[未校訂]一 宝暦の大震
寛延四年(宝暦元年)(一七五一)四月二十五日夜越後国
西部地方に起った大地震即ち善光寺地震帯の大活動は所謂
「宝暦の高田大地震」と言はれるもので震源は高田市附近
であったが其の震域は随分広範囲に亘り特に西方に遠く延
び富山市に迄及んだ吾国の歴史的大地震の一つである。当
時の事を書いた物には慶弘紀聞(慶長より弘化迄十三朝二
百三十余年の主なる我国内の記録)
巻五、桃園天皇之部に
○宝暦元年二月京師地震。
○四月二十七日、帝始読紀伝、大内記菅原家長侍読。
○二十五日夜越後高田大地震、廬舎尽壊山崩湧水、圧死者
一万六千三百余人。
と記載されてある。又名立町史の調査では
本町の地貌に変化を変へたるは清和帝貞観五年(八六三)
六月十七日の大地震の際越後中最も甚しく、陵谷形を異
にし死者負傷者を多く出したる由、降って後柏原帝文亀
元年(一五〇一)十二月十日今の直江津近傍大震災にて
人家の倒潰人畜の死傷数多あり。近くは寛延四年四月二
十五日当地方大震災高田領下最も甚だしく、城下の潰家
三千三百三十二戸、死者三百六十一人、市内数ケ所より
出火あり。附近の被害村落百七十ケ村にして領内全部を
計算する時は潰家焼失合して六千八十八戸、死者千百二
十八人、領外附近を調査するときは潰家九千百戸、死者
千七百人ありて本町小泊の全滅も此の時なりき。
と述べて居る。尚滝川善兵衛氏の記録では
榊原様御領中頸城郡之内未之四月二十五日之夜八つ時大
地震損害之覚
一死者 五百五人 但し内五人他所之者僧俗男女共
一死人分 三百二十六人 但し僧俗男女共
一〆 三十三人
と三口に分けて書いてあるがこの合計は八百六十四人とな
るが此の内には天領分は入って居らぬ。又
一怪我人 二百六十四人 但し生死不定
一潰家 二千九十九軒
一寺院 六十九ケ寺潰
一社家潰 五軒
一修験道潰 八軒
等と記録されてあり各書共数は必ずしも一致しないが大勢
を察する事が出来る慶弘紀聞の死者一万六千三百余は死傷
者の合計としても非常の大数であるが一桁間違ったのでは
無いかと考へられる。
此の大震に鳥が首の先端江野崎が大断層を起し名立小泊が
殆ど全滅したのである。
序に中頸城郡郷津の奥にある岩[殿|と]山の岩殿の窟とて国宝大
日如来堂の西に大国主命と奴奈川姫の神蹟と伝へられて居
る集塊岩の一枚石の大岩庇が出て居って下が洞窟になって
居たのが壊け落ちたのも此の時の地震であると言ふ者もあ
るが、自分の調査では善光寺地震の時であって此の時では
ない。善光寺地震とは
○弘化四年(一八四七)三月二十四日夜信濃地大震民屋壊
倒。丹波島稲荷山二駅災。時善光寺開龕遠近来拝、圧焚
死者三千余人。
と記録されて居る時の地震を言ふのである。此の大岩庇が
落ちて仕舞ったので窟の実質を失ったのは実に残念の至り
であるが此の時岩庇に押倒された儘石の下から斜に生えて
居る椿の細いのがあるのを見ても、宝暦の地震ではない。
宝暦ならば今年(昭和十五年)から丁度百九十年前である
が、弘化四年は九十三年前となって、百年間の差が樹齢に
見られる訳であるからである。
二往古の鳥が首岬
鳥が首岬は名立川、桑取川の水源をなす粟立、三峰等の山
山の尾根が北に延びて来て名立村大菅の東部で一旦標高二
百米に下り更に頭を上げた様に高さを増し三百十三米五と
なり下って段を作って海に入る其の形が遠方から見ると鴨
等の鳥の首を平に置いたのに似て居るからつけられた名称
であるが大断層の場所は実に其の嘴の先端に当る場所であ
る。
此の鳥が首岬は啻に名立町のみならず越後文化史上幾多の
遺蹟を存する所で乃ち大国主命を奉祀したと考へられる龕
ケ峰があり附近からは石器が発掘される事から見て有史以
前から此の山上に居住して居たものである。往古名立の住
民は皆此の山上に居住し逐次北方崖上に増加し今日の谷浜
村の茶屋ケ原とも続く位であったと考へられる。茶屋ケ原
の古字は千屋ケ原であるのから見ても又其の茶屋ケ原に邸
宅を持った城氏(現青木氏)の居城日の入城が鳥ケ首の山
上今日の地名日の八(入の文字を八と誤記せしより来た間
違)と称して長者ケ原にある点から考へても此の台上は人
家も相当稠密で長い年代繁昌して居たと思はれるのであ
る。
此の日の入城は越後平氏の祖である余吾将軍平維茂四世の
後裔奥山太郎永家の孫である、城鬼九郎資国の曾孫城基知
の居城である。基知は承久の変には後鳥羽天皇に属し越後
守北条朝時が大兵を率いて京都に向って北陸道から進軍す
るのを越中の宮崎定範、信濃の仁科盛遠と聯合して市振
(当時蒲原)に戦ったが朝時の奇計にかゝって大敗した事
は吾妻鏡や承久記にも見えて居るが後帰へって日の入城に
入ったのである。承久三年(一二二一)順徳天皇が佐渡へ
御遷幸の時は天皇を名立の磯山寺に迎へ奉ったのである
が、此の磯山寺を今日の名立寺とした越後風土記は誤りで
あって観月被遊た点から考へても当時の住家の状況から考
へても此の鳥ケ首山上の位置であると思はれるのである。
今でも山上の寺山又は小丸山と称する所には寺院の残墟が
あり燈籠石等も出で字浜平方面には石地蔵があり四海波崖
上にも大寺があった事は茶屋原方面の人が確実に知って居
て当時の土器が発見されて居るのである。
基知は此の時天皇に奉仕を願ったが天皇は御允許がなく御
出発の際彼が実宅である茶屋ケ原の邸にて御小休遊ばさ
れ、玉座(屋敷全体)の四隅七五三繩を張った柱跡に青木
(たぶ樟)四本を植ゑられこれを姓として記念せよとの勅
があった。基知感奮して長浜に奉送し爾来青木姓を名乗り
勤王を以て家風として世を終った。此の青木は今日昼尚暗
い迄に繁茂して居て明治天皇の天覧を忝ふしたのである。
青木氏の忠誠も北条氏の盛事には現す事が出来なかったが
彼の曾孫青木右馬介、五郎右衛門、七郎右衛門は延元正平
の間新田義貞に属し転戦苦闘王事に努めたが藤島にて義貞
戦死後は復屛息の已むなきに至った。
爾来二百有余年青木兵衛尉茂明(附記 青木兵衛尉茂明は
通称青木新兵衛と称せしも、阿閉掃部と関係ある新兵衛は
他書に本名正玄とあり青木家にも新兵衛数人有るものの如
く、尚研究中。)に至って上杉謙信公の客将となり二万三
千石の采邑を賜り中頸城郡金谷村青木に陣屋を置いたが鳥
ケ首山上日の入城附近の土地は矢張り其の領地であったの
である。これが駿台雑話に阿閉掃部と共に出て来る有名の
武士である。
上杉景勝会津移封と共に茂明も従ったのであるが其の出発
の際此の鳥ケ首山上の旧日の入城字宇山の四十七町歩を茶
屋ケ原と吉浦村民に与へて去ったので土地は谷浜村である
が今日名立町及び小泊村民の開墾して耕作して居る町の御
台所とも言ふべき山上の良田がそれである。
斯くの如く鎌倉時代迄は鳥ケ首山上に名立の町はあったの
であるが此後名立小泊及び名立大町の平野が出来逐次移住
し慶長年間には悉皆現住地に転住を終ったのであって、大
震災の有った寛延年間頃は岬の小泊の大部落が出来山上に
は一軒の住家も無かったのである。
三断層地形と地質
北陸線名立駅の南方から東方に延びて一大断崖があるが、
これが即ち宝暦の震災の遺跡である。此の断層面は停車場
附近に於て殆ど垂直の直角三角形面を示し高さ最高百六十
米に達し東するに従って其の高さを減じて居るが鉄道線路
に添ふて延長約一粁半は有らうと思ふ。
停車場の直ぐ裏では大断層の前方に更に高八十米位の小山
が断面に並行して西に高く東に低く横たはって居て其の中
間は峡谷になって居て畠があり、小池もある。此の前の小
山の事を土地の人は棚と呼んで居るが、是は崩壊堕落した
山体の一部である。此の棚と海岸との平地に名立駅があり
又耕地も少しはあるが岩石の大塊が所々に転って居る所も
ある。これは震災後に出来た堆積物の小丘を均して出来た
ものであるが震災以前は山脚が直に海に迫って其の間に小
泊の街村式聚落即ち一本町が漸く出来た程度のものであっ
たらうと考へる。東遊記にも
上下(名立)ともに南に山を負ひ北海に臨みたる地な
り。
とあるのを見ても察せられるのである。
岩塊が遠く押出したのは小泊村字大泊地内で現[日前|ひのくま]神社の
東北方で町中まで突出して居て其の一大塊の上に無縁塚即
ち供養塔が建って居る。又鳥ケ首岬の頂上に立って澄み渡
った海底を見ると現在の海岸線から多少放射形に数条岩石
を押出した跡が見え可成沖の方迄行って居る。海も随分浅
くなった事と思はれる。
此の鳥首岬の地質は地質学上第三紀層に属する頁岩、砂岩
の類で頁岩の間に厚礫岩の層を挾んで居り其の層の情況は
断崖の中腹に縞をなして明瞭に露出して居る。礫岩層の厚
い所は五米にも及び径一米に近い大礫をも含有し粗粒の砂
によって硬く膠着されて居る。此の礫岩の下に粗粒の砂岩
の厚い層がある。此の頁岩、礫岩、砂岩が垂直的になだれ
落ち特に礫岩の大塊が多いであるから災害を一層悲惨のも
のにしたのである。海中から引上げて今日迄残って居る宗
龍寺の梵鐘面に印された凸凹を見ても当時の情況が偲ばれ
るのである。
四名立崩に関係ある古文書目録
昭和十年二月五日名立町小泊小林実氏の土蔵中より発見し
たる物である。
古一、古五等は古文書の第一号、第五号の意味で本文の引
用符である。
古一 「乍恐以書付御注進申上候」と題し当時名立小泊村
の庄屋であった池垣右八が当日梶屋敷の御陣屋に行き
宿泊した為命が助かったが此の大変に馳せ帰り災害調
査の上翌日代官所に注進した二十七日付の第一回目の
報告であって公文としては最古のものである。
古二 「差上申一札之事」と題し第二回目の災害情況報告
に併せて救恤方の歎願書である。
古三 庄屋及百姓総代から御役所に出した詳細の災害報告
に併せ救恤金額も見積りした請願書であって翌月提出
の物である。
古四 「預申一札之事」と題し埋没絶家の相続願であるが、
此の種は数十通有ったが代表的に海中へ突出されて命
が助かった因縁で其の家を相続したいと言ふのと他郡
から来て相続したい者に先方庄屋が証明したものと二
通を選んだ。前者は災後三年目のもので後者は四年目
のものである。
古五 「未御年貢可納割附之事」と題し御役所から庄屋へ
来た御達しで年貢米夫役等詳細に記してあり震災前年
のものと当年のものと災後二十五年目のもの計三通で
あるが猶地震山崩の為めの割引及び復興した田畑の石
高が明記されている。
古六 「乍恐以返答書奉申上候」と題し震災から二十六年
後に名立大町から御役所へ「小泊も復興した様である
から震災前同様問屋場勤めを命じて貰ひたい」と願出
たに対し役所から小泊へ照会があった其の返答書で
「未だ復興しないから免除を願ひたい」と陳情して居
るものである。
古七 「乍恐以書付御願奉申上候」と題し震災から百十五
年後の慶応二年に庄屋と問屋役と惣代とが連名で「問
屋場勤め申したい」との願書である。前文と対照して
興味あるものである。
其の他散見之句
五古文書により調査したる名立崩
一大震山崩年月日及時間(古一)
大震のあったのは紀元二千四百十一年寛延四年四月二十
六日であって当日午前二時から午前六時迄先つ大震があ
った。「当月二十五日夜八ツ時より翌二十六日明六ツ時
迄大地震にて」とあるが夜八ツ時は又丑の時とも言ひ今
の午前二時であるからすでに二十六日であり六ツ時は午
前六時の時刻である。所が此の大震を普通「宝暦の大地
震」と言ふのは寛延四年は十一月二十七日に改元になっ
たので後世其の年全部を宝暦元年と呼ぶ様になったので
ある。即ち紀元二千六百年から数へて正に八(百脱カ)十九年前で
ある。
此の地震は翌二十七日も引続き尚数日間震動した事は二
十七日付の「今以地震入止不申候、追々山崩抜落候ニ付
御注進申上候」報告で明瞭である。
二崩壊埋没区域(古一、古二)
1断層面の幅円及び高さ
断層面は今日でも一粁半以上の跡が明瞭に見られるの
であるが(古一)には長十五六町程と述べてあり又其
の高さは七八十丈程とあるが陸地測量部の五万分ノ一
の地図によれば前記の通り百六十米位で五十余丈とな
るが或は斜面の長さを言った物であろう。
2海岸から断層面の距離と海中へ突出距離
今日地図で断層最高点から海岸線に直線的に測ると四
百米約三町半の距離となるが(古二)「山奥二三丁所々
より四五町程崩抜」と報告して居るのは当時海岸には
抜土が多かったらうから大体正しいと思ふが海中へ突
出した距離については(古一)には三十町程とし(古
二)には「海中へ五町、十町、或は二十四五町築出」
しとあるが非常に遠距離と思はれるが之は濁水が漲り
流物の浮動して居た距離と考へられる。
3埋没宅地の坪数と田畑、山林、雑種地(古三)
長百二十間幅二十五間の所が埋没したと記されて居る
が此の計算から言ふと坪数三千坪即ち一町歩の宅地と
なり試みに街道幅三間を除き道の両側に配置して見る
と埋家八十軒余であるから間口三間奥行十間一戸三十
坪余の平均となる訳である。天和三年の検地帳には屋
敷の面積は一町五反九畝二十九歩となって居り一町歩
引去った残りの五反九畝余が非埋没家の面積であるか
ら大体正鵠を得て居るものと言はねばならぬ。
田畑、山林、其の他雑種地等については記載した物は
見当らないが天和の大水帳の年貢米から計算すると大
体左の通りとなるのである。尤も天和三年は此の震災
より六十八年前であるが年貢米に変動がないから面積
にも変動が無いと見て大体間違ひないと思ふ。
天和三年検地水帳
一田方 四町四反八畝二十六歩
分米 六十一石五斗四合
一畑方 九町四反三畝三歩
分米 二十八石九斗三合
一山高 一石二升七合
高都合 九十一石四斗三升四合
田畑合計 十三町九反一畝二十九歩
右によって計算すると年貢米は左の通りとなる。
田一坪ニ付 米 四合六勺弱
畑一坪ニ付 米 一合
これによって宝暦元年の御年貢割付を計算すると
三十七石七斗九升九合 当未地震山崩引
十一石二斗六升二合 当未地震川欠引
計 四十九石六升一合
とあるから
田、地震山崩の部は 二町七反三畝二十七歩
田、地震川欠の部は 八反一畝十八歩
計 三町五反十五歩
となり従来の田面の七十九パーセント即ち約八割を失っ
た事になる。
又畑は
二十五石六斗九升五合 当未地震山崩引
とあるからこれを計算すると
畑、地震山崩の部は 八町五反六畝十五歩
となり震災前に比して其の九割を失った事になる。
山高に対しては震災前後変りがないが崩れ落ちた土地は
山でなく畑であったかも解らぬし又もとからの絶壁で山
としては前から年貢を取らなかったかも知れないのであ
る。
4北陸道往還埋没距離(古三)
小泊地内の北陸道往還は実測長十七町三十八間あった
中今度の大地震で此の中十一町四十八間、約一千三百
米の距離が大岩石で山の如くなったと明記されてある
が殆ど全滅不通の状態となったのである。
三埋没軒数(古一)
名立小泊の民家惣家数は当時九十一軒であったが其の中
八十一軒埋没した。外に寺が一ケ寺、社家が一軒、××
が一軒で何れも「家形相見不申候」と述べて居り合計八
十四軒である。非住家の方では御陣屋一ケ所、同蔵一ケ
所(これは半分埋没)、宮一ケ所、堂一ケ所外に土蔵四
ツが明記されてある。
寺一ケ寺は即ち禅宗宗龍寺であって江崎山と号し本尊は
釈迦如来で永禄二年の創立である。此の時住職十三世絁
峯和尚(一本に超倫)以下五人が惨死し死体も遂に見当
らなかったが貫之といふ弟子一人他行して助かったと言
はれて居る。当時の梵鐘は岩石に挾まれて海中に突き出
され明治初年頃迄沈没して居たが漁者が之を発見して拾
上げ寺へ納めて現存して居る。其の表面には大きい凸凹
が印されて居る。俗に龍宮より奉献の鐘といはれて居
る。
前記宮一ケ所は[日前|ヒノクマ]神社の事と思ふが別本に諏訪神社も
共に埋没したので震災後両社を合併明和三年六月勧請し
たのだと記してある。
察するに一社は宮造で一社は祠様の物でお宮と言ふべき
程の物ではなかったのでは無からうか前記一ケ所と記し
た宮は其の宮造の方だけを挙げたものと思はれる。名立
町史には一社は越王所(地字名で又神社名)に祀られて
あって震災以前に既に社殿がなく龕か記念樹があったら
うが其の時埋って仕舞って解らぬと述べて居る。
四倒壊軒数及無難軒数(古一)
惣民家数は前記の通り九十一軒の所埋没八十一軒の残り
の内四軒は本潰となり三軒は半潰となり別に寺二ケ寺も
亦半潰となったのだから合計九軒である。非住家の記載
されたものはない。それで完く無難の軒数は下町寄りに
三軒しかなかったのである。名立町史震災の部には地形
の関係上被害を免れたものは字[中才|ナカサイ]に
一寺 二ケ寺 浄福寺 正光寺
一民家九戸 高橋重兵衛 高津四郎兵衛
三浦嘉右衛門 細谷甚右衛門
高橋又右衛門 高橋市兵衛
寺沢紋右衛門 大門太右衛門
安藤安左衛門 等
であると記してあるがこれは埋没した(なかったの誤カ)と言ふ意味で家は
潰れた者も含まるものである。前記(古一)の記事によ
る不埋没軒と一軒の差があるが、何れが正しいか解ら
ぬ。
五埋没品の重なるもの(古一、古三)
庄屋池垣右八の宅が埋没したのであるから御水帳、御高
札、御年貢皆済目録其の他の公文書は全部無くなった事
は言ふ迄もないが其の他に公用の御役猟船十三艘一品の
船具も残らず埋まったと報告してある。併し震災前の公
文書も多少残って居るが是は掘出した物か或は役所の物
を復写して来たか不明である。
六埋没死者員数及家畜数(古一)
当時同村人数は本籍人口五百二十五人の内四百六人死歿
したのであるが此の内死骸は三十人程しか見付らなかっ
た。死者の内訳は左の通りである。
1一般住民 三百七十四人
2寺方 五人
3社家 一人
4×× 十六人
計 (ママ)四百六人
此の外に他村から来て居た者は何人あったか解らぬ。
尚死んだ牝馬が十頭あったが内八頭は宿場の役馬であっ
たのである。
七生存者及其の員数(古一、古二、古三、古四、古六)
前述の五百二十五人の本籍人口と死者四百六人の差か
ら見ると百十九人の生存者となるのであるが(古二)に
は百人程とあり(古三)には百三十七人と明記されてあ
る。(古二)に「漸〆相残り候人数男女百人程有之候得
共右之内四十人程ハ他所江奉公ニ罷出候」とあるのは此
の文書が五月付であるから震災の当時出稼して居た数か
或は五月になってから即ち災後の出稼者であるか文字か
ら言へば不明であるが、家と共に海中へ埋没したのに助
かった者は九人でありそれも半死半生の病体であったの
であるから出稼する訳には行かず、潰家半潰家に寺とも
合せて十一軒の残りの住家の人口は当時一戸平均が五・
四七人となるのであるから六七十人程居ったと思ふが其
の内から四十人出稼するとは考へられぬ。(古一)に
死人 男女 四百六人
此の外他所へ罷出候もの如何御座候哉難計奉存候
とあるがこれは震災の翌日の公文であるから「罷出候」
とは「罷出居リ候」の意味と解すべきで前記(古二)で
此の罷出居った人数を四十人程と調査したのであって即
ち他行の為め免災生存者の数と見るべきである。此の外
他村から来て居った者で何人助かったかは解らぬのであ
る。他行免災者の随一は庄屋池垣右八で彼は二十四日公
用の為め西方五里程の梶屋敷の御陣屋に出頭し同地に宿
泊して居った為め彼の家族、家屋、家財が全滅した中に
独り助かったのである。前記宗龍寺の貫之も亦この仲間
である。
一旦海中へ突出されて浮き上った員数は(古二)では七
人(古六)では九人となって居るが御代官所から富永喜
右衛門が来て見分の上人別を改めた時が九人とあるから
これが正確であらうが此の九人の中に後述の直江津から
来て居た母子が二人入って居るとせば小泊の者は(古三)
の通り七人となる訳である。
其の生存者の内で身元の明かなのは直江津(当時今町)
の又三郎の娘みよが女児を連れて小泊の久右衛門の宅に
宿泊して居て山崩に海中に突出されて不思議に命が助か
ったのと酒屋の甚左衛門の弟子が二人同じく不思議に命
が助かったのだけである。即ち
一旦埋没せる家の生存者 九名
全潰半潰せるも埋没せざる家の生存者(内寺方十五
人) 七十名程
他行免災の生存者 四十名程
計 百二十名程
(古三)の百三十七人の本籍人口とは二十人近くの差が
あるが第二項第三項の実数でないから大体此の程度のも
のと考へられる。
八其の他の惨状(古二、古三)
元来小泊の地勢が自給にも不足の田畠しかないのに今回
の震災で其の八割以上を失ひ住家住民共に全滅に近かっ
たのであるから衣食住の凡て、生命財産の凡てを失った
事となり悲惨中の悲惨状況を呈した訳である。生残りの
人等の差当りの小屋掛もする所がなく大町の裏辺に少々
の小屋掛けをしたが第一食糧がなく僅かの救恤米で露命
をつなぐ有様で(古二)には
少々の小屋をかけ罷在候得共当日を送り候儀難成飢死
候躰に御座候
とあり(古三)には
然は命相助り候計にて着の儘にて何事(も)可仕候様
も無御座候路道に迷ひ罷在候
とあって其の窮状が察せられる。
又此の地震の為水脈に異変を来し井戸は埋没したので山
からの引水は勿論横井戸縦井戸等断水した模様である。
而も時期が陰暦四月の下旬で田畑共仕付盛になって居る
が僅か残った田圃も苗がなく畑の方も大岩石が累々とし
て居て地作りして種蒔する所も無い有様であり漁業方面
は(古三)に
此度之大山崩土中江船数十三艘、せめて一品之道具も
無之埋り候
とあって半農半漁の此の村は陸を失ひ海には得られずで
生活資源の両面を塞がれたのである。たゞ大町地内と入
り交って居る場所が少々あったが此所だけへ男女七九人
だけ出て働き得た様の情況であった。
九救済復興の請願(古三)
震災後の救済及び村の復興については翌五月庄屋右八外
百姓三人の連名で富永喜右衛門様御役所宛出願して居
る。(古三)がそれである。
1北陸道往還の修理復興
北陸道往還は小泊地内十七町三十八間之内十一町四十
八間が大岩石で埋没されてあるから御普請を願はねば
ならぬが先づ道幅二間通の岩石を取除いて木ツ羽と小
柴を左右から土中へ二尺程も差込み突固めなければな
らぬ。そうして貰はぬと秋には荒続きだから往来が出
来ないとの理由が付してある。
2、屋敷整理普請
罹災屋敷全面長二十間幅二十五間の区域の所抜土であ
るから石や砂を持運び固め或は岩石を除き高低平均し
て屋作りの出来る様にと願上げてゐる。
3飲料水引込工事
地震の為め呑水が一滴も無くなったので裏の大山から
引水の普請を願上げる。
4波除石垣築造
波除石垣長十七丁三十間の距離を平高さ一丈として二
重に築造を願ひたい事
是は小泊辺は北海が秋ともなれば波高く強く石垣が無
ければ土を削り取って大岩石ばかりが残る丈けで田畠
を起す事も住家を建てる事は出来ぬから極めて丈夫に
二重に普請を願ひたいのであるとの事である。
5小屋掛費の下附
間口四間奥行六間の家二十五軒分を一軒につき金拾五
両の割にて合計三百七十五両を下置下さる様に願上げ
て居る。住家の寸法の四間間口六間はちと大きすぎる
感がないでもないが耕作、漁猟を稼ぐためには手挾で
は困るし且風雪が烈しいので頑丈に造らねばならぬし
材料の雑木、萱、葭、竹、繩其の他諸品共遠方買出し
に付過分の入費がかゝるので一軒金拾五両頂きたいと
の説明を付してある。
6漁船築造費の下附
漁船五艘此の入用金弐百七両弐分を下置かれたいと申
請して居るが其の内訳は
漁船
杉丸太、釘、[♠|カスガヒ]、船梁、櫓、櫂、楫、帆、帆柱、漆、
大工木挽作料、飯料。漁猟道具共残らず
一艘ニ付 四拾壱両弐分
内訳
船諸具一色 金弐拾両壱分
漁道具一色 金弐拾壱両壱分
元来小泊と言ふ所は往古から漁業を第一の職業として
居る所であるのに此の度の大山崩で十三艘の漁船と共
に船具一品残らず埋り果てゝ仕舞ったが生残った者の
中に船乗りもあるので右の金子を下し置かれ船や漁具
があれば今年から銭壱貫文の上納を収め来年から年々
上納金を増したい考へである。漁さへあれば生残りの
人数の生活も出来従って小泊一村が復興する訳である
から何卒御慈悲を以て御手当願ひたい。若し御手当が
なければ住民は皆離散して小泊一村は跡形も無くなる
事になる事だらうと説明してゐる。
7農具代の下附
農具代金として一軒に一両宛二十五軒分計二十五両の
下附を請願して居る。
是は鍬、鎌、山刀、其の他鶴嘴、唐鍬等を以て田畑の
中の大石を除き荒地になったのを起返したいのであ
る。願の通り下し置かれたならば一生懸命に起返して
一畝一歩でも御供進申したいと願上げてゐる。
8家具小道具代の下附
各家の家具や小道具の代金として一軒につき金弐両宛
二十五軒分、合計五拾両を請求して居る。即ち椀、折
敷、茶椀、挽臼、摺臼、搗臼、箕、とほし、莚、茶釜
鍋類、水溜桶、汲桶、味噌桶、漬物桶、肥桶類が全部
埋没して跡形も無くなったので新に求めなければ家業
も生活も出来ないから右の代金を下し置かれたいと言
ふて居る。
以上は、お上普請、下附金、貸与金の請願であるが更
に税金の免除及び災前権利の証明書下附に及んで居
る。
9諸税免除
小泊村の小役銭、荏胡麻銭、大豆納、浅草御蔵前入
用、川役等今年より御免許成し下されたいと願って居
る。是等の物は震災前の税金では
一荏代 永(銭) 百五十七文
一胡麻代 〃 五十三文六分
一小役 〃 百五十一文五分
一川役 〃 百五文
一酒役 〃 三百五十文
一船役 〃 二貫二百八文三分
一御蔵前入用 〃 二百二十六文六分
合計 永 三貫二百五十二文也
であるが一村復興し家数人別段々多くなり田畠の起返
しが出来れば追々上納仕るといって居る。尚郡中割、
西浜割も免除する様御役所から郡中へ御通達願ひたい
といって居る。
10酒株の証明書下附願
小泊の酒屋甚左衛門は此回埋没したが去年迄上納を収
めて居ったのである。所が其の弟子二人が海中から揚
って不思議に命が助かったが酒屋家業をしたいかも知
れぬし酒株の望人もあったら譲る品もあるが今年から
相変らず上納を収めるから証拠の書付を下附願ひたい
と言ふのである。
最後に総括として小泊村生残り僧(俗カ)侶百三十七人は身命限
り精を出して荒地を起返し一村を取立て御運上物も年々
増して上納したい決心であるが何分命が助ったばかりで
路頭に迷って居るから是非右の趣を御聞届願ひたいと結
んで居る。
この嘆願書の各項を考究して見ると用意周到といはう
か、お上普請で復旧以上によく〳〵したい、行はれなく
とも元々だと考へたと思はれる点、又天引されても大体
相当の所迄やれると思はれる点があり中々駈引がしてあ
って庄屋池垣右八の手腕の点が伺はれるのである。
即ち北国街道の道普請の仕方や居屋敷に砂利を持込み突
固めるは先づよいとして、困るとはいへ険阻の裏山から
の水道工事は当時に於て中々容易ならぬ大工事といはね
ばならぬ。又従来有ったかどうか解らぬが恐らく無かっ
たらしい波除護岸の石垣を長約半里の長距離をしかも二
重築造に要求して居る点等は実に偉いものである。
更に小屋掛の部に至っては梁間四間棟行六間の大家屋を
造る予定になって居るが今日でも四間梁といふ家は町家
では実に第一流の部である。而も家数が二十五軒とある
が震災の翌月初め果して二十五軒家造りしなければなら
なかったであらうか頗る疑問とすべき点であるといふよ
りは確に掛値があったのである(後述復興の状況の部参
照)又漁船一艘分が四十一両二分と見積った点、農具、
家具、小道具代の見積り等についても随分思切って請求
したものである。
最後の免税の部でも一番大物の本途米に触れないのは当
然全免の積りを見せ小役小物税の事ばかり突いて居るあ
たりは中々容易ならぬ構え方である。
♠に至って更に総体的に考へると窮状を告げて哀願する
が其の要求は中々大きいものであり而も若し此の要求を
御取上げにならねば一村離散して仕舞ふからお上に於て
も不利でありお役所の立場も悪くなるのではないかと暗
にほのめかして居る様である。殊に嘆願第六項漁船築造
費下附の部の如きは奈辺の消息を示す名文といはねばな
らぬ。
一〇救済の実際
前条に列記した救済の出願に対して役所から差当り左の
救済があった。
1扶食米代金十三両一分永百二十五文五分是は宝暦二
年以後二十ケ年賦で返納させる約束で貸下げられたの
で一年に六百六十八匁八分宛七ケ年返納したが宝暦九
年に残額八貫六百九十三文九分を全納せしめた。
2屋敷地均し費用金三十四両余
これは全く給与されたものらしく返還した事は他の文
書に見えぬ。
3漁船代金二十五両二分
是は宝暦二年以後十ケ年賦で償還の予定で一ケ年に二
貫二百五十文乃至二貫五十文づゝ償還せしめられた。
4農具代金十両二分
是は宝暦二年から十ケ年賦で返納の約束で貸下げられ
一ケ年一貫五十文づゝ七ケ年返還し宝暦九年に残額全
部三貫百五十文を償還せしめられた。
5諸税の減免
イ田高六十一石五斗四合の内今回新に三十七石七斗
九升九合が地震山崩分として差引かれ十一石二斗六
升二合が同じく川欠分として差引かれ税率が三ツ八
分七厘六毛から三ツ一分二厘五毛に下げられ従って
取米が二十二石六斗六升九合から二石九斗四升六合
に減ぜられたのである。
ロ畑方は高二十八石九斗三合の内二十五石六斗九升
五合が地震山崩の分として差引かれ税率には変りが
なかったが取米に於ては九石八升六合から七斗八升
四合に引き下げられたのである。
ハ山高には変化がない
ニ諸税については当年は
○船役 二貫二百八文三分
だけが免税されたばかりであるが宝暦五年には
○大豆納 大豆五斗九升一合六勺
此の代米二斗九升五合八勺
○荏代 永(銭)百五十七文
○胡麻代 五十三文六分
○小役 百五十一文五分
○御蔵前入用 二百二十六文六分
右五税が伺ひの上免許となって居る。併しこれは宝
暦元年の地震との関係の有無は不明である。
今これは曩に請願した事項と比較対照して見ると
1道路の修繕は当然行はれたらうがこれは直接罹災民
には関係がない。
2屋敷普請は地均費として金三十四両の金が給与され
たが其の代り小屋掛代三百七十両、家具小道具代五十
両の請求に対しては少しも下渡金が無かったのである
から要求額に対しては非常の少額といはねばならぬ。
3漁船築造費二百七両二分の請求に対して金二十五両
二分の下附であって約一割二歩に当る訳であり而も埋
没十三艘が何れも御役船をも兼ねて居るのに対しては
これは亦少額である。
4農具代は二十五両の請求に対して十両二分の下附で
あるが二十五両の金の計算の基礎が二十五軒分にある
のであるから当時現在の戸数から見ると相当額とも思
はれるのである。
5飲料水道、波除石垣工事は遂に実施されずに仕舞っ
たのである。
6諸税免除の件は当年は田畑の年貢米が割引かれたが
これは救済と言ふよりは欠所になったのであるから寧
ろ当然であるが御役船全滅の船役だけが免除になった
ばかりで他は其の儘なのは少し変である。
要するに救済は十分とは言ひ難いのであってこれには此
回の震災で第一救済復興を対照とする人が無いと言ふ所
に根本の問題があり且土地も屋敷田畑共岩石累々で直ち
には手の下し様が無かったと言ふ点にあるのではなから
うか。更に榊原藩として考へると救済を要す所は高田直
江津附近が中々甚しいので自然小泊等の漁村には行渡り
方が薄くなったのであらう。それに庄屋の請求は駈引が
あって要求が過大であるから支給額との開きも又甚大と
なった訳である。
一一復興の状況
1戸口の復興
震災直後本籍から調査して生残った人数は僧(俗カ)侶合せて
百三十七人であるが此の内から寺二ケ寺分十五人を引
き去ると村民は百二十二人となるのであるが此の中に
は本潰四軒、半潰三軒無難三軒、計十軒分をふくんで
居るから海中から上った九名と出稼して居た四十名程
で何軒の戸数になるか不明であるが救済出願には二十
五軒分を請求して居る。これはもとより出稼者の帰来
や他町村からの跡目相続者を見越して居るのであらう
が実際問題としては出稼者だとて家も田畑もない所へ
帰って来ても仕方がないし他所の親類等から来て跡目
相続する者も前に所有した財産が相当あり又確実に相
続出来るとしても手の付け様もない荒凉の土地へ急い
で来ても仕方がない。況んや貧困の家の跡目相続は甚
だ迷惑の至りと考へられるのである。従って災後の戸
数は中々増加率が遅かったのであって其の年の十二月
扶食米代十三両一分の受取には十三人しか署名して居
ない。即ち当時十三戸と見るべきで庄屋と合せて十四
戸となる訳である。其の十三人は
(甲){十兵衛 四郎兵衛 甚右衛門
安右衛門 太右衛門 紋右衛門
又右衛門 市兵衛
それに
(乙){清左衛門 市太郎 甚左衛門
半兵衛 新三郎
の面々である。此の中甲部に書いた八人は名立町史に
ある埋没を免がれた者の中にも見える名前であるが三
浦嘉右衛門一人だけ入って居らぬが他所へ行ったか代
がかはって名が違ったか不明である。乙部の五名は新
に加った人名である。
御役所では成るべく他出者を帰村させ様と苦心させた
様で
所々江出稼に出候者或ハ奉公ニ罷出候者ヲ呼寄セ小
泊村取立候様被為仰渡云々
と当時の文書にもあるが前述の様に帰村して家を復興
すると言ふ事は中々至難の事で反対する者もあったの
である。
死絶した家の跡目相続は親類か知己らが来て継いだも
のが多いが此の際は庄屋及び御役所へ願書を提出した
もので(古四)の二通が其れである。此の類は数十通
あるが其の中から一寸変ったものを例にとったのであ
る。
イこれは当時今町で現直江津の又三郎から提出の願
書であるが小泊村の久右衛門の宅は此の度の地震で
家内不残横死したが自分の娘みよは孫を連れて当日
久右衛門宅へ泊に行って居ったのに二人共不思議に
命が助った。そこで家内相談の結果倅の彦右衛門竝
に嫁みよ孫娘共小泊へ引越させて相続させたいから
御役所へも直ちに申上げて久右衛門の跡式を相続出
来る様手続を願ひたい尚小泊村御百姓へも御願申し
て貰ひたい。以上此の度久右衛門の親類と連判で御
願ひ申上げる。との文面で願出本人又三郎に大町の
親類重右衛門と小泊の親類藤右衛門が連判して庄屋
及び惣百姓中へ一札を提出して居る。これは震災の
翌二年四月の提出願書である。
ロ小泊村の八右衛門一家は四月の大変で残らず死絶
えたので八右衛門の親類と相談したが拙者の婿源蔵
は八右衛門の弟で先度私の妹に養子として迎へたの
で今は女子一人あるが此の三人に八右衛門の跡式を
相続させる様お願申上げる。この事については八右
衛門の親類の者も何の異存はないし若し外部から差
障りが起って八右衛門又は源蔵に付いて悪い事が起
ったならば拙者が引受けて埓を明けるから村方へも
仰せ渡されて御役所へお願して頂きたい。此の願が
叶ふて引越が出来たならば御公儀の規則は元より村
方の御作法には決して背かぬ。又今後拙者方で如何
様の事が出来しよう共当所へ(中頸城郡大貫村)帰へ
る様の事は致さないから御役所の方が相済む様にお
願申上げる。これによって拙者共連判で一札差出し
申す。との文面で当時頸城郡下ノ郷大貫村の勘左衛
門が願主で同村の勘左衛門の親類甚四郎が連判して
小泊の庄屋及び惣御百姓中へとして提出して居る尚
此の一札には大貫村の名主野崎五郎右衛門が右の通
り願出の趣小生は承知したから其の村へ引越の願が
済む様にしたいので其の為奥書をすると書いて捺印
し小泊庄屋宛に裏書をして居る。これは宝暦四年十
一月のものである。
即ち前者は死絶の一家と共に居て助かった因縁から跡
目を相続させ様といふのであるし後者は絶家から貰っ
た養子に妻子をつけて返し如何なる事があっても永住
するといふ固い決心を以て相続するといふのである。
これ等相続の場合惣百姓に迄願出ると言ふ事は使用地
積と深い関係があるからと考へられる。即ち屋敷や田
畑が荒廃不足して居る所へ人間ばかりどし〳〵引越さ
れても仕方がなく否生残りの者迄生活が不安になる訳
である。復活された家については最初は地変前の地坪
を得られたが後にはそれが行はれなくなった事は已を
得ぬ事と思ふ。
今戸口復興の状況を表示すれば左の如くである。
暦年紀元(其問年数)震災ヨリ経過年数戸数備考
宝暦一(災前)二四一一九一
宝暦一(災後)二四一一一四
同 五二四一五(四)四二三
同 八二四一八(三)七二二
安永 二二四三三(一五)二二三二
安永 六二四三七(四)二六二九
天明 七二四四七(一〇)三六三四
文化 五二四六八(二一)五七四六
天保 六二四九五(二七)八四四九
嘉永 二二五〇九(一四)九八四九
慶応 一二五二五(一六)一一四五二
明治 二四二五五一(二六)一四〇八〇
昭和 一〇二五九五(四四)一八四一〇四
即ち幕末迄非常の緩漫の増加しかしなかったのである
が明治時代に入って急に増加し大正の初頃に旧家数九
十戸に達したのであって戸口の復興は百六十年を要し
た訳である。
2宅地の復興
屋敷地均し費として金三十四両余の下附があったが下
附金は何れも遅れて其の年の十二月に下ったので翌年
三月から村中人足で工事にかゝり秋迄に当時必要なだ
けの屋敷を得たのでそれを各戸に割当てたのである。
即ち
普請あら方に仕り御役所様へ御伺奉申上候上屋敷割
に取懸り候、死残者大変以前持分屋敷間数御水帳を
以て相改候云々
とあるがそれである。此の工事は宅地全部前記の長百
二十間幅二十五間即ち三千坪の全部に亘って行はれた
ものではなく、岩塊の多い所は其の儘に放棄して置い
た部分もあった。
下附金が無くなってからの普請は村人足を用いたらし
いが後には(災後二十年目頃)
屋敷之儀ハ村離、自力ヲ以テ屋敷引致シ家作可致定
之事
と決定された。
又屋敷の位置や地形は災前と同一と言ふ訳には行かな
い事も当然生じた。前出した宝暦四年の暮に大貫村か
ら来て兄八右衛門の跡目を相続した源蔵は屋敷がなく
「村立浜之北方家続端を見立」てて自分の屋敷とし
然上は後日に家並之内明屋敷等出来候共、此の度請
取候外少も望ケ間敷義申間敷候
といふ一札を翌五年に村へ差出して落付いたのであ
る。
下附金で地均が済んでも家屋の建築に至らず其の内に
離村して仕舞った者も相当あるが其の様な所を相続す
る者があった場合は相当の代金か又は年貢を村へ納め
る事に決められたのである。即ち災後間も無く復興し
た家は屋敷を私有したが後には空屋敷は村の共同管理
か部落有地の形となり昔に於ては坪一合位明治の初年
頃は坪八合乃至一升位の年貢を村に収めて借地したの
である。尤も場所の悪い所は五年乃至十五年間位は無
税であった土地もあったのである。総じて災後の整地
は徐々に明治時代迄行はれたのである。が何時頃より
か次第に村から土地を買受けて今日では全部私有地と
なったのである。
3田畑の復興(古五)
前出天和検地御水帳には
田方 四町四反八畝二十六歩
分米 六十一石五斗四合
畑方 九町四反三畝三歩
分米 二十八石九斗三合
とあるのが今回の震災で左の如く差引かれた。
当未地震山崩引 三十七石七斗九升九合
同 川欠引 十一石二斗六升二合
即ち 山崩分 二町七反三畝二十七歩
川欠分 八反一畝十八歩
計 三町五反五畝十五歩
となって全面の七十九パーセントに当った訳で此の他
にも前々からの川欠、砂入の田があったのであるから
其の面積は極めて僅少のものとなったと考へられる。
畠についても亦同様で
当未地震山崩引 二十五石六斗九升五合
とあるから正に 八町五反六畝十五歩
となり全畑の九十パーセントを失った事になる。
それが災後二十五年目の安永四年には田面では
前々川欠石砂入地震山崩引 一石三斗五升五合
であるから九反八畝六歩の分が割引かれて居るがこれ
は宝暦の地震の分ばかりではない。又当年には十二石
一斗六升八合分を起返して居るこれは八反八畝十二歩
に相当する分である。
畑の方は
地震山崩引 七石四斗二升六合
とあって 二町四反七畝十六歩
の分が差引かれて居るが当年は僅に六升分即ち二畝し
か起返して居ない状況である。これを小泊村の本途米
の石高によって其の増加から復興の状況を窺ふと左の
通りである。
斯くの如く其の復興は遅々として進まず牛歩をつゞけ
て来たが災後百二十年明治の初年に至っても尚災前の
状況に遙に及ばなかったのである。これは旧土地は岩
石、砂礫に埋められた為めと河流に削取られて失地と
なり完く仕方が無かった所が多いからであらう。尤も
岩石といっても砂石や礫石が多く風化作用も相当受け
るので其の分解をまって徐々に整地して行ったのであ
る。宝暦十三年の文書に
暦年紀元震災ヨリ経過年数石高備考
寛延 三二四一〇石
三二・二六八五
宝暦 一二四一一当年四・二四三五
宝暦一一二四二一一〇六・六二三五
明和 八二四三一二〇九・六五〇五
天明 一二四四一三〇一二・五三八五
寛政 三二四五一四〇一三・〇七九五
享和 一二四六一五〇一四・一三三五
文化 七二四七〇五九一四・〇五四〇
文政 六二四八三七二二二・四二七九
天保 三二四九二八一二一・三七三〇
嘉永 二二五〇九九八二二・四二七九
安政 六二五一九一〇八二二・四二七九
明治 一二五二八一一七二三・四六八一
家立近所田跡ニ白砂交ル場有之候処其ノ節急ニハ難
起返、年々岩等風雨ニテこなれ草等生へ候ヘバ村方
の者の内少々ヅゝ手入等仕候
とあるを以て当時の状況を察知する事が出来るのであ
る。
4宿駅の復興(古六、古七)
名立駅には大町と小泊に問屋があって人夫数は大町が
三分ノ二小泊が三分ノ一の割で勤めて来たのであるが
今回の震災で小泊は人が死絶し役馬八頭全部も埋没し
たので御役御免を願出で許可されたのである。然るに
震災から二十六年後の安永五年に至って小泊へ元通り
三分ノ一の宿役を勤めさせて貰ひたいと御役所へ願出
たが小泊側では只今二十九軒しか家がなく此の中には
後家女や独身者もあり少々働くものは浜に出でたり田
畑に稼がねばならぬのでとても勤め兼ねる。大町では
近年火事にあって貧窮だといふ理由であるが火難後只
今迄に家も建て家数も百三十軒もあり宿役は年来勤め
なれて居るのであるから小泊の地震の為め家財人歩の
亡失したのとは格別の差があると申立てゝ引続き夫役
免除となったのである。
此の安永、享和の頃の名立の人は一代に七度の大火に
罹ったと言伝へられて居るので大町も困難したであら
うが小泊は二十九軒しかなくてはまだ〳〵問題になら
ぬ程度といはねばならぬ。
然るに災後百十五年目の慶応二年十一月に至って小泊
の惣代、問屋役、庄屋から加州様の御会所、同御飛脚
宿、富山御飛脚、御会所宛に
追々小泊村民家立出来候に付先前江復し問屋旅籠屋
等も手当仕矢張是迄の通両村惣名名立宿と唱ひ、来
卯正月より御継立可仕旨領主役場江も相達候間此段
御聞置被下置度奉願候
との願書を提出して居る。即ち慶応三年の正月から復
活した訳である。
尚復活の問題として荒蕪地の処理問題、埋没田畠に代
るべき新田畑の開墾等の重要問題がありそれに連関し
て諸々の村定め等も制定されたのであるが一先づ此の
辺で擱筆する事にする。
六古文書原文
一(古一)
乍恐以書付御注進申上候
名立小泊村
諏訪因幡守様御検地
一御水帳 一冊 是は山抜築埋紛失仕候
名立新田
諏訪因幡守様御検地
一御水帳 壱冊 是は右同断
一御公儀より御渡被置候御高札都合七枚山抜築埋申し候
名立小泊村名立新田
一古来より去午年迄御渡被成候御割符御年貢皆済目録并
御年貢全納御通イ庄屋方御座候誌書物不残山崩築埋紛
失仕候
一名立小泊組合筒石村、筒石新田、大泊村、藤崎、百川
村、此五ケ村戌年より去ル巳年迄八ケ年分御年貢皆済
目録并本年ノ御割符同年御年貢全納御通イ御用ニ付小
泊村庄屋方預置申候処此度大変山崩築埋紛失仕候
一御陣屋 壱ケ所 山抜築埋家形相見へ不申候
一同蔵 壱ケ所 同断半築埋ニ相成候
一名立小泊村惣家数 九拾壱軒
内
八拾壱軒 是は山抜築埋家形相見不申候
四軒 是は本潰家
三軒 是は半潰家
三軒 不難家
〆
一同村人数 五百弐拾五人
死人 男女 四百六人 此内死骸三十人程相見へ申
し候
此外他所ノ所へ罷出候もの如何御座候哉難計
奉存候
同村 禅宗 宗龍寺
一寺 壱ケ寺 是は山抜築埋寺形相見へ不申候
同村 浄土真宗 浄福寺、正光寺
一寺 弐ケ寺 是は右同断半潰
一社家 壱軒 是は右同断築埋家形相見へ不申候
自身葬祭社人壱人相果申候
一宮 壱ケ所 是は右同断宮形相見へ不申候
一堂 壱ケ所 是は右同断
一土蔵 四ツ 是は右同断
一死女馬 十疋 是は山抜築埋申候
内 八疋ハ宿役馬
一御役猟船 去午ノ暮帳面書上候通不残山抜築埋船形
相見へ不申候
外
一名立小泊村□□家壱軒築埋申候
一××人数男女拾六人相果申候
右は当月廿五日夜八ツ時より翌廿六日明六ツ時迄大地
震ニ而小泊村に立浦山山通リ長拾五六丁程高サ七八拾
丈程山奥五六丁程村皆海中へ三拾丁程山崩築出し右上
申ニ仕候通大破仕候尤御内所数ケ所之山崩損毛難相積
リ候今以地震入止不申候追々山崩抜落候ニ付御注進申
上候
以上
四月廿七日
小泊村
庄屋 右八
富永喜右衛門様
御役所
二(古二)
差上申一札之事
一名立小泊村此度大変ニ而大破仕候儀先達以書付御注進
申上候処当村屋敷并田畑損地之分委細相改小前帳相認
早速指上候旨被仰渡承知奉畏候、尤大破仕候分相改候
茂村方ニ而地方之儀存知候者不残此度山崩築埋相果申
候漸シテ相残リ候人数男女百人程有之候得共右之内四
拾人程ハ他所江奉公ニ罷出候、此外六拾人程之内当村
浄土真宗弐ケ寺人数十五人程相残四十五人此内七人程
ハ此度山抜ニ而築被出今以半死半生躰ニ而罷在候、相
残男女三十八人之内年寄子供漸シテ作場等江罷出候者
男女七八人ニ御座候、殊ニ相残り之者共も無田ニ而地
方之儀一向存知不申候私儀は御用ニ付梶屋敷御陣屋江
罷出命無難ニ罷在候得共親市右衛門去秋中相果其後庄
屋跡役相勤間茂なき故地所の儀委細は難相知候其上諸
帳面は不残山抜築埋紛失仕候田畑共ニ無難之分も字場
所等相改早速に書上申候御事難成何を申上候も拙者壱
人ものニ被成至極迷惑奉存候何卒以(マゝ)速相改書付差上可
申候、只今命無難ニ而罷在候もの小泊村地内ニハ小屋
懸等仕候場所も無御座候ニ付大町村村立裏ニ少々之小
屋をかけ罷在候得共当日を送り候儀難成飢死候躰に御
座候何卒御慈悲に相残人数命取続候様御救奉願上候
以上
未五月 名立小泊村
庄屋 右八
一田畑共ニ仕付盛リに相成候得共田方ハ苗等無御座畑方
少々宛種もの仕付ものも地震ニ而入(マゝ)立生之所茂壱場所
も無之田方大町村地所入交相残り少々御座候得共作場
に出候もの漸シテ男女七八人ニ候得ば仲々仕付候事難
成候相残罷在候もの共も少々持前の地方に仕付致兼候
義ニ御座候得ハ相果しもの之分以仲々□場所も仕付之
義相成不申候(以下抹消)
一北陸道往還
名立小泊村地内大町村地境ゟ高田様地境迄廿弐三丁程
之場北西ハ海辺東南高山続ニ御座候処山奥二三丁所々
ゟ四五町程崩抜海中へ五丁拾丁或ハ廿四五丁築出□□
□□通路ハ(不脱カ)及申上人足持ニ而茂往来御用相勤候義相成
不申候ニ付右申上候
三(古三)
越後国頸城郡名立小泊村当四月廿五日夜八ツ時前
代無之大地震ニ而大山崩村及退転ニ候所天命ニ相
叶不思議ニ助命之者男女百三拾七人にて候ニ付一
村御取立被成下候様奉願候
一北陸道往還越後国頸城郡名立小泊村地内長拾七丁三拾
八間之内此度之大地震に而山抜往還道長拾壱丁四十八
間之内大石岩等にて如山に罷成候
是ハ北国往還之儀ニ候間道御普請奉願上候尤右之大
石岩ヲ切除道幅二間通リ抜土ニ候間石岩切除こつは
を相用其余リ小柴ヲ左右より土中江弐尺程茂持廻し
築堅メ不申候而ハ北海辺に候得ハ至秋ニ候而ハ日々
之荒天ニ御座候間踏立人馬往来道路難成奉存候
一居屋敷長百弐拾間幅弐拾五間之所抜土ニ候間石砂利持
込堅メ屋取仕候様ニ御普請奉願上候右長百弐拾間幅弐
拾五間之内大石岩等有之候間切除或ハ山谷ニ成候場所
等御座候所引平均候積リ第一此度地震ニ而呑水(も脱カ)一滴無
御座候間裏通険阻成大山より水引取候様御普請奉願上
候御事
一波除石垣長拾七丁三拾間 但高平均壱丈
是は北海荒ク秋ニ茂至候而ハ風烈高波仕ニ付波除石垣
キ不仕候而ハ大石岩斗残置抜土之分ハ山崖を引取田畑
起返し場所茂無之住居可仕所茂無之様ニ罷成候間大石
ヲ以二重石垣ニ御普請奉願上候御事
一小屋掛家 弐拾五軒 但表口四間、裏行六間
比御入用金三百七拾五両 但壱軒ニ金拾五両ツゝ
是ハ此度不思議ニ助命人数立儘ニ而も一品無之なほ田
畑ハ不残抜地、身之立所も無之路道に迷ひ候間身命落
着之御救奉願上候勿論耕作漁猟稼仕候ニ付間挾ニ而は
難成其上風烈大雪降リ候所は不丈夫ニ而は風雪に潰申
住居難成殊ニ雑木かや葭竹繩諸色共遠方より買出に付
過分に入用相懸り候間如斯小屋懸之御入用被下置候様
ニ奉願上候御事
一漁船 五艘 此訳 杉丸太、釘、♠、船梁、ろ、か
い、楫帆、帆柱、漆、大工、木挽
作料、飯料、漁猟道具共不残一艘
ニ付金四拾壱両弐分
此御入用金弐百七両二分
但 壱艘 船諸道具一色 金弐拾両壱分
漁道具一色 弐拾壱両壱分
是は小泊村之儀往古より漁猟第一に渡世仕候処此度之
大山崩土中江船数拾三艘せめて一品之道具も(マゝ)然之埋リ
候ニ付身命助小人数之内船手之者共有之候ニ付右御入
用被下置候ハゞ当年より船の御運上永壱貫文上納仕夫
より年々御運上相増上納仕相残リ人数身命相助リ壱村
取立申度候間御慈悲之御手当ヲ奉願上候此度右手当テ
不被下置候而ハ相残リ候人数離散仕此上一村無跡形退
転仕候儀ニ御座候
一農具代 金弐拾五両 但壱軒ニ付 金壱両ヅゝ
是ハ鎌、鍬、山刀其外鶴嘴、唐鍬仕立御田畑大石崩等
ニ而山抜荒地ニ罷成候間切除起返シ申度奉存候間農具
代被下置候様奉願上候願之通被仰付候ハゝ出精仕起返
し壱畝壱歩成共御供進可申上候事
一家具小道具代 金五拾両 但壱軒ニ付 金弐両ヅゝ
是ハ椀、折敷、茶椀、挽臼、摺臼、搗臼、箕、とふ
し、莚、茶鎌、鍋類、水溜桶、汲桶、味噌桶、漬物
桶、こい桶類山抜候而突埋無跡形損失仕ニ付新ニ相求
メ不下候而は家業難成候間右調代金五拾両被下置候様
ニ奉願候御事
一小泊村大変損地ニ罷成候ニ付小役永、荏胡麻代永、大
豆納、浅草御蔵前入用、川役等当年より御免許被成下
候様奉願候尤一村取立候上家数人別多相成田畑等段々
起返リニ罷成候節は上納可仕候且又郡中割、西浜割当
年より当村高相除キ候様ニ郡中村々江被仰渡被為下度
奉願上候
一当村甚左衛門酒屋分株も此節突埋候得共去年迄御運上
永上納仕其上酒屋ニ罷成(マゝ)小節多分金子差出候而分株相
調候儀ニ御座候間何卒後々に至り甚左衛門弟子両人不
思議ニ海中より揚り命助り罷在候間酒屋家業も仕度品
可有又は酒株望人有之候得ハ(ゆカ)いづり申品も可有之候
間、不相替当未より御運上永上納可仕候依之証拠罷成
候様書付成共被下置候様奉願候
右は頸城郡名立小泊村此度の大地震に而大山抜崩村方
及退転候所此節他所江罷出候者并山抜被突出海中より
浮揚り不思議の命相助候もの、大町村続家数拾軒、寺
弐ケ寺、山崩逢し寺家共本潰半潰ニハ罷成候得共身命
無難ニ罷在只今命相助り居り候もの小泊村僧俗男女百
三拾七人御座候此度の大変災一村及退転候処露命相助
居候者共ニ候間身命限加精仕一村取立荒地御運上物共
年々起返し相増御上納仕度被存候然は命助り候計ニ着
の儘にて何事可仕候様も無御座候路道に迷ひ罷居候依
徳慈悲ニ一村取立之儀ニ候間右之趣被為聞召候御入用
被下置候様奉願上候 以上
寛延四年 名立小泊村
未ノ五月 庄屋 右八
百姓 清左衛門
同 藤右衛門
同 四郎兵衛
富永喜右衛門様
御役所
四(古四)
㈠預申一札之事
一去々未ノ四月廿五日夜大地震山崩仕小泊村一統ニ(ママ)絶伝
仕候ニ付則名立小泊村久右衛門家内不残奥死仕候其節
久右衛門方江娘みよ并孫娘共通ひ遣申候処不思議ニ山
崩ニテ一命相助申候然所ニ先達て一家共相談之上拙者
伜彦右衛門并嫁みよ孫娘共小泊江引越家相続致させ度
被存候間乍恐荒井御役所様江宜被為仰上何卒久右衛門
跡式相続仕候様ニ御取次奉願上候并小泊村御百姓中大
変後度々御願上置候通是亦宜奉願候右此度御願申上度
久右衛門一家共連判如此御座候 以上
小泊村久右衛門一家
今町 又三郎
同 一家名立大町村
重右衛門
宝暦三年酉四月 同 一家名立小泊村
藤右衛門
名立小泊村庄屋
池垣右八殿
同村
惣御百姓中
㈡一札之事
一其村八右衛門儀去々未四月地震大変ニ而家内不残死絶
家及退転候ニ付八右衛門親類并ニ拙者親類共打寄相談
の上源蔵は元来八右衛門弟ニ而勘左衛門方江前度養子
ニ致置妹ニめ合只今は女子壱人都合三人之者指遣八右
衛門跡式相続為仕度奉存候ニ付此度願上候、然上ハ八
右衛門親類方ゟ八右衛門跡式相続の儀何之申分無御座
候、若外ゟ六ケ敷指障リ候は親又ハ源蔵儀ニ付悪敷事
有之候ハゝ拙者共引請急度埓明可申候右の趣村方の衆
中江被仰渡御相談之上御支配御役所江御願被成可被下
候右願上候通御公辺并村方とも相済引越居住仕候ハゝ
後御公儀様被為仰渡候御法度之儀ハ不及申上村方之御
佐法堅ク相背申(敷脱カ)間候以後拙者方ニ而仮令いか様之儀出
来仕候共当所江立帰リ申度儀の願抔此方ゟ為致間敷候
何卒其村方ゟ御役所御表相済候様ニ御願可被下候、依
之拙者共連判一札指出申候 以上
宝暦四年 下ノ郷大貫村
戌十一月 勘左衛門㊞
同村
勘左衛門親類甚四郎㊞
名立小泊村
名主 右八 殿
惣御百姓中
右之通願候趣致承知候間此上其村江引越候願済候様ニ
仕度候間其為奥書印形仍而如件
下ノ郷大貫村
名主 野崎五郎右衛門㊞
名立小泊村
名主 池垣右八殿
五(古五)
㈠午御年貢可納割付之事(寛延三年)
寅より午迄五ケ年定免
一高 九拾壱石四斗三升四合
名立小泊村
此取米 三拾弐石弐斗六升八合五勺
此訳
高 六拾壱石五斗四合 田方
六斗四升 前々川欠引
内 壱石参斗参升六合 去ル卯川欠引
壱石参升九合 去ル卯砂入引
外 参石参斗四升 当午起返
小以 参石壱升五合
残 五拾八石四斗八升九合
此取米 弐拾弐石六斗六升九合
三ツ八分七厘六毛内
内 壱石弐斗九升五合 当午起返増
高 弐拾八石九斗三合 畑方
七斗壱升弐合 郷倉敷引
内 六升九合 ××高引
小以 七斗八升壱合
残 弐拾八石壱斗弐升弐合
此取米 九石八升六合 三ツ弐分参厘壱毛内
高 壱石弐升七合 山高
此取米五斗壱升三合五勺
定五ツ
外
一米 五升五合 御伝馬宿入用
一大豆 五斗九升壱合六勺 大豆納
此代米 弐斗九升五合八勺
一永 百五十七文 荏代
此荏 壱斗七升九合
此代米 壱斗壱升弐合
一永 五拾三文六分 胡麻代
此胡麻 四升五合
此代米 三升
一永 百五拾壱文五分 小役
一永 百五文 川役
一永 三百五拾文 酒役
一永 弐貫弐百八文三分 船役
一永 弐百弐拾六文六分 御蔵前入用
米 三拾壱石八斗八升五合七勺
納合 外 四斗三升七合八勺
諸代米引
大豆 五斗九升壱合六勺
永 三貫弐百五拾弐文
米 九斗六升八合 口米
外永 八拾四文四分 口永
(末文略之)
㈡未御年貢可納割付之事(宝暦元年)
定免年季明ニ付検見取
一高 九拾壱石四斗三升四合
名立小泊村
此取米 三拾弐石弐斗六升八合五勺
此訳
高 六拾壱石五斗四合 田方
六斗四升 前々川欠引
内 壱石三斗三升六合 去卯川欠引
壱石三升九合 去卯砂入引
参拾七石七斗九升九合
当未地震山崩引
拾壱石弐斗六升弐合
当未地震川欠引
小以 五拾弐石七升六合
残 九石四斗弐升八合
此取米 弐石九斗四升六合
三ツ壱分弐厘五毛内
外 拾九石壱升六合
当未地震山崩川欠減米
七斗七合 当未地震ニ付出来劣
高 弐拾八石九斗三合 畑方
内 七斗壱升弐合 郷倉敷引
六升九合 ××高引
弐拾五石六斗九升五合
当未地震山崩引
小以 弐拾六石四斗七升六合
残 弐石四斗弐升七合
此取米 七斗八升四合
三ツ弐分三厘余
外 八石三斗弐合 当未地震山崩減米
高 壱石弐升七合 山高
此取米 五斗壱升三合五勺
定五ツ
外
一米 五升五合 御伝馬宿入用
一大豆 五斗九升壱合六勺 大豆納
此代米 弐斗九升五合八勺
一永 百五十七文 荏代
此荏 壱斗七升九合
此代米 壱斗壱升弐合
一永 五拾三文六分 胡麻代
此胡麻 四升五合
此代米 三升
一永 百五拾壱文五分 小役
一永 百五文 川役
一永 三百五拾文 酒役
一永 弐百弐拾六文六分御蔵前入用
米
納合米 三石八斗六升七勺
外
四斗三升七合八勺 諸代米引
大豆 五斗九升壱合六勺
永 壱貫四拾三文七分
外米 壱斗弐升七合 口米
永 拾八文弐分 口永
(末文略之)
㈢未御年貢可納割附之事(安永四年、災後廿五年
目)
御伝馬宿役相勤候ニ付六尺給免除
辰ゟ丑迄拾ケ年定免
一高 九拾壱石四斗三升四合
越後国頸城郡名立小泊村
此訳
田高 六拾壱石五斗四合
内 壱石三斗五升五合
前々川欠石砂入地震山崩引
外 拾弐石壱斗六升八合
当未起返
残 六拾石壱斗四升九合
此取米 八石七斗壱合
畑高 弐拾八石九斗三合
内七斗八升壱合 郷蔵敷××高引
七石四斗弐升六合
地震山崩引
外六升 当未起返
小以 八石弐斗七合
残 弐拾石六斗九升六合
此取米 三石壱斗六升壱合
山高 壱石弐升七合
此取米 五斗壱升三合五勺
検見取
一高 九斗弐升九合 当未高入新田
此訳
田高 三斗七升四合
此取米 三升八合畑高 五斗五升五合
此取米 八升五合
取米合 拾弐石四斗九升八合五勺
外
一田 弐畝拾六歩 午改出見取
此取米 壱升
一畑 壱畝廿三歩 同断見取
此取米 四合
外田 三畝拾弐歩 当未高入ニ付畑 四反壱畝拾八歩 去午減
一永百五文 川役
一永 三百拾三文三分 船役
戌ゟ未迄拾ケ年季
一永 百弐拾文 万運上
一永 百五拾壱文五分壱厘 小役
一大豆 五斗八升八合七勺 定納
此代米 弐斗九升四合三勺
一永 百五拾七文弐分八厘 荏代定納
此荏 壱斗七升九合三勺
此代米 壱斗壱升弐合壱勺
一永 五拾三文三分三厘 胡麻代定納
此胡麻 四升四合八勺
此代米 弐升九合九勺
一米 五升五合四勺 御伝馬宿入用
一永 弐百三拾文九分 御蔵前入用
米 拾弐石壱斗三升壱合六勺
外 米 四斗三升六合三勺
諸代米引
納合 大豆 五斗八升八合七勺
永 壱貫百三拾壱文三分弐厘
右は辰ゟ丑迄拾ケ年定免之内当未御成箇書面之通候条村
中大小百姓入作之もの迄不残立会無甲乙割合て来ル極月
十日限急度可令皆済者也
安永四未年十一月 竹垣庄蔵㊞
右村
庄屋
組頭
惣百姓
六 (古六)
乍恐以返答書申上候
一北陸道名立駅之儀は前々従
御上様大町村小泊村両村問屋場ニ被為仰付一者相勤来
候尤御大名并ニ御家中様方御往来被遊候節上ゟ御通行
之御方ハ大町村問屋ニ而次立、下ゟ御通行之御方ハ小
泊村問屋ニ而次立申候、則人馬之儀ハ上下ニ不限大町
村三分二小泊村三分一以双方持送来り申候義此度大町
村ゟ願書ニ被申上候所乍恐左ニ奉申上候
一此段大町村ゟ申上候通リ弐拾六年以前宝暦未元年四月
廿五日夜大地震ニ而大山抜崩当村家数九拾軒余之内拾
軒ハ半潰残八拾軒余海中に押埋り其節富永喜右衛門様
御代官所ニ而御見分の上人別御改被為遊候所漸海中ゟ
助り出候もの男女合九人不思議ニ生残り其外所々江稼
ニ出候者或ハ奉公ニ罷出候ものを呼寄せ小泊村取立候
様ニ被為仰渡随分出精仕候得共其節御田畑多分荒所罷
成渡世成兼殊ニ人少故猶以宿役相勤候儀不叶先ニ御
役所様へ右之趣奉御願上候ヘハ只今迄御聞済被下成候
所此度大町村ゟ前々の通り小泊村へ三分一当り宿役相
勤候様と申し候得共今以宿役相勤候程之人馬持之もの
壱人も無御座候尤只今居住仕候家数廿九軒御座候へ共
右之内後家女独身者等御座候ヘハ宿役相勤候人別曾而
無御座候其上少々も働くものハ漁船ヲ稼其外ハ男女共
田畑農業相稼申候、たとへ丈夫之人馬持有之候而も今
以人少故宿役相勤兼候
一其上大町村ゟ願出ニ被申上候趣近年火難類焼ニ付貧窮
被成往来諸御用持送人馬不足致候付問屋場日々混雑仕
候由申上候得共大町村之義は家数百三拾軒も有之殊ニ
年来相勤馴候而さへ何かと難渋被申上候小泊リ村之儀
ハ前年申上候通り此儀大町村ゟ願出ニ被申上候火難類
焼之義ハ甚難渋ニ候ヘハ只今ニ至り家立も被致人歩も
有之小泊村難渋之義ハ地震大変之為家財人歩共亡失仕
候ヘハ是又火難焼失とハ各別と被存候御事
(注、「名立崩其他古文書 八通」名立町 により以下
の文を補う。また同古文書により、本書にのせられ
ている古文書のうち、一部誤りを正した)
一大町村ノ願出ニ申上候ハ年々問屋場日々混雑仕勤兼候
ニ付問屋退役仕度と度々村方へ申懸ケ□と申上候
此儀地震大変之砌ゟ廿六ケ年さへ相済其上小泊り村三
分一ノ宿役勤無之ニ而も三分弐之割家数百三十軒ニ而
勤来り候ヘハ混雑被致侯事必定ニ被存候併家数百三拾
軒てさへ勤兼候を只今小泊村漸廿八軒ニ而中々及候処
ニハ行立不申候既ニ渡辺民部様御代官所之節荒井御役
所へ大町村役人壱両人右三分一駅役之義ニ付御訴被申
上候所御元〆藤沢茂兵衛様被仰付候ハ小泊村家数揃不
申其上人すくな之義則小泊村庄屋市右衛門被申上候ヘ
ハ御吟味之上何れニも大町村三分二たけ之駅場ニ而往
来諸士方へ兼而改候様ニ被仰付候処ニ庄屋市右衛門村
方へ先ニ咄置申候左候ヘハ其節ゟ却而村立民家却(ママ)而人
すくなニ罷成只今駅問屋場なと申ハ行立申躰ニハ曾無
御座候
(安永六年の物)
七 (古七)
乍恐以書付御願奉申上候
榊原式部大輔領分
越後国頸城郡
名立小泊村
一名立宿之義往古は名立大町村三分二名立小泊村三分一
都て両村一宿にて名立宿と唱双方に問屋有之日々御
継立方の義能生より継送候分は名立大町村にて継立、
有間川宿より継送り候分は名立小泊村にて継立来候
処、宝暦元未年地震山崩にて当小泊一村民家不残亡失
致し宿場難相立民家相続候迄名立大町村にて宿場継送
候処追々当小泊村民家立出来候ニ付先前江復し問屋旅
籠屋等の手当仕矢張是迄の通両村惣名名立宿と唱ひ来
卯正月より御継立可仕旨領主役場江も相達候間此段御
聞置被下置度奉願候
(以下関係なき故省略)
慶応二寅年十一月
名立小泊村
惣代 彦右衛門
問屋役 市川与右衛門
御本陣
庄屋 小林瀬左衛門
加州様
御会所
加州様
御飛脚御宿中
富山様
御飛脚御会所
七 東遊記の赤気考
橘南谿の東遊記名立崩の部に当日小泊の漁夫が八里も十里
も沖に出て釣りをして居ると名立の方角が一面に赤くなり
大火事らしいので一同我(先)一と舟を早めて帰って見れば火事
もなく何の変りもなかったと述べて居り最後に
余其の後人に聞に大地震すべき地は遠方より見れば赤気
立のぼり火事のごとくなるもの也と云へり。
と言って居るが、一大異変の前兆として満天血の如く赤く
焼けたならば神秘的を通り越して凄惨の気に肌、粟を生ず
るであらう。岡本綺堂の戯曲には此の赤気が非常に重要の
物として取扱はれて居る。
併しながら此の赤気の事は東遊記以外の当時の古文書には
一つも見当らぬ。又本邦地震の際に空の焼けて赤くなった
記録も寡聞にして見掛けぬ。慶弘紀聞には空の赤焼けした
記事もあり又慧星や大流星と認められる火光についても随
分詳細に記録してあり特に名立崩れの記事が同書にあるの
に其の部に空の赤気の記事が無いのは変である。
同書に記載の赤気の記録には左の如きものがある。
一寛永十二年(一六三五)三月二十六日天赤如火
一明暦二年(一六五六)正月二十三日行即位之礼、是夜
有赤雲見西方。
一明暦二年六月有赤気二道、自申酉之交見西方、及
夜光耀如火。数日不滅時呼火柱。
一寛文二年(一六六二)三月六日ヨリ至二十日日色毎
旦如血月亦赤。
右の記事の内明暦二年正月出現の物は赤雲とのみで其の程
度が不明であり六月出現の赤気は火柱の如きものだと書い
てあるが他の記事は満天の赤気で物凄い感じがする。空の
赤焼は今日の気象学では空中に微粒の塵埃を多量に含んだ
場合日光が之に映じると真紅の色を呈すと言はれて居る。
我国特に日本海方面では満蒙の砂漠の細砂が朔風に吹上げ
られ所謂黄塵万丈となって日本海を渡って来る事は容易に
考へられる事であり是等満蒙の大風は三四月の頃に最もよ
く吹くのであるが寛永十二年の赤気も寛文二年の赤気も共
に三月である点は頗る考慮に値すると思ふ。名立崩も四月
の事であり鳥首岬辺局部的に空が赤色を呈したかも知れぬ
が只当時の文献には東遊記以外何れにも記事がないのであ
る。
八名立崩と名医相沢玄伯
糸魚川には名物ござる
豆腐、玄伯、稚児の舞
右の歌にも出て居る様に国手相沢玄伯氏は代々名医と言は
れて居るが初代玄伯氏が今を距る事三百余年前、家を新田
町に起してから医を業として十二世玄伯氏が昭和十二年三
月歿せられ現十三世に至るまで連綿として続いて居る。
第一世玄伯道遊氏は宇都宮の武士であって異端の学に通じ
て居って糸魚川城主荻田主馬の客臣となって居った。第三
世以下第十世に至る迄皆京都余寿院法眼山脇に就て医伝を
受け続いて有馬、本多、松平の領主に客となって居た。就
中第三世最も有名で医学の外儒学にも達し傍、禅を学び易
学に通じ詩文をよくし特に漢文は平易流暢の評が高く又家
憲を定めて子孫を訓戒し、有名の胃腸薬奇妙丸を製した、
又代々脳精神病の独特治療法を相伝研究し鎮心湯及び独聖
散を製し俗に「玄伯様の気違薬」と呼ばれ其の名が遠近―
特に遠方によく知られて居る程である。
宝暦元年頃と言ふと多分四代目か乃至五代の玄伯氏と思ふ
が名立崩と名医玄伯氏の間に一つの物語がある。
加賀侯が参勤交代で帰国の際丁度宝暦元年四月二十五日名
立に宿泊される事になった。加賀侯は綱紀卿以下歴世名立
寺を本陣として居られたのであるから此の時も亦そうであ
ったと思ふ。尤も一族家臣の為に塚田清兵衛も亦本陣に指
定されてあった。所が朝から元気で居られた殿が名立へ到
着されると間もなく御気分がすぐれぬので侍医に診察させ
られたが何処にも異状がない。併し殿の気分は益々悪くな
るので殿も家臣も不思議に思ひ心配せられるし侍医も再三
再四診察するが病根が不可解なので一応他の医者に見させ
る事となり名医を探されると丁度折よく北陸街道一の名医
と言はれる糸魚川の相沢玄伯氏が名立町に来て居られる事
がわかったので直ちに使をつかはされて招待された。
玄伯氏は直ちに慎重に診察して見たが侍医の見た通り身体
の何処にも異状が無い。併し殿は益々気分がすぐれぬと言
はれるので流石は名医の玄伯氏は遂に一つの断案を下した
のである。それは
「身体に異状が無く即ち病根が無いのに御不快なのは此の
土地が悪いのであります。此の土地に何か不吉汚凶の事
因が有るのですから速に此の土地を御去りになられたが
よろしう御座います。」
と建言した。殿も成程と首肯せられて速時出発の命令が発
せられ一行は能生駅(本陣大島市左衛門)に向はれた。玄
伯氏も勿論名立を去ったのである。
所が其の夜彼の大地震が起ったので名立に居られたならば
名立寺は潰れぬにしても一行は宿屋にも宿泊して居るので
あるから矢張大災を蒙ったのである。加賀侯は精神不快と
なったのは異変に感応せられたのであらうが玄伯氏が「土
地に異変あり」と断定したのは独り医学ばかりでなく博覧
達識の学者でなければ出来ぬ事だと言ふので一層名医の評
が高くなり遂に冒頭に掲げた歌が出来たのであると言ふ事
である。
此の話は当時の玄伯氏が如何に名医で有ったかと言ふ事を
表現する物語で其の実否を第十二代玄伯氏に質した事があ
るが「私も其の話を伝へ聞いて居るが第三代についで第四
代も中々偉かった様であるから多分此の方だと思ふが確た
る事は解らぬ」との話であった。
それで相沢家の過去帳を拝見すると有名の第三代が享保十
九年(一七三四)甲寅九月十九日に歿せられ第五代は第四
代より早く明和七年(一七七〇)十一月六日に長逝され第
四代は後るゝ事六年安永五年(一七七六)丙申六月六日の
永眠であるから宝暦の大震から第五代は十九年後第四代は
二十五年後迄存命であった訳で此の二人の内何れが人体か
ら地相を卜して凶変を予告されたか不明であるが人物から
推察して第四代であらうと親類の方も言はれるのである。
所が加賀侯が名立に宿泊せられるならば庄屋の池垣右八が
梶屋敷に来て宿泊して居るのは変であるとの疑問から加賀
侯の方を調査して見ると遺憾ながら其の対照は加賀侯では
ないのである。
加賀侯利幸公は此の時江戸で帰国の準備をして居られたが
此の大震で長野、高田、名立、富山の通路は往来が出来ぬ
ので中仙道から福井を大迂回して帰国されて居られる。
「越中旧事記」に
利幸公御帰城時節之処、右之越後大変ニ付テ通路無之、
依御願同八月中仙道通リ御帰城也
とある。又金沢藩の情況は「前田金沢家譜」に
五月二日重煕、大将軍賜フ所ノ鶴ヲ宰シ物頭以上ヲ饗シ
散楽ヲ観セシム。楽半ニシテ前月二十五日夜越後地大ニ
震ヒ、名立ヨリ高田ニ至ルノ地圧死スル者多シト伝フ。
重熙報ヲ聞キ便チ席ヲ起チ、急ニ健歩ヲ発シ金ヲ齎シ藩
臣ノ江戸ニ于役スル者、或ハ災ニ罹ル者アルヤヲ存問
シ、且旅費ヲ給セシム。後数日使者還リ報シ曰、干役ノ
士一人ノ災ニ罹ル者アルナシト。是ニ於テ重熙坐立始テ
安シ。聞者感喜セサルナシ
と記載されてあるので藩主の街道筋通行は無かったのであ
るが万更根拠の無い作り話では無いので或は藩主帰国の先
駆の一団が江戸から途中へ出張して居り相当重役も居った
ので有ったらうか。前文中に
藩臣ノ江戸ニ于役スル者、或ハ災ニ罹ル者アルヤヲ存問
シ且旅費ヲ給セシム。
とあるのは江戸市中に居る藩士でなくて江戸から出発して
途中に就役して居る家臣をさすらしいのであって江戸から
出発する家臣には江戸の藩邸から旅費を給すればよいので
本国からわざ〳〵送金せぬともよい訳であるし、使者も亦
健脚とは云へ震災地の北陸街道を金沢から江戸迄数日の間
に往復して復命する事は不可能の事であるから精々震源地
高田附近迄来たものと推察される。惟ふに重煕侯が非常に
心配された点から考へ御分家等で前田姓を名乗られる重臣
の一団が此の街道を帰国の為通行中であったのでは無から
うか。前田姓を名乗られる重臣ならば勿論、其の程度の他
の重臣ならば只加賀様としての話が伝はり残るのは当然と
思はれるのである。
名医玄伯氏については此の外に幾間も距った見えぬさきの
ものを糸脈によって猫と人とを判断して当てて加賀侯の信
任を得た話や葬送行列の棺内の死人の未死を知って蘇生さ
せた等幾多の逸話が伝って居るが先祖以来皆玄伯を名乗ら
れるので第何代目か不明のものも多いのである。
九余録
㈠能生谷村大沢滝川善兵衛氏記録(原文)
(西頸城郡誌所載の善兵衛氏記録は此の原文を中川直賢
氏が改作したものらしいのである)
○震動の危変
日行月亦来って其年も既に暮れ明れは寛延四辛未年に至り
諸人も去年の潤にて卯年以来艱難辛苦忘れ果て角て正月は
新年之御慶も始り歌や笑ひの絶し世も一時に賑ふ世と換し
峯も下りて淵となり淵も上りて峯となり明日は泣世と換る
とも知らぬもの□□(こそカ)哀れなり。早正月も末方の廿五日の夕
方より雪降出て同二十九日の明方に小粕の如き赤色なる雪
降り来り依之亦も危変の来るかと皆人顔を見合へけり。実
に光陰砲玉の如くにして四月二十五日に至り同日夜八ツ時
俄に大地震動して山々一時に崩れ人家を潰し人馬鳥獣の即
死夥敷能生谷西の方は平村より槇村迄に東は鷲尾村より高
倉村迄、此村々は別して山崩にかゝり家屋を潰し人馬の怪
我夥敷、平村にては皆潰一軒、半潰十二軒、槇村にては皆潰
五軒半潰数多、同村治郎左衛門即死す。此外谷中村々半潰
怪我人等無之村は更になし。此地震毎日昼夜数度動き諸人
困却少なからず依って谷中村々相談整ひ藤後村庄屋太郎左
衛門を以て伊勢大神宮へ祈念の代参を立て則祈念するに、
御師より一万度の御祓御附与相成候。代参も無恙く帰国致
され尚亦谷中相談の上御祓は槇村金山権現へ奉納す。亦十
二月に至り伊勢御師より五千度の御祓能生谷村々へ壱封づ
つ御下与相成候。依って村々より御初穂として銭五百文つ
つ献納す
一名立谷は小田島村より平谷村迄て渡辺高山一面に抜崩東
蒲生田村の下岸迄て突付しにより川水湛へて一時に海を
なし併て小田島村人家残らず潰れて男女即死三十八人怪
我人のなき家更になし。殊に寺二ケ寺抜底に消滅す。亦
東蒲生田村々内字足崩是も後なる高峯崩れて人家皆潰即
死怪我人数多し。池田村も後なる山嶺切れ落、漸く家数
五軒残り外悉く土中に消亡す。此外村々震動のため皆潰
半潰れ或は人馬の即死怪我人数得るに遑なし。亦浜名立
小泊村壱在所皆潰れ、殊に当村たるや北越に名を上げた
る鳥ケ首に連続したる高峯村落の後南をたち北は海原に
臨みて只々往来を跨り而已山岑は一面岩石を重たる如く
懸る高峯一時に崩れて海中へ突出し無慙なるかな壱村の
男女老若鳥獣も数丈々の岩石の下に悉く消滅する事不便
なり。
一仙納徳合の両村も人家大体半潰にて怪我人多し。
一桑取谷の村々は別して危災にて東吉尾村是も渡辺なる
高峯崩れて人家二十軒在居の所漸く一軒残り外十九軒は
山崩れの底になり人馬皆滅す。西吉尾村にても東吉尾の
抜崩を突上けたる為に皆潰或は半潰にて人数廿九人即
死、此外堅(怪)我人夥敷漸く斎京三太左衛門而巳無難なり。
此外下横山小池の両村も人家過半潰れて人馬死亡怪我人
数多なり。有間川村にては追立山崩れて一村皆潰即死四
十八人怪我人夥敷、此外桑取谷の村々皆潰半潰怪我人等
数多にて惣して無難の村更になかりけると。
一高田町は当時□家二千九百四十一軒の内二千八十二軒皆
潰、四百十四軒半潰、四百四十五軒破損即死二百九十二
人怪我人数知れず。
一今町は漸く町家二十軒破損外不残潰れて即死怪我人知れ
す凡て頸城壱郡の中には無難の村落更になし。
角て此地震にて家屋の損害は勿論田畑耕地の荒害莫大の事
にて唯其率を記す而已にて去卯の水害よりは百倍したる危
変なりと。♠に御領主榊原式部大輔殿御領中の人民災害に
罹り生活を失ひ目下の困難見るに忍ひすとの御意にて亦々
御救助の御救助、剰へ御拝借返納方も未だ莫大の不納なる
所斯る天災、是偏に国の不幸なりと更に御不興の体も無之
と♠に武将源頼朝公より四十代にして徳川九代の孫将軍松
平家重公の御治世なる所に頸城郡の天災によりて御領主よ
り金一万三千両御拝借御願立に相成り候所則頸城の天災は
稀成事に付御願の通り御下渡相成候。依て御拝借金の内二
千両也御領分六万石の内災害に罹りし者へ御貸付け相成り
同手前の高田市中へ同断同一万両也御城并に御家中へ御貸
下け被遊候。能生谷二十四ケ村の他皆潰一軒に付金一分と
銀六匁二分五厘つゝ、半潰一軒に付下銀七目三分づゝ右割
合の外金三十両能生谷中へ御貸下け相成右合せて来申年よ
り巳年迄十ケ年賦返納被仰付候。
一寛延四年十二月(十一月廿七日)年号御改則宝暦元年と
御改称有り
一宝暦二壬申年、本年も早春より尚地震度々動ると雖も僅
少の事にて諸作は十分に満熟也。従て米価も下直きし諸
品も直を下直きすれは諸人五ケ年の艱苦を離れて再ひ安
堵の思をなしけり。
○寛延四未年
越後国頸城郡大地震覚
榊原様御領中頸城郡之内未之四月二十五日之夜八ツ時大地
震損害之覚
一死人 五百五人 但シ内五人他所之者 僧俗男女
共に
一怪我人 二百六十二人 但シ生死不定
一死馬 八十五疋
一痛馬 五十二疋
一死牛 十二疋
一潰家 二千九十九軒
一伝馬 二疋落
一内怪我馬 二疋
一寺院 六十九ケ寺潰、但地中の分相除
一社家潰 五軒
一修験道潰 八軒
一死人 三十四人 内 十七人男 十六人女
死人分 三百二十六人 但シ僧俗共
此外頸城郡之内御天料(領)分未詳
一少破 八棟 足軽長屋大破六棟惣死人十二人
一町宅の侍分死人 十一人
一扶持人 死失
〆 三十三人
高田町家之部
一潰家 二千八十二軒
一半潰 四百十四軒
一破損家 四百十五軒
一潰土蔵 四十六ケ所
一死人 二百九十二人内男百十八人女百七十
四人
一鉢崎御金蔵 大破
一同所 御関所外往還山抜にて大破
一塩浜三歩通山の下相成候 村方壱ケ村
御家中分
一大潰 九十軒
一半潰 五十五軒
一大破 十一軒
一小破 四十四軒
一損失無之家 六軒
長屋
一大潰 三十二棟
一半潰 二十七棟
一大破 三棟
一同大破 二ケ所
一苗代壱歩通損失 二ケ所
一同 二歩通 五ケ村
此類多有之略之八十七ケ村也
一過半損毛或は少々宛致候村七十五ケ村也
一田畑屋敷等替無并痛之類山崩共に一歩通りより皆無近村
方位付略之百三十八ケ村也
一少々損失之類五十三ケ村
一大瀁郷用水通保倉川筋損落大破
一塔ケ崎溜池大破田畑所々損失也
一斗蔵 二ケ所
一用水江堤堰川筋等破損 百六十八ケ所
一損失之村方 八ケ所 外荒川瀬違 一ヶ所
一樋 十七ヶ所
一損失之村方 四ヶ所
一山抜川欠 四百七十一ケ所 外 山崩屋敷 山崩林三
ケ所
一橋 五十二ヶ所
一御高札場 三ヶ所
一道筋破損 五十二ヶ所
一半潰 二千百六十二軒
一寺 百ヶ所 内 四十五ヶ所半潰
一社 二十五ヶ所 内 十八ヶ所半潰
一堂 十五ヶ所 内 六ヶ所半潰
一庵 五ヶ所 内 三ケ所半潰
一道場元 四ヶ所 内 三ケ所半潰
一塩屋 百三軒 内 八十一ヶ所半潰
一土蔵 七十一ヶ所 内 四十一ヶ所半潰
一郷蔵 四ヶ所
一他屋 四軒
㈡ 東遊記 巻二
名立崩
越後国糸魚川と直江津との間に、名立といふ駅あり。上名
立下名立と二つに分れ、家数も多く家建も大にして此の辺
にては繁昌の所なり。上下ともに南に山を負ひて北海に臨
みたる地なり、然るに今年より三十七年以前に上名立のう
しろの山二ツにわかれて、海中に崩れ入り一駅の人馬鶏犬
こと〴〵く海底に没入す、其のわれたる山の跡、今にも草
木無く真白にして壁のごとく立り。余も今度下名立に一宿
して所の人に其の有りし事どもを尋ねるに皆々舌をふるは
していへるは名立の駅は海辺の事なれば惣じて漁猟を家業
とするに其の夜は風静にして天気よろしくありしかば一駅
の者ども夕暮より船を催して鱈鰈の類を釣に出たり、鰈の
類は沖遠くで釣ることなれば名立を離るゝ事八里も十里も
出て皆々釣り居たるにふと地方の空を顧みれば名立の方角
と見へて一面に赤くなり夥敷火事と見ゆ。皆々大に驚きす
はや我家の焼うせぬらん一刻も早く帰るべしといふより各
我(先)一と船を早めて家に帰りたるに陸には何のかはりたるこ
ともなし。此の近きあたりに火事ありしやと問へどさらに
其の事なしといふ。みな〳〵あやしみながらまづ〳〵目出
たしなどいひつゝ囲炉裏の側に茶などのみて居たりしに時
刻はやう〳〵夜半過る頃なりしが、いづくともなく只一ツ
大なる鉄砲を打たるごとき音聞えしに其の跡はいかなりし
やしるものなし。其の時うしろの山二ツにわれて海に沈し
とぞおもはる。上名立の家は一軒も残さず老少男女牛馬鶏
犬までも海中のもくづとなりしに、其の中に只一人ある家
の女房木の枝にかゝりながら波の上に浮みて命たすかり
ぬ。ありし事共皆此の女の物語にて鉄砲のごとき音せしま
では覚え居しが其の跡は只夢中のごとくにて海に沈し事も
しらざりしとぞ。誠に不思議なるは初の火事のごとく赤く
みえしことなり。それゆえに一駅の者ども残らず帰り集り
て死失せし也。もし此の事無くば男子たる者は大かた釣り
に出たりしことなれば活残るべきに、一ツ所に集めて後崩
れたりしは誠に因果とやいふべき、あはれなること也と語
れり。余其の後人に聞に大地震すべき地は遠方より見れば
赤気立のぼりて火事のごとくなるもの也と云へり。松前の
津波の時雲中に仏神飛行し給ひしなどいふことも此のたく
ひなるべしや。
此の名立駅は古人佐渡へ渡り給ひし時一宿し給ひし所なり
とぞ神主竹内太夫といふ者の家に古き短冊を所持せりとい
ふ其の歌に
都をはさすらへ出て今宵しもうきに名立の月を見る哉
是は菊亭大納言為兼卿佐渡配流の時此の駅にてよめる和歌
なりといふ、或説に順徳院の御製とも云ふ余は其の短冊み
ざりしかばいづれともしらず、されど歌の躰臣下たる人の
作にもやと思はる。又名立の次に長浜といふ浜あり。
黄暮に往来の人の跡絶えて道はかどらぬ越の長浜
などいへる古歌もありと聞り誠に此のあたりは都遠くよろ
づ心細き土地なりき。
㈢脚本名立崩梗概
脚本名立崩は岡本綺堂氏作であって大正十二年四月
の作で大正十三年十一月帝国劇場で初めて上演にな
ったものである。全文を載せる事は出来ないので梗
概だけを述べる。
宝暦年間越後の古い漁師町名立に漁師五郎兵衛といふ者が
あって妻をおなかと言ひ村一番の利口者のお今といふ十七
八歳の娘があった。
冬の初めの或る薄暗い日の午後此の五郎兵衛宅へ近所の漁
師二三人が集まって流木を燃してあたりながら世間話をし
て居る所へ老いた旅僧が来て休ませて貰って居る所から初
まる。
其の時の皆の会話は「例年ならば十月から霙や霰が降り海
が荒れるのだが今年に限って風も吹かず、雪も降らず毎日
空が薄墨の様にどんよりして居ること」「しかも半月前か
ら岸の方から見れば沖の空が赤く沖から見れば岸の空の赤
いこと」「それが一日増しに赤くなって行くこと」「赤くな
るから明るい筈だが昼でも薄暗いのは何の仔細だらう」と
近頃の怪現象を語り合ふ。此の話を考へながら聞いて居っ
た旅僧が「火に当らせて貰った御礼に皆さんの心得の為め
に私の聞いた話をしてやるが昔々何千年の大昔矢張此所で
日も月も真暗になり海の空は血の様に赤くなったので不思
議に思って居ると或日の事天地が崩れる様の音がして此の
辺五里四方の土地があっと言ふ間に家も人も犬猫も共に深
い奈落の底に沈んでしまったが只一人助かった。此の人は
賢くて天地の異変を見て近い中に今の世が亡びると言ふ事
を知って遠い所へ逃げたからだ。さうして其の沈んだ跡へ
は後の山から新しい土が崩れて来て旧い世界を埋め新しい
世界が出来たのだ。其の世界が今日まで続いて皆様が住ん
で居るのであって此の下には昔の世界が埋められて居る。」
といふのでお今は「近頃空が赤く見えるのはその大昔の大
事変の前兆ではないか」と怯えて聞く。
此の話を聞いた五郎兵衛は怒って立上り僧の手をとって
「早く出て行け、そんな口から出任せの噓を信用すること
は出来ぬ。祈禱でもして旅費でも巻上げやう積りだらうが
その手は食はぬぞ。」といふ傍の者も賛成する。旅僧は「本
当に昔の様の事が起ったら如何する考へだ。」といふけれ
共五郎兵衛は聞かずに旅僧を家の外へ突出して仕舞ふ。
僧が去って仕舞ってから尚お今は「あれが尊いお上人様で
私達の禍を未然に救ふ為めにわざ〳〵立寄って下すたので
はないかあの通り海の空が又赤くなった。」と言ふが父親
も母親も他の漁師も取り上げない。
其所へ近所の娘のお雪(十七八歳)が今夜嫁入りすると言
ふので盛装で母と一緒に挨拶に来たので一同が祝辞を述べ
母子も現実の喜びにひたって帰って行った。其の後で今度
はお今の結婚話も出たがお今は「それ所ではない。」と言
って窓から赤い海の空を眺めて考込んで居る。一座やゝし
うんとしたので炉に火をたき添へたが先の旅僧の話が思ひ
出されて皆が不安を感じ出したが五郎兵衛ばかりは「何千
年間数限りない人によって踏固められて来た此の土地が今
更出し抜けに沈むの落ちるのとそんな道理があるものか。」
と頑張るが空の赤い現象は何故かといふ問題になると誰も
解らぬが、その中にはどうかなるだらうといふ様の話で漁
師たちは帰って行く。
近所の人の帰った後で、両親は海の空を見つめて居るお今
に「先祖代々からの土地がぐらつくものでない親の言ふ事
に間違はないから安心しておいで。」と言ふて奥の間に入
ったがお今は矢張り海を眺めて居るとだしぬけに一人の若
い旅人が入って来た。
旅人はお今の質問に対して「自分は奥州の方から南の方の
暖い方へ行くのであるが此の辺は淋しい町や暗い家ばかり
で面白相の話は一つもなく今朝から此所迄の道中で唯一人
の出家に会ったばかりだ」と答へる。
そこでお今が出家の様子を聞くと旅の若人は「出家はすぐ
其所の浜で見掛けたが海を眺めて溜息をつき此方を見て念
仏を唱へて居た。」と答へる。
そこでお今が空の赤い事について出家の言った事を言ふと
旅人はそれを聞いて考へて居たが「それが本当かも知れ
ぬ。こゝで考へて居るより引返して出家に会うて委しく聞
いて見やう。」と言って日暮れの街道へ飛出した。
お今が旅人の行方を暖簾口から見送って居る所へ前世の人
が煙の様に入って来たのでお今は押戻される様に宅へ入っ
て誰何すると前世の人は「俺は何千年の昔から此の土の下
に埋められて住んで居るものだ。俺達の町も家も体も皆此
の下に残って居るのだ。あの出家の言った事は噓でない。
俺達の古い世界は沈んで其の上に新しい世界が別に出来た
のだ。其の新しい世界も今では古い世界となったので更に
新しい世界が出来る時節が来た。お前達は今此の土の下に
埋められて頭の上に新しい家や人間を頂く時が来たのだ。
海の色を見ろ。俺達の亡びる時にも海はあの様に血の様に
赤くなったのだ。神様は禍を未前に知らして下さるのだが
人間は馬鹿だから気がつかないで此の世は万代不易、この
土地は大磐石だと信じて居ると不意に世の中がひっくり返
って土の下に葬られて仕舞ふ。併し俺達の時にも利口の者
があって唯一人災難を逃れた。今も昔も賢い人間だけが旧
い世界から新しい世界に住む事が出来るのだ。お前は浜中
たゞ一人の利口者だから早く此所を逃げて新しい世界に生
る工夫をしろ。」といふて煙の如く出て行く。
お今は夢から醒めた様にあわてゝ父母を呼び今の話をして
立退きを勧めたが父母は聞入れない。其の時以前の旅人が
帰って来て「出家には会はなかったが道々考へると出家の
話は本当の様の気がするから立退いたらどうだ。私も人の
難儀を見捨てる訳には行かぬから一緒に逃げやう。」とい
ふ。五郎兵衛が怒り出して「お前は一体何者だ」ときくと
旅人は「俺はお前様達を救ひに来たのだ。海を見なさい。
禍の来るのが判らないか。」と勧めるが五郎兵衛はどうし
ても此所は動かれぬといってきかないので旅人は「お前さ
んは気の毒の人だ。」と歎息して居ると外では浜の男女が
大勢走り出してさっきより十層倍も赤くなった海を見て騒
ぐ。旅人とお今は立退きを勧めるが五郎兵衛はきかぬので
旅人は「利口の者は一刻も早く立退いて新しい世の中に生
きるのだ。せめてお前さんだけでも……。」といってお今
の手を取って家の外へ逃れ出る。外の人々は狂った様に叫
ぶ。お仲も心配して夫に聞くが五郎兵衛は聞入れない。旅
人とお今の姿はもう見えぬ。外の人々は今は声さへ出すも
のがなく恐怖の眼で血の様の海の空を見つめて居る。幕