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項目 内容
ID J0803345
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1751/05/21
和暦 寛延四年四月二十六日
綱文 宝暦元年四月二十六日(一七五一・五・二一)〔高田・越後西部〕
書名 〔名立崩れ―崩災と国土―〕
本文
[未校訂]第Ⅰ章 名立崩れ
一節 まえがき
 岡本綺堂の作品に『名立崩れ』(1)という脚本があって、大
正時代に帝劇で上演されたこともあるらしい。私もこの作
品を読んである種の感銘を受けたのを覚えているが、もち
ろんこれはフィクションであって史実ではない。しかしこ
れを読むと、橘南谿の『東遊記』からモチーフを得たもの
ではなかろうか、という気がするのである。
 南谿(一七五二~一八〇五)(2)は江戸中期の医者であった
が、旅行ずきでわが国各地を歩き、その紀行文を『東遊
記』や『西遊記』と題して出版した。彼の東遊は天明四年
から同六年へかけてであるが、その途上名立崩れの跡を通
って土地の人からいろいろ昔語りなどをきいたらしい。そ
の文によると、宝暦の高田大地震に際し越後国名立小泊村
の裏山が崩壊して、一駅の人馬鶏犬ことごとく横死し、生
存者は某家の女房ただ一人だったということになってい
る。南谿が名立小泊を通ったのは震災後三十七年目である
のに、話がはなはだ大げさになっているが、こういう誇張
は天災などに関する伝承には付きものなのかも知れない。
 名立小泊は現在でも日本海沿岸の半農半漁集落にすぎな
いが、昔は今よりもいっそうわびしい土地柄だったよう
で、『東遊記』には「まことにこの辺りは都遠く、よろず
心細き土地なりき」としるしてある。
 さてこの崩災については土地の古老にきいてみても詳し
いことはほとんどわからず、死者は八〇〇人ほど(実際は
その約半数、後述)だといっている程度であった。ところ
が昭和九年ごろ偶然にもこの災害に関する古文書多数を入
手することができて、それを約一カ年かかって整理したの
である。その偶然というのはこうである。名立小泊の旧家
に小林氏というのがあって、かつては庄屋なども勤めた家
柄だが、よそへ転住することになったため、昔から保管し
てきた古文書の類を古物商に払下げたものである。それを
買受けた古物商が、当時私の勤めていた学校へ売りこみに
きたので、見てみると名立崩れに関する記録が多数あった
ので買取ったわけである。だいぶ因縁話が長くなったが、
本章の着眼は、
⑴名立小泊村崩壊の真相
⑵江戸時代における災害復旧の一例
⑶崩災地に割地制度が施行されるまでの過程
という三点にある。ややムダがあるかも知れないが、関係
資料のうち重要なものはなるべく掲げることにした。
二節 崩災の日時と場所
 寛延四年すなわち宝暦元年の四月二六日(一七五一年五
月二一日)午前二時ごろ、越後西部に大地震が起こった。
これは宝暦の高田大地震といわれ、わが国の歴史的大地震
のうちに数えられている。震央は高田付近であったが震域
は広範囲にわたり、富山城下なども強くゆれたことが『越
中旧事記』(3)に書かれている。当時の越後国頸城郡名立小泊
村は現在新潟県西頸城郡名立町名立小泊となっているが、
ここは高田市から西方へ約一六㎞の位置にある。この地震
のとき名立小泊付近一帯には山崩れなどの地変がはなはだ
多く、そのひとつが名立崩れであったわけ。
 災害の翌日すなわち寛延四年四月二七日付けをもって庄
屋右八から代官へ提出した注進書には、二五日夜八ツ時に
地震が起こり、二六日明け六ツ時まではげしくゆれたとし
るしてある。また『東遊記』には「時刻はようよう夜半過
ぐる頃なりしが」としるしてある。これらの記事からみる
と、地震の起こったのは二五日の真夜中を過ぎて、二六日
午前二時ごろ(八ツ時)だったと考えていい。
三節 地形・地質
 五万分の一の地形図の高田西部をみると北陸線名立駅の
背後に大きな崖がある。しかし実感としては現地の断崖上
に立って見なければこの山崩れのスケールはわからない。
崩壊区域の延長は一㎞にちかく、断崖の最高点は海面から
約一六〇米に達し、その前方には高さ約八〇米の段(土地
の人はこれをタナとよぶ)があって、山側へ多少傾斜して
いる。この段は崩落した山体の一部が取残されたものであ
る。
 断崖の脚部は浅いクボ地をなし、その高度は海面と大差
なく、その前方には小高い所があって駅のプラットフォー
ムはこの崩土堆積地の表面を均らして造られたものであ
る。また部落中央部の崩土上には地震塚が建てられてお
り、嘉永年間にはこの塚で崩災横死者の百年祭が営まれた
由。現在は人家のあいまに幾らかの畑などもあるが、崩壊
前には山が直ちに海に迫っていたらしく、その山スソを通
る街道に沿って細長い街村型の名立部落があったようだ。
こんな下手な記述よりは、南谿の「南に山を負いて北海に
臨みたる地なり」という文章がまことによくその地形を表
現している。
 山崩れの起こった直後の海岸線は、現在よりもずっと海
中に突出していたらしく、それは注進書に「海中へ三〇町
ほど山抜け突出し」と書かれていることからもわかる。も
っともこの三〇町はだいぶ大げさで、このことは崖の高さ
や延長をしるした数字から推定できる。その当時沖へ突出
していた崩土も北海の荒波に侵食されてだんだん後退し、
現在ではわずかにその形跡をとどめているにすぎない。
 この地域は第三系の灰爪層から成り、ケツ岩が主である
が砂岩もあり、とくに礫岩の存在が目立つ。礫岩は断崖の
中腹に沿ってはっきり露出し、その厚さは数米ちかいもの
で、径三〇~六〇糎程度の大きな円礫が多く含まれ、それ
は粗粒の砂で固められている。崩壊に際してこういう大礫
が転落したことは、この災害をいっそう悲惨なものにした
かも知れない。地層の走向はほぼ東―西、傾斜は北方へご
く僅かである。
四節 注進書
 文献(4)によれば、この地震によって高田領内で全壊あるい
は焼失した戸数は六、〇八八、死者は一、一二八となって
いるが当時の名立小泊村は幕府の直轄地であったから、こ
の村の被害はこの数字には含まれていないわけである。い
っぽう震災地域を通じての死者は二、〇〇〇人となってい
るが、これにはこの村の死者もはいっているわけ。
 古文書の中に偶然にも、庄屋から代官へ提出された注進
書の下書きがあったので、それによって被害の状況を詳し
く知ることができた。それは「恐れながら書付けをもって
ご注進申上げます」という題目で、次のような内容のもの
である。
⑴年貢皆済目録、年貢金納通(5)、諏訪因幡守検地の水
帳(6)、そのほか庄屋方に保管していた書類はことごとく
山崩れに埋没紛失しました。
⑵陣屋一埋没して家の形も見えません。
⑶郷蔵一なかば埋没しました。
⑷名立小泊村の民家総数九一戸のうち八一戸は埋没し
て家の形も見えません。
四戸は全壊。
三戸は半壊。
三戸は無事。
⑸一般村人五二五人のうち死者は男女合わせて四〇六
人、このうち死体は三八人ほど見えております。この
ほか当日他行中の者はどうなったか不明。
⑹禅宗の宗龍寺は埋没して形も見えません。
⑺浄土真宗の浄福寺と正光寺は半壊。
⑻社家一埋没して家の形も見えず、社人一人死亡。
⑼宮一、堂一、土蔵一埋没して形も見えません。
⑽女馬一〇頭埋没死亡、このうち八頭は宿駅馬。
⑾公儀から渡しおかれた高札七枚埋没。
⑿漁船はことごとく埋没して形も見えません。
⒀このほか□□の家一戸埋没。
⒁□□の男女合計一六人死亡。
 以上当月二五日夜八ツ時から翌二六日明け六ツまで大地
震で、小泊村の裏山下通り長さ一五町ほど、高さ七〇丈ほ
ど、山奥へ五町ほど、海中へ三〇町ほど山抜け突き出し、
ここに書きしるした通り大破しました。今なお地震がゆれ
やまず、追々山崩れ抜け落ちておりますのでご注進申上げ
ます。
四月二七日 小泊村 庄屋右八
富永喜右衛門 御役所
この文書には山地の崩壊に対して山崩れと山抜けとの二種
の語が使用されている。項目⑷によれば、民家のほとんど
全部が埋没、あるいは倒壊しており、⑸によれば村人のう
ち八〇%ちかい人が横死している。高田地震の全震域を通
じての死者二、〇〇〇人のうち、その約二〇%を名立小泊
が占めているわけ。
 山崩れの長さや高さ、あるいは奥行は実際よりも三〇~
五〇%ぐらい大きく書かれているが、火急の間に作製され
た書類であってみれば無理もないことだし、全体としてみ
てなかなか冷静な報告書であるといえる。
五節 死者と生存者
 注進書にしるしてある死者の数は一般村人四〇六人、□
□が一六人、社人一人、合計四二三人であるが、このほか
に別の文書によれば宗龍寺に五人の死者があったから、全
体で死者は四二八人となる。
 次に生存者数は、地変の翌月庄屋から代官へ提出した文
書の一節に「天命にかない不思議にも命の助かった者は僧
俗男女合わせて一三七人」としるしてあるので問題はな
い。ただしこのうちには宗竜寺、浄光寺の生存者一六人が
あるから、一般人だけをみれば一二一人生残ったことにな
る。この数は、注進書から割出される村人の生存者数すな
わち525-406=119人とは二人ちがう。このくいちがいは
何によるものか不明である。
 なお文書上から推定すると、一家全滅した家は六右衛
門(7)、長三郎、八左衛門、七衛門、三郎左衛門、源右衛門、
久右衛門の七戸だけであるが、このほかにも多数あったら
しいことは死者総数からも想像できる。
 さて以上にしるしたように生存者は全体で一三七人あっ
たのに、地変後何年かたったころの文書には生存者は一〇
〇人ほどと書かれ、また地変から二六年後の文書には、海
中からはい上がった九人の者が生存者の全部であったよう
に書かれている。一節にもしるしたが、地変後三七年たっ
て南渓が土地の人からきいたところでは、生存者はただ一
人ということになっている。つまり年がたつとともに生存
者数は少なくなり、事実を隔たること遠くなるわけだ。
 ともかく、一ヵ所の山崩れで四二八人という死者を出し
たことは、史上ざらにある例ではない。大正一二年の関東
大地震の時、根府川谷の山津波で根府川部落はほとんど全
滅し、無事だった家は数戸にすぎず、約五〇〇人の死者が
出た。この山津波の根源は谷をさかのぼること約六粁、海
抜約五〇米の位置に起こった山崩れであるが、実際には数
ヵ所からの崩土が合流したものらしいという(8)○
 一八〇六年の多雨の夏がすぎた九月二日に、スウィスの
ゴルダウGoldau付近の山が崩れ、崩土が谷底に広がっ
て、四つの村(人口四五七人)を埋没した由であるが(9)、こ
れは地震のために起こった山崩れではない。
六節 幸運な人々
 前記の生存者一三七人はともかく命拾いをした人たちで
あるが、このうちには山崩れの崩土とともに海中へたたき
出されたが浮かび上がって助かった九人も含まれている。
もっともこの九人の者は地変の翌月になっても半死半生の
状態だったという。
 庄屋右八は地変の当日、村から二〇粁ほど西方にある梶
屋敷村の陣屋へ出張していたので助かったが、彼の家族は
全滅した。彼はすぐ帰宅したわけであるが、この大災害を
目前にしながら、役目柄とはいえ詳細な注進書を書いてい
るのは感嘆すべきか。
 曹洞宗の宗龍寺では住職の超倫以下五人が横死し、死体
も見えない始末であったが、弟子に貫之という人があっ
て、ちょうど当日他行中だったので命が助かった。そして
同年九月三〇歳で、壊滅した宗龍寺を再建することにな
った。この寺の開基は永禄年間のことで、越前の僧侶輝山
和尚が越後を行脚した際、名立小泊村市右衛門(右八の先
祖)方に一宿をもとめたのがそもそもの端緒だったとい
う(10)。
 久右衛門の娘みよは直江津の又三郎のセガレ彦右衛門に
とついでいたが、地変当日子供をつれて里帰りしていたと
ころ、久右衛門らはことごとく横死したにかかわらず、み
よ母子は不思議に助かった。そして翌々年の四月みよ夫婦
は子供をつれて久右衛門家を相続することになった(こう
いう絶家の復興は後節と関係が深いのでとくにしるす)。
七節 街道の破壊
 名立小泊村は隣接の名立大町村と共に北陸道の宿場をな
していたが、山崩れのため交通が断たれたので旅行者は遠
く中山道を回ったりした。越中旧事記によれば「利幸公ご
帰城時節のところ、越後大変のため通路なく、お願いによ
って同八月中山道を通りご帰城」としるしてある。また金
沢藩でも名立崩れの報に接して驚いたようで、前田金沢家
譜(11)には、次のようにしるしてある。「五月二日重煕、大将
軍から賜わった鶴を料理して、物頭以上をもてなし散楽(12)を
見せた。楽の中途で、前月二五日夜越後の地大いにゆれ
名立から高田に至る地域に圧死者が多く出たとの報がはい
った。重煕これをきいてすぐ席を立ち、急に健脚に金をも
たせて出発させた。これは江戸へ向かって出張中の藩臣で
遭難した者があるかどうかを調べさせ、かつ旅費を支給さ
せるためである。数日後に使者が帰藩して、藩臣で遭難し
たものは一人もないと復命したので、ようやく重煕の起居
が平静になった。このことをきいた者はみな感激して喜ん
だ」。
 これでみると前田公の名君ぶりがわかるし、また名立崩
れのニュースが金沢まで伝わるのに一週間もかかったこと
もわかる。
八節 耕地・山林の被害
 地震前年の寛延三年に上納した年貢は、皆済目録によれ
ば米三二・二六八五石であったが、地変の年の年貢割付け
帳によれば米四・二四三五石となっており、災前の約一三%に減じられている。この両年における年貢割付け高を比
較してみれば(詳細は一二節)、耕地や山林の破壊した程
度がほぼわかるわけで、つまり田畑それぞれ災前の一三%
ぼかりに減少し、山林はほとんど損じなかったらしい。当
時どれほどの耕地や山林があったか明瞭を欠くが、地変前
六八年ごろの面積は、
田 四町四反八畝一六歩(13)、畑 九町四反三畝三歩、合計
一三町九反一畝二九歩
となっている。
 宅地については、長さ一二〇間、幅二五間、すなわち
三、〇〇〇坪が崩土堆積のため荒廃したと報告きれてい
る。天和の検地帳には宅地の面積一町五反九畝二九歩とな
っているから、全体の三分の二ほどが埋没したことにな
る。
九節 餓死寸前
 地変が田畑の仕付けに取りかかる直前であって、農家に
は貯えの少ない時期であったことも、困窮の度を大きくし
たにちがいないが、たとえ食料などの貯えが十分にあった
としても、大多数の家が崩土に埋没したのであってみれ
ば、けっきょくは同じ結果になっただろう。家も財産も大
波のような崩土におおわれ、あるいは海中遠くたたき出さ
れてしまったので、命の助かった一三七人の人も即日から
餓えに悩まねばならなかった。文書には「命が助かったと
いうだけのことで、着のみ着のままであって何事をなすす
べもありません」とか「このたび不思議に命の助かった人
たちも、立っているだけであって何ひとつ品物もなく、こ
とに田畑は残らず損じてしまったので身の立つ所もなく路
頭にまよっておりますので、身命落着のお救いを願上げま
す」とか「ただいま命の無事な者は、小泊村地内には小屋
掛けする場所もないので名立大町村の裏に少々の小屋を掛
けて住んでいますが、その日その日を送ることもむつかし
く餓死しそうな状態であります。どうかご慈悲に、生残っ
た者が命をつなげるようお救い下さい」ともしるしてあ
る。さらには「田畑とも仕付けざかりになりましたが田に
は苗などありません」とか「このたび山崩れのため船一三ソウ埋没し一品の道具もありません」とも書かれ、農業に
も漁業にもぜんぜん手が出ない状態となったことがわか
る。その上さらに飲料水にまでも困る始末で、それは「こ
のたびの地震で飲み水は一滴もなくなりました」としるさ
れた文書からわかる。
 こんな状態であったため、地変直後に他郷へ稼きに出る
者も少なくなかった。そのことは庄屋から代官へ提出した
文書に「ようやくにして生残った人々のうち四十人ほどは
他所へ奉公に出てしまいました」と書かれていることから
もわかる。ただでさえ少ない生存者(一三七人)のうち四
〇人もが出稼ぎに行ってしまったため、あとに残ったのは
労働力のない老人や子供ばかりで、このことは村の荒廃を
いっそうひどくした。「ようやくにして作場などへ出た者
は男女七、八人であります」としるした文書もある。
一〇節 救済および復旧の出願
 寛延四年五月という日付けをもって庄屋右八と百姓三人
の連名で、富永喜右衛門役所あてに提出された、救済およ
び復旧の願書がある。その要点。
⑴北陸道の道路。名立小泊村地内長さ一七町三八間の
うち、このたびの地震で山抜けが生じ、道の長さ一一
町四八間は大石大岩で山の如くになりました。これは
北陸往還のことゆえ復旧して下さるよう願上げます。
⑵宅地。長さ一二〇間、幅二五間の区域は崩土に埋没
したので、これを切取り地均らししたいと思います。
なお砂利や石を持込んで地面を固め、家を建てられる
ように工事して下さるよう願上げます。またこんどの
地変で飲料水がぜんぜん出なくなったので、部落裏の
険しい山から水を引く工事もお願いします。
⑶波よけ石垣。長さ十七町三〇間、高さ平均一〇尺を
工事をして下さるよう願上げます。
⑷人家二五戸。ただし間口四間、奥行六間の家で、こ
の費用は一戸につき一五両として合計三七五両。農作
や漁業を営むには家が手狭では困りますし、その上風
雪のひどい土地柄ですから、弱い建て物ではつぶれて
しまいます。ことに建築資材はすべて遠方から買って
くるので経費がかさむわけです。
⑸漁船五ソウ。この費用は一ソウにつき四一両二分と
して合計二〇七両二分。なお一ソウ分の経費の内訳
は、船と諸道具一式で二〇両一分、漁具一式二一両一
分。
⑹農具代。一戸につき一両として合計二五両。
⑺家具と小道具代。一戸につき二両として合計五〇
両。
⑻諸役および諸税の免除。小役永(14)、エゴマ代永、大豆
納、浅草蔵前入用、川役などは本年から免除して下さ
るよう願上げます。
以上の願書を通覧して感じられる点は次の通りである。
⑴救済や復旧の計画は周到に考えられており、たとえ
ば家具や小道具の類は詳細に列挙されている〔上記の
⑺には品名を省いた〕。
⑵諸役諸税の免除を出願しているのに、本途米(15)にふれ
ていないのは、当然この年に全免されることを予想し
たものか。
⑶家や漁船の再建に要する経費、家具代や農具代など
もすべて高額を出願している。家は文書に「小屋掛け
家」と書いてはあるが、一戸の間口四間、奥行六間と
いう大きさである。
⑷出願の基準として戸数を二五としてあるが、当時こ
れだけの人がいたかどうか疑わしい。一般村民は一二
一人生残ったが、その後他郷へ出稼ぎした者も多いの
で(九節参照)二五戸の人がいたとは考えられない。
また後節でも述べるが、地変の年の一二月に村人から
庄屋へ提出した書類には一三人しか署名しておらず、
これは一三戸の代表者と認められるから、このほかに
庄屋右八を加えて全戸数一四となる。地変直後には二
五戸に属する人が生残ったのかも知れないが、その後
人口や戸数が減少した。しかし出稼ぎ人が近い将来に
帰村して絶家を復興することを見越して実数以上に
(二五戸として)見積もったものであろう。
⑸出願書の調子からは、救済をゆるがせにすると一村
離散してしまって役所の立場としても不利であろう、
という意味が十分に汲取れる。たとえば漁船再建の項
で「右の経費をご下付なさったならば、当年から船税
として永一貫文を上納いたし、それ以後は年々税金を
増して上納したいと思います。このたびこの手当ての
下付がなければ、生存者は離散して一村は跡形もなく
滅亡します」としるし、また農具代の項では「願いの
通りにおきき下さったならば、精出して崩土を掘起
こし一畝一歩なりともご供進申上げるつもりでありま
す」としるしてある。なおまた「一村復興して戸数人
口が多くなり、田畑がだんだん復旧されました節は、
これらの諸税を納めます」とか「身命の限り精出して
一村を復興し、税金も年々増して納めたく存じます」
などとしるした個所もある。
 当時の封建制が農民の納める年貢や税金の上に成立
つものであったことが、この願書の行間からよくうか
がえるわけだ。
一一節 救済の実際
前項のような出願に対して役所の救済がどの程度に行な
われたか、という一事はなかなか興味ある問題である。こ
れに関する事項の要点。
⑴扶食米代金一三両一分、一二五匁五分(16) これは宝暦
二年(地変の翌年)以後二〇カ年々賦で返済する約束
で貸下げられた。実際は一カ年に六六八文八分ずつ七
カ年続けて返済したが、宝暦九年度には残額を全納さ
せられている。年賦の年限を繰上げた理由は不明。
⑵農具代金一〇両二分 これは宝暦二年から一〇カ年
々賦で返済する約束で貸下げられたが、一カ年に一貫
五〇文ずつ七カ年続けて返済し、宝暦九年に残額を全
納させられた(繰上げの点は前項と同じ)。
⑶漁船代金二五両二分 これは宝暦三年以後一〇カ年
々賦で返済の約束で貸下げられ一カ年に二貫五五〇文
または二貫五〇文ずつ返済させられた。
⑷宅地復旧費三四両余 これはぜんぜん給与されたも
のらしく、地変後数十カ年の皆済目録をはじめ、ほか
の文書にもこれを返済したことは見えていない。
 積極的救済策としては以上にしるしたものだけである。
この四口の合計は金八二両五分、永一二五文五分となり、
出願額合計六五七両二分に対して一二%強に当たるにすぎ
ない。両者の開きがこんなに大きいのは、救済の不十分に
よるわけだが、いっぽう出願に掛け値がなかったとはいえ
ない。また出願された防波石垣は築造されたふうがない
し、家具代や小道具代も下付されなかったらしい。飲料水
を引く工事も役所の復旧事業としては行なわれなかったも
ようである。なお年賦の繰上げ返済が、実際上どんな方法
によってそれが可能であったのかわからない。
一二節 本途米その他の減免
 これは地変の年の年貢割付け帳と地変前年のそれとを比
較対照すれば一目瞭然である。もちろん年貢の割引きは田
畑の損亡にもとづく当然の結果であって、被害者の救済と
いえる性質のものではない。
⑴地変の前年、寛延三年の年貢割付け帳によると名立
小泊村の高は九一・四三四石で、これに対する取り米
は三二・二六八五石となっている。これが地変の年に
は、取り米が四・二四三五石となっているから二八・
〇二五石の減免となる。なお取り米の内訳は田と畑と
林とにわかれている。
⑵山高一・二七石に対する取り米〇・五一三五石には
なんらの変化もないから、地変によって山林はほとん
ど変動を生じなかったものか。
⑶本途米以外の諸税諸役にはほとんど変化がなく、た
だ地変の年に船役二貫二〇八文三分が免ぜられただけ
である。ただしこの項に関しては資料不十分。
⑷田に対しては地変の前と後とで税率がすこし変って
いる。すなわち三八・七六%から三一・二五%へとす
こし低下している。畑については率に変化がない。
⑸以上のほか宝暦五年の年貢割付け帳によると、諸税
のうち伝馬宿入用、大豆納、ゴマ代、小役、蔵前入用
などは伺いの上免除となっているが、これが地変と関
連があるかどうか不明。
一三節 戸数の復旧
 地変直後の救済米(その代金一三両一分)に対する受取
り証が残っている。これは同年一二月に、村人から庄屋に
宛てて提出したもので、一三人が署名しており、その人々
の中には、被害の最も少なかった区域(中才という)の人
人でさえ加わっているから、この一三戸と庄屋とは地変後
間もないころの全戸数と考えられる。その一三人は、
清左衛門、十兵衛、四郎兵衛、市太郎、甚左衛門、甚右
衛門、半兵衛、新三郎、安右衛門、太右衛門、紋右衛
門、又右衛門、市兵衛。
 しかしその後戸数はやや急に増加し、宝暦五年には二
三、同八年には二二となっているが、戸数増加の原因は次
のようなものである。つまり名立小泊村がほとんど壊滅状
態となったので、役所では出郷者を帰村させるため種々の
手段を講じた。このことは当時の文書に「所々へ稼ぎに出
た者や奉公に出た者を呼寄せて小泊村を復興するように言
渡され…」としるされ、また同地に現在も残っている伝承
にも「高田の領主を通じて諸国の領主に依頼し、名立小泊
村の人々を帰村させるよう布令してもらった」とある点か
らも明らかである。ここに出郷者というのは、地変直後に
出た者も、地変前に出ていた者も含む。
 かようにして次第に人家が増加するようになったが、い
っぽう生活難などから離村する者も幾らかあって、宝暦八
年の文書によれば、同年までに権兵衛、彦右衛門後家、五
郎七、清七、八兵衛の五戸は他へ転出した。社寺以外の戸
数の増減については第一表と第六図とに示してあるが、も
ちろん漸増の傾向をたどっている。しかし江戸時代には著
しい増加が見られず、とくに幕末ごろにはほとんど停滞の
状態であったが、明治初年以来急に増加した。地変前の戸
数に達したのは大正初年ごろで、実に一六〇年余を要して
いる。昭和一〇年ごろは全戸数一〇四、このうち農業に従
事する者は八〇戸ほどで、これらはたいてい漁業を兼ねて
おり、その他商業や俸給生活者も幾らかはある。昭和三七
年の全戸数は一四四。
第1表 名立小泊の戸数
年西紀戸数
寛延3175091°
宝暦1175114
〃5175523
〃8175822
安永2177332°
寛政3179135×
文化5180846×
文政5182243×
天保6183549×
〃14184350
弘化3184649×
〃5184847
嘉永2184949
安政3185650
慶応1186552
明治3187053
〃24189180
昭和101935104
〃371962144
表中×印の分は宗門帳,○印の分
は五人組印形帳により,無印の分
は別の文書による。
 絶家の跡目を相続するのは肉親か知合いであったが、後
にはなんの縁故もない者が家名だけを継いだ場合もあると
いう。家名をもらったばっかりに、その家の古い借財を返
済させられたという話もある。
次に絶家復興出願の一例を示す。
 私は名立小泊村八右衛門の弟でありますが、大貫村の親
類方へ稼ぎに出ていましたため助かりました。八右衛門は
一家全滅しましたので、このたび親類とも相談の上、彼の
跡目を相続することになりました。この段よろしく役所へ
申上げ下さって八右衛門の跡目を相続できますようご配慮
下さるよう願上げます。
宝暦四年三月
願人 八右衛門弟源蔵(17)
名立小泊村庄屋右八殿
名立小泊村総百姓中
こういう場合には、その家が持っていただけの土地を入手
したが、後年にはそれが行なわれなくなった。広い土地を
持っていた絶家の跡目が早く復興されたのは当然で、無高
者の跡目相続を出願した文書などはない。持ち高七・二五
一石の久右衛門はこの村第二の高持ちだったが、その跡目
は早くも宝暦三年に相続が出願され、その翌年には持ち高
〇・九六三七石の六右衛門、〇・三一一六石の八右衛門
(上掲)、文化七年には〇・五五五七石の七右衛門の跡目
相続がそれぞれ出願されている。
第6図 名立小泊村戸数の変遷
1…寛延3年 2…明治元年
一四節 宿場としての復旧
 名立小泊は隣接の名立大町村とともに、諸大名の参勤交
代の際宿役をいいつけられて来たが、地変後願い出てこれ
を免じてもらった。従って宿役は大町村だけで受持って来
たわけであるが、地変後二五年たったころ、小泊村にも従
前通り宿役を課するよう大町村から役所へ申入れがあった
ので、その旨役所から小泊村へ通告した。しかし小泊側
はその命令を拒絶しており、その理由は次の通りである。
「このたび大町村から、従前通り三分の一当たりの宿役を
勤めるよう申出ましたが、いまだに小泊村には宿役を勤め
るほどの人馬持ちはひとりもおりません。もっとも只今家
数は二九戸ありますが、このうちには、後家女や独身者な
どがおりますので、宿役を勤めうる家はぜんぜんありませ
ん」とか、また「今もって人数が少ないので宿役を勤めて
いては田地の開作はできませんし、従って納税も果たせま
せん」ともいっている。
 ところがその後約一〇〇年たった慶応二年一一月に提出
した願書によると、宿場として復活させてほしい旨を富山
藩飛脚会所、加賀藩会所、同飛脚宿中宛てに出願してい
る。これはただ戸数が増加して復興がはかどったことによ
るのか、幕末の世情や政情に関する何かの理由があっての
ことか不明。なおその当時の名立小泊村は幕府の直轄地で
はなくなり、高田榊原式部大輔の領分であった。
一五節 耕地の復旧
 耕地の復旧状態を知るために、年貢皆済目録を記載され
ている本途米の石高を調べたのであるが、その結果は第二
表および第七図の通りである。
第2表 名立小泊村の本途石高(18)
年西紀石高
寛延3175032.2685
宝暦117514.2435
〃3・4・56.4765
〃8・9・105.8375
〃1317637.5045
明和317668.2445
〃6・7・89.6505
安永3177410.5075
〃9178012.5795
天明4・5・612.9705
享和1180114.1335
文化7181014.0540
文政6・7・822.4279
天保3183221.3730
弘化5184822.4279
嘉永21849〃
安政61859〃
明治1186823.4681
〃3187023.4385
 年貢の率は年によって多少ちがうが、大局的にはほぼ一
定と考えていい。従ってこの率で年々の年貢米の石数を割
れば年々の石高(生産高)がわかり、それによって耕地面
積の増減が推定される。さて表や図を見ると、もちろん漸
増の一途をたどっているが、これは年々少しずつ荒廃地が
復旧された結果で、このことは年貢割付け帳を見るとわか
る。しかし時には新たに原野を開拓したこともあるらし
い。たとえばずっと後年のことではあるが大正の初期に約
四町歩、大正末ごろ約八町歩の新田を共同開墾したことが
ある。昭和初期ごろには名立小泊の田は約三七町歩、畑は
二〇町歩余となっているが、このうちには近年の開発によ
るものがかなり多い。こんなわけで明治初年頃には、年貢
米の石数は地変前のそれに達しないこと程遠いのである。
 山崩れの崩土堆積地は現在ほとんどみな耕地や宅地にな
っており、荒廃のままで放置されている所はあまり見えな
いが、もちろんこれは次第に復旧された結果であって、宝
暦一三年の文書には「家の近くの田畑跡に白砂のまじった
所があって、そこは地変直後は急には開きかねましたが、
年々岩などが風雨でこなれ草など生えましたので、村民の
うちには少しずつ手入れなどした者もあります」としるし
てある。このようにして崩土の岩塊や土砂なども次第に風
化して耕地となっていった。
一六節 宅地の復旧
 宅地の復旧費として金三四両を下付されたので、地変の
翌年三月から村中人足をもって工事にかかり、秋までには
ほぼ必要な宅地を得たので、それを各戸に割当てたのであ
る。文書には「工事がほぼ完了したので役所へおうかがい
申上げたうえで宅地割りにとりかかりました。生存者が地
変前に持っていた分を水帳によって改め……」としるして
ある。
第7図 名立小泊本途石高の変遷
 しかしこの工事は一村全部の宅地について行なわれたも
のではなく、岩塊累積のままで放置された区域もあって、
そういう場所は必要の生じたつど地均らししたわけであ
る。なおまた地均らしが済んでも家を建てる運びとなら
ず、そのまま放置された宅地もあった。工事の人夫は小泊
や大町はもちろん近在の村々からも雇い、賃金は日々払っ
たと文書にしるしてある。
 その後、下付金がなくなってから宅地造成を行なった者
は、村中人足をもって(恐らく無償で)工事してもらった
ようであるが、地変後二〇年ごろからは「宅地は村を離れ
て自力で地均らしして家作すべきこと」と決定された。と
ころで下付金で工事をしてもらった者のうちにも、家作せ
ずに他へ縁付いたり、離村してしまった者もあったが、そ
のような家の跡目を相続したい者が後年出現した場合は、
幾らかの金(宅地を造成した費用)を村へ納めるか、ある
いはそれに相当する年貢を村へ納めるかしなければならな
かった。
 次に宅地の位置や形は地変前とぜんぜん同一というわけ
にいかない場合ももちろん生じた。たとえば八右衛門の跡
を継いだ源蔵は「宅地を下げ渡して下さるよう村へ願い出
ましたところ、村の浜側の家続きの端を見立てて下さった
が、こうなりましたからには後日に至って家並みのうちに
空地などができても、このたび受取った宅地以外には望み
がましいことは決して申しません」という一札を村当局へ
提出している。この文書は宝暦五年のもの。また彦右衛門
という人は表通りの宅地を浜の宅地と交換させられたし、
このほかにもこういう例が多かった。
 宅地の復旧も後年に至るまでの間にだんだんになされた
もので、名立小泊区長(19)の談によれば「明治初年ごろには冬
季の農閑期に村中人足をもって地均らしして、それを村が
希望者に貸付けた。そしてその年から一坪につき〇・八~
一・〇合ぐらいの割合いで年貢を村へ納めさせた。ただし
地形などの悪い宅地を貸す場合は五~一五年ぐらいの間は
無年貢にしてやった」そうである。
 地変後間もなく復活した家は宅地を私有にしたらしい
が、後に宅地は村の共同管理か総有のような形になり、復
興した家は村から借地したのである。六之亟から村方へ提
出した文書には「清七というつぶれ家がありましたが、宅
地は村支配になっておりますので、この宅地のうち間口
三・五間、奥行一〇間を借地して家作しました。もちろん
宅地年貢として米三升八合ずつ年々納めて来ました」とあ
って、当時の空地は村支配であって、借地者は坪一合前後
の年貢(屋敷冥加)を村へ納めたことがわかる。しかしい
つのころからか、次第に村から買受けて私有となし、現在
ではほとんど全戸の宅地は私有になっているらしい。
一七節 暗い話
 災害復旧や救済などに乗じて悪事を働いた者があって、
そのため紛争の生じたことはいくつかの訴状によって知る
ことができる。たとえば漁船代十六両余が渡された某氏が
その金を私消してしまい、再三船子から催促されるのでい
たたまれず、どこからか破船を拾って来て当面を取りつく
ろったが、その船で出漁したところ間もなく浸水して危険
となり直ぐ引返した。災害そのものがはなはだ暗い話なの
に、それに関連してこういう暗い事件の起こりがちなのは
昔も今も大した変りはないらしい。
 暗い話といえば、すでに述べたように災害に対する救済
があまりにも手ぬるい点もわれわれを暗い気持ちにさせ
る。出願に対して実際の下付金がはなはだ少額で、しかも
それは年賦で返済させられており、その年賦の期限が繰上
げられているといった状態である。ともあれ封建制の苛酷
さを見せられた感が深い。
一八節 荒廃地の処置
 庄屋からの注進によって災害の状況を知った代官は、ま
ず名立小泊村の耕地と宅地のうち破壊された分を調査して
報告するよう庄屋に命じた。しかし庄屋右八は一命だけは
助かったものの、その前年の秋に家督を継いで庄屋職につ
いたばかりで、地所のことは詳しくは知らないし、いっぽ
う生在者の中にも耕地の事情などに精通した者は皆無であ
ったため、はなはだ困ったのである。生存者がもしかなり
の高持ちであったら、耕地の事情もよくわかったであろう
が、庄屋を除けばほとんど無高に近い者ばかりだったの
だ。地変前年の三月に作製された五人組印形帳によれば、
生存者の持ち高は次のようなものである。
 善後策の第一歩として代官は災害地を検分し、引き高
(減免分)をいい渡した。地変の翌年秋には天和三年検地
の水帳を写して下付した。右八の文書に「すでに一村壊滅
にひんしておりましたが、段々お願い申上げましたとこ
ろ、これほどまでに復興計画をお立て下さいまして、庄屋
儀はとりわけ有難く存じ上げております」といったふう
に、いろいろと役所の指導などもあって荒廃地も次第に掘
起こされ人家も復活され、年貢も増加していった。
庄屋右八34.8544石
半兵衛0.0825石
兵十郎0.1185石
安右衛門0.0□□□
市兵衛0.1843石
太右衛門0.0□□□
清左衛門0.2224石
市太郎不明
紋右衛門0.264石
甚右衛門0.1163石
新三郎0.3078石
又右衛門0.1211石
甚左衛門0.14994石
四郎兵衛0.9913石
 地変に生残った人々が、地変前に耕作していただけの土
地を自分のものとして取ったことはいうまでもない。また
絶家を相続した人々が、その家が地変前に耕作していただ
けの耕地を取ったことも明瞭である。しかしこういう場
合、地所の位置などはもちろん災前と同一というわけには
いかなかった。
 ところで絶家の耕地は、役所の指示に従って村中支配と
し、その耕地のうちから次第に個人持ちの耕地を分与して
いった。しかし後には、絶家の復活があっても耕地を分与
せずに、一村の総有としてそれを割替えるようになったの
である。文書には「死絶えた家の田畑などもありますが、
地震の年から村中支配にいたし、村方の者に限らず他村の
者共へも小作させ、小作米を取立てて年貢や諸役上納いた
して来ましたが…」としるしてある。そしてこの共同管理
の耕地のうちから、絶家の跡目相続者が出現するたびに、
次第に私有地としての地所を分与していったわけである。
 要するにいっぽうには私有地を耕作する者があり、他方
には村の共同管理の地所があったわけであるが、前者は次
第に増し、後者は次第に減少していったことはいうまでも
ない。ところで地変後二〇年になって割地制度を施行する
ようになったのであるが、そのことは次章に詳しく述べる。
注1岡本綺堂 名立崩れ 新小説(大正三)一月号
2文化二年没
3越中史料第三巻による
4松沢武雄 地震 岩波書店(昭和一七)
5かよい
6土地台帳
7敬称略
8今村明恒 震災避難心得 防災科学第二巻 岩波
書店(昭和一〇)
9Terzaghi,K.Mechanism of Landslidesその他
による
10すべて古文書による
11越中史料第三巻による
12猿楽に同じ、能楽の旧称
13歩は坪。一歩は0.03306アール
14永は銭
15田畑から納める年貢
16両・貫・文・分などを現在の金額に換算すること
は不可能
17本人のほかに三人署名
18本誌にのせたほかに多数の資料がある。
19昭和十年ごろ
出典 新収日本地震史料 第3巻
ページ 445
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
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