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項目 内容
ID J0803347
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1751/05/21
和暦 寛延四年四月二十六日
綱文 宝暦元年四月二十六日(一七五一・五・二一)〔高田・越後西部〕
書名 〔名立の歴史〕
本文
[未校訂]宝暦の大地震(名立崩れ)
 寛延四年四月二十五日夜丑刻(八つ頃)大地震が起こり、
高田領内、西頸城の東部が最も甚だしい被害があり、当地
方の惨害は実に言語に絶するものであった。所謂「名立崩
れ」のあった時である。この年の十一月に宝暦に改元され
たので宝暦の大地震ともいう。
 名立小泊 正光寺前に 中才という小区がある。戸数八
〇余戸の中、地形の関係で、被害をのがれたのは 字中才
の浄福寺・正光寺の二寺と 高橋重兵衛・高津四郎兵衛・
三浦嘉右衛門・高橋市兵衛・寺沢紋右衛門・大門太左衛
門・安藤安左衛門の民家九戸だけでその他の家屋や人畜
は 全部 山崩れの為 その下敷きとなって、埋没された
り、海底に突き出されたりして 全滅したのである。
 只 その被害を受けた家の 女一人が 里方へ産褥に行
っていた為、その災難を免れたのみ、といわれている。
 この日 出漁中の漁師が、子の刻頃 沖合で眺めると
村の空一帯が赤くなって、丁度火焰が一杯になっている
ように見えたので、村中の大火であろうといって、一同は
急いで船をこいで帰って、波打ち際についた処 沖合で見
られた火の気は 少しも見えなく、何の変った様子も見え
なかった。
 一同は 狐狸にだまされたのかと思いながら、互いに無
事を喜び合い、上陸して各々帰宅して寝につくと、丑満頃
(午前二時頃)俄然 大震動と共に裏山が崩壊し、全村、
土中に埋没し、或いは海中に突き出され、目も当てられな
い有様となり、人馬鶏犬は勿論 住民四二八人の人命を一
瞬にして 奪い去ってしまったのである。
 この時神社一(天和検地には神社二とある)並びに寺
院即ち宗龍寺も 跡方もなく なくなってしまった。
 名立小泊の中央部に この時の地震塚が建てられてお
り、毎年四月二十五日には、現在でも死者の霊を弔う 読
経供養が行なわれている。
 参考資料として 能生谷・大沢の滝川善兵衛氏の記録を
もとにしてみると、大町村は 多少破損した処もあるが、
倒潰した家屋が一軒もなく、不幸中の幸いであったが、浜
辺の処々の山々が崩壊して亀裂を生じた。大字抜の上・
瓜原地方には 今でもその時の痕跡が残っているといわれ
ている。
 名立谷では 各村で 被害のない処はなく、小田島・平
谷・東蒲生田附近は山崩れの為、名立川を堰き止めてしま
ったので、湛水が満ちて海のようになり、小田島は全村
家屋破損して 死者三八人、負傷者多数を出し、平谷村は
全潰・半潰で 被害を受けなかった者はなく、寺も 二ヶ
寺埋没してしまった。東蒲生田・池田でも山崩れがあり、
その他の村落の被害、一々数えることが出来ない程であっ
た。
 能生谷では平・槇・鷲尾・高倉の辺りが殊に被害甚だし
く、家屋の倒壊・人馬の死傷 夥しく、平では全潰一戸・
半潰一二戸、槇では 全潰五戸・半潰数多く、この他 谷
中での被害で死亡者多く、尚この震動はその後数ケ月
にわたってあったので、人々の困難は 一方ではなかった。
 仙納・徳合も 大半 破損を生じたのである。
 桑取村の惨害は 特別に甚だしく、東吉尾村は 二〇戸
の中、一戸を残しただけで 一九戸全部全潰して 男女残
らず死亡・全滅してしまった。西吉尾村では、全潰して下
敷きとなって死んだ者二九人あり、有間川村も亦 全潰で
下敷きとなって死亡した者四八人もあり、下横山・小池も
過半数 家屋を破壊されてしまった。
 高田では 藩士家屋の大破一五三戸、倒壊四四戸、足軽
長屋の大破六三戸、倒壊八戸、町家の大破一、四九六戸、倒
壊三一六戸、神社の大破五社、寺院の倒壊一三寺 という
状態で 大破した家屋は一、七一七戸、倒壊したのは三八
一戸 計二、〇九八戸であって、半潰四一四戸、小破壊四
四五戸、死亡した者は 武士が三二人、町人は二、〇九二
人の大被害を出した。
 直江津では 全町で 無事の家屋は僅か二〇戸だけであ
って、ここでも 多数の死傷者を出した。
 頸城村で この災害を受けなかった処がないといわれて
いる。
 高田領内各地の被害は 倒壊家屋の合計は 九、一四八
戸で、死亡した者は 八、六七〇人 行方不明は二六二人
を出したといわれ、田畑・その他の被害に至っては 卯年
の大洪水の時より 何十倍もの被害で 前古未曾有の惨害
であった。
〔参考文〕 奉行が 大肝煎永井水右衛門に与えた 感状
 前略名立谷天和検地高 一、四〇一石二斗五升八合、
此反別一二三町四反二九歩、畑八二二石二斗七升七合、此
反別三三七町一反三畝二二歩、色高七〇石六斗四升五合、
外に一反一六歩、塩・青苧(そ)若干。
 然るに 宝暦元年六月の調によれば 田四五九石一升八
合、此反別四二町五反四畝一三歩畑四九六石八斗九升三
合 此反別二〇二町八畝五歩。
 此の如くに至りしは 累年 崩壊の致す所と雖も、尚宝
暦元年の大地震の致す所なり、此時、水右衛門は 能く配
下を督励し、再興に力を致し、村治民富を計れり、されば
領主は 特に感状を賜ひ 其の功を賞せらる。
 其方儀組下村々損地の場所年々 格段出精中当年
皆起の旨 今承知、奇特の至に候。依て 今般 金二百疋
被下置候。可得其旨候。
 天明六年(一七八六年)一〇月十六日 奉行連署、田野
上組大肝煎 永井水右衛門殿
 これでみると 田では九四二石二斗四升減じ、反別で八
〇町八反六畝一六歩減じており、畑では三二五石三斗八升
四合減じ、反別で一三五町五畝一七歩が減じている。従っ
て 田では七割近く、畑では四割近く減じていることとな
る。
名鐘龍宮の鐘
 この寛延四年(一七五一年)の大地震の刻限は 八ツ時
から明け六ツ時というから 午前二時から午前六時までの
間であって、この時に壊滅した宗龍寺の住職は 第一三世
絁峯(しほう)和尚であって、住寺以下五人が惨死し、死
体も遂に見当らなかったということである。この時、貫之
という弟子一人が 他行していたので助かったということ
である。
 この震災後 数十年も経てから 小泊沖合に 怪音が聞
こえるという噂が起った。大地震で、四〇〇余人の人命を
失なった字民は 亡霊の迷いであるともいい 又 再び天
災のある報らせではないか 等と話し合い、恐怖におそわ
れ、噂は更に噂をおおきくしていったが、不思議にもこの
怪音は 止んでは 又 異様の音を伝えるので、何年も
この海魔の存在に恐れて 近づく者もなかった。
 明治初年頃、勇敢な漁師がいて、この怪音に近づいてみ
ると、海中深くの岩石に 梵鐘がはさまれているのを発見
した。
 これが 潮流の緩急で 異様の音を発していることがわ
かり、やっと これを引揚げた。この梵鐘は宗龍寺の鐘で
あって 無銘ではあるが 名鐘と伝えられる鐘である。そ
れから後は 名立小泊で、これを龍宮の鐘と称している。
 大東亜戦争の末期に 銅・鉄類の供出の時、塚田町長の
はからいによって 無事供出を逃れることが出来たのであ
る。
出典 新収日本地震史料 第3巻
ページ 480
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
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