[未校訂] 大地震に伴う津浪についての古い文書を尋ねると、次の
ようなものがある。二三ここに紹介したい。
山武郡九十九里町粟生九三〇番地飯高家文書(現当主市
原利彦氏)
元禄十六未年十一月二十二日夜子ノ刻ヨリ俄ニ大震ニ
テユリカエシ〳〵表ニテ大タイコ打候如クニナリヒヾク
同丑ノ刻ニ大山ノ如ナル津浪二三ノ浪続イテ入来ル別テ
二ノ浪ツヨクシテ家口木共ニ押流サレ大木ハ土手共ニ二
三丁程モ流逃人々之ウチニテモ浪ニ追イツカレ水ニ溺レ
死スモノ脇村ハ格別当所ニテ百人余也牛馬鶏犬マテ水ニ
溺レ死ス又水ヲワケ出テモ寒気ニ綴レテ死スモノ多シ暁
天ニ潮汐引退哀ナルカナ骸ハ道路ニ累々トス住人コゝヲ
去リカネタリ浚来如斯ナル事態々心得ヱテ家財ヲ捨逃去
ルベシ右年□二十七年以前ニモ大成地震有リテ浚津浪入
□□前モ廿七年以前ニ入ル五十壱年以前ニモ入タルヨシ
伝聞度々之津浪ノ如ナル中半以前ヨリ語リ伝ヱナ□□□
昔足利の御代康安□年中四国雪之湊津浪入タル後初ナル
ベシトカ
長生郡長生村高根大沼家文書(現当主大沼義則氏)によ
れば
元禄十六未十一月廿二日大地震夜八ツ時津浪凡十町斗
揚来人多死
是ハ南船頭給より北ハ入山次迄人別八百余人死ス
これらの古文書に見える凄惨きわまりない状況をいくつ
か追求して見るに
① 元禄十六年(一七〇三年)当時の汀線の位置は現在の
どの辺であるか推定すると
飯高家文書安永五申年(一七七六年)の御検地書上帳
によれば
御料新田下より浪打際迄東西一三〇間
小川家文書天明六年(一七八六年)三月浜屋鋪下芝内
見帳によれば
新生境より新右衛門納屋脇道迄南北一一七間
東西六〇間是より浪打際迄一四四間
又同家天保一三年(一八四二)の御用留片貝村海岸持
場絵図によれば
村方民家より浪打際迄凡二九〇間 とある。
又長生郡白子町内山家の古地図(元禄四年)尚横浜国
大太田陽子の学説、更に小川家文書の文禄三年(一五九
四年)片貝村田畑御繩辻(水帳)等を綜合するに元禄汀
線更に降って天保汀線は次の図に示すよう推定できる。
以上のように旧汀線を推定するに元禄汀線は現在の一宮
~銚子県道、天保汀線は現産業道路と推定される。元禄汀
線と天保汀線の間かくは二七五mでこの間一三九間の海退
現象progradationを示す。
さて再び飯高家古文書にかへって考へるに、文中粟生村
飯田家の付近まで津浪の襲来を物語っているので(A点は
飯高家)大山のような津浪は別図B線付近まで押し寄せた
ことを物語る。この付近は海抜高度3mの等高線が走って
いる現在の一宮~蛇園間で俗にいう準県道である。この付
近は元禄汀線より直距離で、一三五〇mである。従って旧
豊海町の「新田」「不動堂下」「粟生下」旧片貝町の「下谷
南新田北新田」等は津浪によって洗われてしまった地域で
ある。こうした地域では「いわし」の豊漁期に急増した宿
新田下、西ノ下、北ノ下等にあった納屋は一掃されてしま
ったのである。
この津波の引き去った跡には汀線最後の微高地即ち二・五
mの等高線(C線)のあちこちに死人の山を築いたのであ
ろう。この二・五mの等高線が最後の堤防線になったにち
がいない。
今九十九里町にある津浪による死者の供養塔(つなみ仏)
がこの二・五mの砂堆上に分布しているのも暗に地形的な
成因を物語っているわけだ(別図のD・E・F)。