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項目 内容
ID J0700150
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1703/12/31
和暦 元禄十六年十一月二十三日
綱文 元禄十六年十一月二十三日(一七〇三・一二・三一)〔関東〕
書名 〔船橋市史 前編〕
本文
[未校訂] 次ぎに、元禄十六年十一月二十三日の朝二時か三時頃
(八つ時とも八つ半時ともいう)起った地震は、江戸とい
わず船橋といわず、武蔵、相模、安房、上総、下総地方の
被害は最も大きかった。この地震は学者の観察によれば、
震源地は大正十二年の大地震と同じく、相模灘と上総勝浦
沖とにあり、それが殆んど同時に揺れ出したと言われる。
江戸では地が割れて泥を吹出したところも多く、石垣は崩
れ、家も蔵も潰れ、穴蔵まで揺り上げ、江戸城内の櫓も多
門も多く倒れ、市中には火事も起り、大騒ぎであった。殊
に安房、上総、相模あたりでは、津波を出して人馬死ぬも
の最も多かった。凡そ江戸で死んだもの三万数千人、小田
原で死んだもの、二千三百人、小田原から品川までの海岸寄
りで死んだもの一万五千人あった。殊に安房上総地方の被
害は最も大きく、安房での死人は十万人に上るといわれた。
〔武江年表、徳川実紀等に拠る〕。
 この時我が船橋市内旧山野村青山勘右衛門貞長は当時三
十二歳の若盛りであったが、その書きしるしたものに拠れ
ば、二十二日夜の八つ時半(午前三時)より明け六つ(午
前六時)まで三時間ばかりの間に、二十五度の地震があ
り、その内大震九度、二十三日の夜中までに大小の地震合
して百三十六回あったという。貞長は其の記録に「前代未
聞の大地震なり。国々にて山も崩れ田畑も淵に成、海辺に
て里も海に成。人幾千万の数をしらず死す」としるした。
また「同、江戸武家町家共不及申、御城石垣悉く崩れ、
御殿御破損す。武家屋敷出火、地震と共に大火事、不思議
のよし上下申候。同夜、相州小田原にても地震と大火壱
度、人多く死す。惣じめ相模阿波(安房)上総下総四ケ国
武州の義不及沙汰、地震津波火事にて人二十二万七千余
人死す。御吟味の上御書上げ如此」としるした。学者の
説によれば、大正十二年の地震よりも余程大きな地震であ
ったらしいという。蓋し我が船橋宿及び近郊農村の被害も
大きかったであろう。船橋では是まで江戸城に年々魚貝の
献上をして居ったが、これ以来不漁となり、翌宝永元年よ
りは代永納を認められることとなった。漁業に及ぼした被
害も少くは無かったのである。
 凡そこの地震、明くる年五六月頃まで余震が続いて、一
日に一二度ずつ揺れぬ日は無かったという。貞長翁の記録
には「右大地震より明る五六月迄一日に一度二度宛地震止
事なし」とある。大地震であっただけに余震も長かったと
見える。
出典 新収日本地震史料 第2巻 別巻
ページ 239
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 千葉
市区町村 船橋【参考】歴史的行政区域データセットβ版でみる

版面画像(東京大学地震研究所図書室所蔵)

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