Logo地震史料集テキストデータベース

西暦、綱文、書名から同じものの一覧にリンクします。

前IDの記事 次IDの記事

項目 内容
ID J0801224
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1714/04/28
和暦 正徳四年三月十五日
綱文 正徳四年三月十五日(一七一四・四・二八)〔信濃大町〕江戸・名古屋・羽前→数回
書名 〔北安曇郡史〕○長野県
本文
[未校訂]1 大町組地震
 一七一四年(正徳四)四月二八日の大町組地震の記録は、
大日本地震史料によると次のようである。
 「此の日信濃国地震す。大町にて家屋の全潰半潰を合
して三〇〇軒、死者五六人、死牛馬四六頭あり」。
さらに新撰仁科記によると、
 「正徳四年三月一五日の夜亥の刻(午後一〇時頃)大地
震あり、千国村坪光沢(ママ)上の山岳崩壊して、人家田畑皆埋
没し、男女三〇人、牛馬八匹死す。同時、四ケ庄(上城
・北城・小谷・中土)の堀之内に於いて、人家四八軒潰
れ、男女一四人、牛馬三六匹死す。同時、中谷村の雨中
に於いて人家二軒、来馬村雨中に於いて人家四軒、同村
宮本に於いて四軒、土谷村の下り瀬に於いて六軒、同村
由尾に於いて二軒潰れたり。爾時、姫川濁水し、潰家多
くは流失の災に罹れり」
とある。当時の大町組はいまの大町市と北安曇郡のうち池
田町と松川村を除いた全域に当たり、そのころの細分され
ていた村数で五四か村を総称した。このときの地震の詳細
な記録はないが、被害程度からみてマグニチュードは推定
六・四で、一九一八年(大正七)の大町地震をしのぐもの
である。震源は小谷村南部にあったと考えられる。
出典 新収日本地震史料 第3巻
ページ 124
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 長野
市区町村

版面画像(東京大学地震研究所図書室所蔵)

IIIF Curation Viewerで開く
地震研究所特別資料データベースのコレクションで見る

検索時間: 0.001秒