大豆納・荏代・胡麻代・小役・御蔵前入
用だけは伺ひの上免許となってゐるが、それが宝暦元
年の地変と関連があるのか否か不明である。
復興の情況
十三戸口の復興 地震直後の人口即ち災害に生残った人
の数は僧俗百三十七人である。此の内から僧侶を差引け
ば百二十一人が部落民の数となる。此の人数が何戸の家
に属するものであったか判然しないが、救済出願書に廿
五戸分を申請してある点より考えれば、廿五戸の家族―
唯一人だけ生残った家もあらう―が兎も角助ったものと
考へられる。しかし地変後間も無く此の戸数は減少した
ものと認められる。それは約四十人の出稼者が他郷へ去
ったためである。地変の年の十二月に村人から庄屋へ差
出した「一札之事」には十三人しか署名してない。此の
書付は地変直後の救済として米代拾三両壱分を貸下げら
れたそれの請取証なのであって、其の人数の中には最も
被害の些少であった区域(中才といふ部分)の家々さへ
総て加ってゐる故、此の十三戸と庄屋とは出願当時の全
戸数と看做さざるを得ないのである。其の氏名は清左
衛門、十兵衛、四郎兵衛、市太郎、甚左衛門、甚右衛門、
半兵衛、新三郎、安右衛門、太右衛門、紋右衛門、又右
衛門、市兵衛の十三人で、其他の庄屋右八とで合計十四
人となる、ともかく第一表及び第一図には宝暦元年の戸
数を十四として置いた。然し次に述べる理由で戸数は稍
々急激に増加したものの如く、宝暦五年の文書に拠れば
廿三戸、同八年には廿二戸となってゐる。
 名立小泊村一村殆んど退転に到らうとしたので、役所
では成るべく他出者を帰村させやうとして種々の手段を
講じたのである。其れは当時の文書に「所々江稼ニ出候
者或ハ奉公ニ罷出候者ヲ呼寄セ小泊村取立様候ニ被為仰
渡…」と誌され、又同地に現在まで云ひ伝へられてゐる
所にも「高田の領主を通じて諸国の領主に依頼し、名立
小泊村の人々を帰村させるやう布令して貰った」とある
事からも明らかである。♠に他郷へ出てゐた者と云ふの
は、地変前出稼してゐた者も、又地変直後出た者をも含
むのである。斯くして地変一二年後より少しづゝ家が建
つやうになったが、一方、生活難等から離村する者も幾
らかあって、宝暦八年の文書に拠れば同年までに権兵
衛、彦右衛門後家、五郎七、清七、八兵衛の五戸は他所
へ出稼ぎ又は移住した。
 死絶へた家の跡目を相続する者は肉親か知合ひかであ
ったが、後年には何ら縁故の無い者が唯々死絶者の家名
だけを継いだのも多かったと云ふ。家名を貰ったばかり
に其の家の古い借銭を返還させられた者もあったさうで
ある。絶家復興申請の願書を例示せば
願申一札之事
一未ノ地震大変ニ付名立小泊村八右衛門家内不残退転仕候
ニ付拙者儀は則八右衛門弟ニ而大貫村と申所(の)一
家共方江かせぎニ罷越相助(かり)申候 依テ此度八右
衛門跡式相続之儀一家共相談之上 拙者相立申度御願申
上候此段宜(しく)御上様江被仰上 八右衛門跡式相続
仕候様奉願上候 以上
宝暦四年戌三月
願人 八右衛門弟 源蔵
八右衛門一家
大貫村 勘左衛門
高田稲田町
市右衛門
名立小泊村
藤右衛門
名立小泊村庄屋
右八殿
名立惣百姓中
 斯様にして絶家が復活された場合、其の家が地変前に所
有してゐただけの地所を得る事になったが、後年にはそれ
が行はれなくなった。其の事情は第十七項に記す。多くの
地所を所有してゐた絶家の跡目が早く復活されたのは蓋し
当然で、無高の者の復興を願出た文書などは一つも見当ら
ない。持高七石弐斗五升壱合の久右衛門(此村第二の高
持)の跡目は宝暦三年に出願され、同四年には六右衛門
(高九斗六升三合七勺)、八右衛門(高三斗壱升壱合六勺)
の跡目相続が出願され、文化七年には七右衛門(高五斗五
升七勺)の相続が出願されてゐる。
 地変以後の戸数の増減(社寺等を含まず)を見るに、第
一図及び第一表の通りである。表中+印戸数は宗門帳、○
印は五人組印形帳に拠り他は別の文書に基づくものであ
る。
 第一表及び第一図を見るに、地変後より天保年間に至る
までは時々減少した年もあったが、大体に於て増加の傾向
を辿った。しかし幕末頃に於ては著しき増加を見ず、殆ど
停滞の状態にあったが、明治初年以来急に増加して今日に
至った。災前の戸数に達したのは大正の初年頃であるが此
の間百六十余年を要してゐる。現在は全戸数百四戸のうち
農業に従事する者八十戸ほどで、それは大抵漁業を兼ね其
他に商業を営む者及び俸給生活者等も若干ある。
第1図 名立小泊村戸数の変遷
十四 宿場としての復興 名立小泊村は隣接の名立大町村
と共に諸大名の参覲交代に際して宿役を仰付けられて来
たが、地変後願出て此の事を免じて貰った。そして此の
地の宿役は大町村だけで行ったのであったが、地変後廿
六年に至って小泊村にも従前通り宿役を課するやう大町
村から願出があり、役所から其旨通告したが、小泊村
では其の命を拒絶したのであるが、理由は左の通りであ
る。
 「此度大町村より前々之通リ小泊村へ三分の一当リ宿
役相勤候様ニ申懸候得共 今以宿役相勤候程之人馬持ノ
者一人も無御座候 尤も只今居住仕候家数弐拾九軒御座
候得共右之内 後家女独身者等御座候ヘバ 宿役相勤候
人別曾而無御座候」「今以人少故宿役相勤罷在候而ハ御
田地開作相成不申 御収納相勤不申候」
 然るに其後約百年を経た慶応二年十一月の願書に拠れ
ば宿場として復活させて欲しい旨を「加州様御会所、同
御飛脚御宿中、富山様御飛脚御会所」宛てに願ひ出てゐ
るのである。是れは只戸数が増して復興が進捗した事に
基づくか、他に理由があったのか不明である。因みに其
の当時は此の村は高田榊原式部大輔の領分であった。
十五 耕地の復興 第二表及第二図は年貢皆済目録に誌さ
れた本途米の石高を示したものであるが、これに依って
地変前後に於ける耕地の而積の変化及び地変後漸増して
来た状態を間接乍ら窺知する事が出来ると思ふ。
第二表及び第二図に於て年貢本途米は時に減少した年
もあるが、大体に於て漸増の途を辿ってゐる。それが年
年少し宛の田畑が復興された結果である事は、年貢割付
書を見ても推定されるが、時には新たに原野を開墾した
事もあったかも知れない。たとへば、此れはずっと後年
の事ではあるが、大正の初期に約四町歩、同未年頃約八
町歩ほどの新田を共同開墾した事がある。現在名立小泊
の田地は約三十七町歩、畑は二十□町歩あるが、それら
のうち近年の開墾に成るものもかなり多く、明治の初期
に於ける年貢、本途米は尚ほ地変前の状態に達しない事
遠いのである。崩壊に依る岩石堆積の区域は現在は田畑
又は敷地等になってゐて、荒廃のまゝになってゐる箇所
はあまり無いが、勿論是れは徐々に復旧されたもので、
宝暦十三年の文書の一節にも「家立近所田畑跡ニ白砂交
リ場有之候処其節急ニハ難起返年々岩等風雨ニ而こ
なれ 草等生へ候ヘバ……村方の者の内少々づつ手入
等仕候」とある如く、岩石の風化に依って次第に荒地が
耕地に成って行ったのである。
第一表 名立小泊村の戸数変遷
年西紀戸数
寛延三175091°
宝暦一175114
同五175523
同八175822
安永二177332°
同九178033
天明七178734+
寛政三179135+
文化五180846+
文政五182243+
同六182344+
同七182434
天保六183549+
同九183849+
同十四184350
弘化三184649+
同五184847
嘉永二184949
安政三185650
慶応一186552
明治二186951
同三187053
同廿四189180
昭和十1935104
十六 屋敷の復興 屋敷引均し費用として三拾四両余を下
附され、地変の翌年三月より村中人足を以て工事に当り、
秋までに略々当時必要な丈の屋敷を得たので其れを夫々
各戸に割当てたのである。即ち「普請あら方ニ仕リ御役
所様へ御伺奉申上候上屋敷割ニ取懸リ候死残者大変以前
持分屋敷間数御水帳ヲ相改候…」と誌されてゐる。しか
し此の工事は村全体の屋敷に亘って行はれたものでは無
く、岩塊重畳のまゝに放置された部分もあり、そのやう
な場所は必要の生じた都度地均ししたのである。又、地
均しが済んでも家を建てるに至らずして放置された屋敷
もあった。工事の人夫は名立小泊、名立大町村両村は勿
論、近在の村々からも雇ひ、賃銭は日々払渡したと記さ
れてゐる。下附金が無くなった以後に地均しする者は
村中人足を以て―恐らく無償で―工事して貰ったらしい
のであるが、地変後二十年の頃に至り、「屋敷之儀ハ村
(を)離(れ)自力ヲ以(て)屋敷引致し家作可致定之事」
と決定されたのである。そして下附金を以て工事だけは
して貰った者のうちにも家作せずに他へ縁付いたり離村
したりした者もあったが、其のやうな家の跡を相続する
者が後年出現した場合は、若干の代金―屋敷引均し費―
を村へ納めるか、或は相応の年貢を納めるかする事と決
められた。
第二表 名立小泊村本途石高の変遷
年西紀石高

寛延三175032.2685
宝暦一4.2435
同二5.6645
同三・四・五6.4765
同六・七5.0175
同八・九・十5.8371
同十一6.6235
同十二7.1505
同十三7.5045
明和二17657.5650
同三8.2445
同四6.1495
同五・六・七・八9.6505
安永二177310.0635
同三10.5075
同四11.4915
同五12.5125
同六12.5625
同七12.5935
同八12.6345
同九12.5795
天明一178112.5385
同二12.5195
同三・四・五・六12.9705
同七・八13.0695
寛政一178913.2315
同二・三・四13.0795
同五13.7735
同六14.0285
同七14.0805
同八14.1815
同九14.1165
同十14.1195
同十一14.1225
同十二14.1415
享和一180114.1335
同二14.1395
同三14.1455
文化一180414.1455
同二14.1475
同三14.1435
同四14.1455
同五・六14.1435
同七14.0540
同十四20.884
文政六・七・八22.4279
同十一21.3730
天保三183221.3730
同九20.8279
同十五22.4279
弘化五184822.4879
嘉永二184922.4279
同七17.0980
安政六185922.4279
明治一186823.4681
同三23.4385
 次に屋敷の位置や形は地変前と全く同一といふわけに
は行かない場合も勿論生じた。例へば八右衛門の跡を継
いだ親類源蔵は「何卒家作屋敷之場所御渡被下候様村方
へ相願候処 村立浜之側北之方家続端を見立…然上は後
日ニ家並之内明屋敷等出来候共 此度請取候外少も望ヶ
間敷義申間敷候」といふ一札を村方へ差出してゐる(宝
暦五年)。彦右衛門は表通りの屋敷を浜屋敷と交換され
たし、其他にも同様な例はあった。
 屋敷の復旧も前年に至るまで漸次になされたもので、
名立小泊現区長の談に拠れば「明治初年頃には冬季の農
閑時に村中人足を以て地均しをなし、希望者に其れを村
から貸付けた。そして其年から坪八合乃至一升位の年貢
を村へ徴収した。但し悪い屋敷―地形の良くない―を貸
す人には五年乃至十五年位は無税にしてやった」さうで
ある。地変後間もなく復活した家は屋敷をも私有にした
であらうが、その後は村の共同管理か総有のやうな形に
なり、復興した人は村から借地したのである。しかし何
時の頃からか次第に村から買受けて私有となし、今では
全部の家は屋敷を私有してゐる。六之丞より村方へ差出
した文書には「清七と申潰棟有之候処 屋敷之義村支配
ニ罷成居候ニ付 右屋敷之内表口三間半裏行拾間借地ニ
而家作仕罷在候勿論屋敷冥加として米三升八合宛年々
相納来候」とあって、当時の空き屋敷は村の支配であっ
て、借地者は坪一合前後の年貢を村へ納めた事が分る。
第2図 名立小泊村本途石高の変遷
土地割替制度の開始
十七荒廃地の処置 地変の翌日庄屋から注進した所に依
て災害の状況を知った役所は、先づ名立小泊村田畑及び
屋敷の破壊された分を検分し報告するやう庄屋に命じ
た。しかし右八氏は一命だけは助ったものの、其の前年
の秋に相続して庄屋職に就いたばかりで地所の事情は詳
しく知らないし、生残った人々の中にも耕地の事情など
に精通してゐる者は皆無であったため甚だ困惑したので
あった。生残った人達が若し地所持ちばかりならば耕地
の事情がよく分ったであらうが、その人々は地変前年の
三月に作製した五人組印形帳に拠れば殆ど無田に近い者
のみ多かったのである。即ち
半兵衛 持高八升弐合九勺
兵十衛(ママ) 同 壱斗壱升八合五勺
安右衛門 同 無シ
市兵衛 同 壱斗八升四合三勺
太右衛門 同 無シ
清左衛門 同 弐斗弐升弐合四勺
市太郎 同 不明
紋右衛門 同 弐斗六升四合
甚右衛門 同 壱斗壱升六合三勺
新三郎 同 三斗七合八勺
又右衛門 同 壱斗弐升壱合壱勺
甚左衛門 同 壱石四斗九升九合四勺
四郎兵衛 同 九斗九升一合三勺
庄屋右八 同 卅四石八斗五升四合四勺
の如くである。
 次いで「御代官所富永喜右衛門様御支配所ニ而御検分
被為成下 御引高被仰付」、また翌年秋には天和三年検
地の水帳を写して下付し、「既ニ一村可及退転所、段々
御願申上候処 一村是迄御段取被為成下 庄屋市右衛門
儀ハ別而難有奉存候」と云ふ風に、色々と役所の指導等
もあって次第に荒地も起返され、人家も復活され、漸次
本途米も増加して行った。
 災害に生残った人々が、地変前に所有してゐただけの
土地を自分のものに取ったのは云ふまでもなく、死絶家
を相続した人々が、其の家が地変前に所持してゐただけ
の耕地を取った事も明瞭である。しかし地所の位置など
は勿論災前と同一といふわけにはゆかなかった。
 抑々死絶者の所有だった地所は最初―役所の指示に従
ひ―一先づ村中の共同管理となし、生残った人々だけで
なく他村の者にも小作させたのであって、この事情は
「去ル未地震ニ而当村死絶者之田畑作うら等御座候江共
…去ル未地震年より村中支配ニ仕村方之者ニ不限他村之
者共江も小作為致候而 右小作米取立上納高御年貢諸役
上納仕…」と記した宝暦八年の文書によって明瞭であら
う。然るに其後死絶者の跡を相続し度き旨申出る者が追
追増加し、その都度共同管理の地所のうちから、死絶者
が災前所持してゐただけの地所を分与してやったので、
村支配の耕地は段々減じて行った。斯くして、一方には
村中共同にて管理する土地があり、他方には個人持ちの
地所を有する者も段々増加して来たが、地変後廿年に至
り共同管理地に関して次のやうな規定を造ったのであ
る。
1今後は死絶者の跡目を相続しても田畑を一切渡さ
ない。
2死絶者の田畑は従来村の管理として毎戸平均に割
当てて小作して来たが、今回是を村の総有となす。
3総有地は十ケ年に一度宛地分ケすることとし、地
分ヶと地分ケとの中間に復活される家があっても次
の地分ケ迄は是れに参加せしめない。(♠に地分ケ
とは土地割替制度の意)
右の事情は次の文書に明記されてゐる。
指出申一札之事
一当村之儀は宝暦元未年地震大変ニ而一村山崩下ニ相
成候処 其死残之者共右大変之段御公儀様江御注進申
上候処 御検分之上右死残之者共へ為御手当ト屋敷引
御拝借金等被下置 則死絶之者共之田畑之儀ハ村中支
配に致シ御年貢御上納仕 一村取立相続可仕様被仰付
候ニ付 無拠奉御請村中ニ而御年貢御上納仕来リ候 
勿論右大変之節他国エ奉公ニ出候者共近来之内ニ帰国
致シ 先祖之跡取立相続仕度旨村方へ相頼候ニ付 無
拠分地致呉(れ)相続致シ罷在候 然大変之地所故出水
留 或ハ大石大岩入永荒所多分有之 年々弁納仕 猶
又年数相蒿候エバ地所失名之儀ニ付 三拾年以前より
村方取極左之通り
一此後ハ死絶跡敷取立相続為致候共 右ニ付田畑一切
相渡不申定之事
一屋敷之儀ハ村(を)離(れ)自力ヲ以屋敷引致シ家作可
致定之事
附リ 御手当ニ而屋敷引致シ貰候者之内ニモ家作不
致外へ縁付又ハ相続致兼他行致シ候者モ有之 縦右
之名前之跡敷相続仕候共 相続之代金請取候カ又ハ
相応之地子米年々請取相続致シ可申定之事
右之通リ相極候儀ハ右大変故地所失名縦(ひ)地所明白
ニ相知レ候共相渡難成儀ハ無難地所持之跡敷計リ引抜
取立相続仕候エハ 大石大岩入永荒地弁納地計リ相残
候而ハ益々村方相続行兼候儀ハ歴然ニ御座候
且又永荒所持之跡敷相続致シ候者へ右永荒御高相渡候
而ハ相続致シ兼候儀ハ歴然ニ御座候 依て此以後死絶
跡敷相続仕候共田畑一切相渡不申勿論死絶田畑村中
家別平均分地ニ而小作仕来リ候分ハ村一同へ相渡可申
候 尤右之地所ハ拾ヶ年一度宛地分ケ仕候年季之内ニ
家立候共年季明迄右之地所相渡不申定之事(以下略
す)
右の文書は地変後五十年の享和元年に源右衛門から村役
人及び村一同へ差出されたものである。死絶者の跡を継
いだ源右衛門は、其の家が地震前に所持してゐただけの
地所を分与せよと村方へ迫って紛議を醸したのである
が、彼は、死絶者の地所は当時既に村の総有となって地
分ヶが行はれてゐた事を知らなかったのである。段々云
ひ聴かされて了解し村方へ一札入れたのが此の文書であ
る。
 右に依って見るに、♠に死絶者所持の耕地の善後策と
して土地割替制度が開始されたのである。而して其の理
由と認められるものは次の通りであると解せられる。
1山崩のため地所が攪乱され、且つ又既に年数を経過
した為め土地の所有者が明らかでない。
2たとひ地所の所有者が明瞭であっても、地変の時耕
地の無難であった人々の跡を段々相続して行くと、あ
とには荒地のみ残って村は立ち行かなくなる。
3崩壊の跡は灌漑水が止ったり岩塊が入ったりして荒
廃したが、此のやうな地所にも今迄長年の間共同にて
労力をかけ上納を続けて来た。
4荒地を相続した者に上納を割当てては成立って行か
ない。
 さて、右に述べた事情を仔細に考察すれば、名立小泊
村に於て実施された土地割替制度の動機はかなり複雑な
もののやうに思はれる。たとへば、納税便宜説とか境界
整理説とか或は共同開懇説とか損益均分説などの諸説の
意味の幾分かづつを内包するかにも考へられる。しかし
最も主要な動機は、共同管理の土地を次第に私有に化し
つゝある間に此れを一村の総有にして置き度いと云ふ欲
望が生じた事であったであらう。殊に最初に生残った人
人のうちに無田に近い者が多かったため、一層此の欲望
は大きかったと思はれる。
 ともかく斯様にして開始された土地割替制度は其後引
続いて行はれ、今も尚ほ存続してゐる故、現存の制度を
通じて我々は当初の該制度の機構等を推知する事が出来
るわけであるが、其の詳細に就ては別の機会(註五)註五に誌し
た故♠には繰返さない事とする。
 地分ケする土地の面積は現在では水田が四町歩ばか
り、薪山が四十一町歩ほど―畑も元は地分ケした―であ
るが、当初何れほどの広さに亘って行はれたかは明瞭で
ない。安永二年の文書には退転高村支配八石九斗三升七
合とあり、寛政六年村支配九石八斗九升六合とある。而
して此れらの村支配高は年により多少の減少はあった。
たとへば文政四年には村支配の高のうち若干の各戸平均
に分配して個人持ちとなし、享和元年には村中支配分の
田七十五束刈を市右衛門外一人の私有にした。
結語
 以上によって名立崩れの真相と其の善後策とを略々記述
し得たと思ふが、とりわけ筆者が興味をそゝられる事柄は
耕地の処置である。地変二十年の間は土地割替制度は実施
されず、死絶者の地所は一村の共同管理として納税を滞り
なく続けた。そして其の共同管理の地所のうちから漸次個
人持ちの耕地を分与して行ったが、遂には其れを分与する
事をやめて一村の総有となし、是れを割替へるに至ったの
である。役所としては一村を取立て相続せしめるやう相当
努力してはゐるが、それは少し宛でも貢租を上納出来るや
うに指導したものと見る事も出来る。殊に第十七項の文書
の「死絶者共之田畑之儀ハ村中支配ニ致シ 御年貢御上納
仕 一村取立相続可仕様被仰付候…」といふ一節の如きは
其の辺の消息を語るものと云へやう。そして其の共同管理
といふ事が―結果から見て―後日土地割替制度を実施する
前提になったと認められる故、此の制度は間接には徴税の
便宜のために始められたものと云へる。しかし筆者の見得
た範囲の古文書に拠れば、此処の土地割替制度其のものは
村民の発意によって開始されたもので、役所の指図に因る
ものではない。そして其の直接の動機は第十七項に述べた
如き事柄であるが、とまれ此処の此の制度はかなり特殊な
動機を持つものと云へる。而して此れが此の村の独創であ
ったかどうかは疑はしい、といふのは其の機構の内部を検
討すれば他地方の該制度とはかなり趣を異にしてゐるが併
し当時既に広く此の制度が行はれてをり、殊に近接の部落
にも行はれてゐた故、それを模倣したものとも考へられる
からである。何れにしても山崩れが土地割替制度の動機を
与へた実例の一つとして名立小泊の場合は筆者の甚だ興味
を感ずる所であって―尤も従来と雖も山崩れと関連ある土
地割替制度(註六)の場合も絶無では無い―此の両者の関係に就て
は目下調査中である故、不日御教示を仰ぐ機会があると思
ふ。
 尚ほ細かい点を二三誌せば、かゝる災害の際の混乱に乗
じて救恤金等に関して紛議を醸すやうな事を働いたものの
あった事は、幾つかの訴状によって知る事が出来る。中に
も滑稽なのは、漁船代拾六両余を渡された某が、其の金を
私消して了ひ、再三船子から催促されるに及んで何方から
か破れ船を拾って来た。そして其れに乗って漁業に出掛け
たが間もなく浸水して危険となったので直ちに引返した。
 又、当時の庄屋からの文書及び其後の書類を見るに、災
害の状態は相当大仰に誌されてをり、且つ後世に至るに従
って真相が誤り伝へられて行った経路を見る事が出来る。
例へば最初の生存者は百三十七人だったに拘らず、或は百
人程と云ひ、廿六年後には、海中から這上った九人の者が
生存者の全部であったやうな文書となってをり、三十七年
後に南谿が土地の人から聞いた所では生存者は唯一人とな
ってゐる。死者の数にしても八百人程と伝へられて来た。
其他地所等の被害に関する文書にも過大に誌された辞句が
多い。此のやうな事は、一つには村民の立場からの駈引に
基づくのであらうが、又一面には斯かる事件を誇大に発表
しようと欲する一般的心理の働いてゐる事も否めない。
 なほ此村の復興にはかなりの長年月を要してゐるが、こ
れは救済の不十分にも依るであらうし、又大部分の家が家
族全滅したと云ふ事情にも依る事であって、普通の震害だ
けの場合のやうには復興が捗らないのであった。
註一 橘南谿(一七五四―一八〇六)の東遊は天明四
年から同六年へかけてである。
註二引用した古文書の内容はなるべく原文のまゝと
したが、当字を書き直したものが二三ある。
註三『越中史料』第三巻に拠る。
註四同前
註五「地理教育」昭和十年十二月号
註六「経済史研究」第十八号、北村・大橋「奈良県
下に於る地割の慣行」
出典 新収日本地震史料 第3巻
ページ 460
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 新潟
市区町村 名立【参考】歴史的行政区域データセットβ版でみる

版面画像(東京大学地震研究所図書室所蔵)

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