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項目 内容
ID J0700140
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1703/12/31
和暦 元禄十六年十一月二十三日
綱文 元禄十六年十一月二十三日(一七〇三・一二・三一)〔関東〕
書名 〔白子町史〕
本文
[未校訂] この大津波はかなりの人的物的被害をあたえたことは間
違いなく、茂原市、鷲山寺の門前にある供養碑碑文によれ
ば、正面には南無妙法蓮華経(日暹書)と題し、裏面には
「維時宝暦三癸酉十一月廿三日」とある。したがってこの
供養碑は大津波のあった元禄十六年から、五十一年後にあ
たる宝暦三年、死者の供養を営んだ時のものである。とこ
ろで正面(表)には溺死者の数を列記している。すなわち
八百四十五人一松郷中、三百四人幸治村、二百二十九人中
里村七拾人八斗村、八人五井村、二百七十二人古処(所)村、四
十八人剃金村、七十三人牛込村、五十五人浜宿村、二百□
(五カ)拾人四天寄(木)村とあり、郷土の村々(幸治・中里・八斗・五
井・古所・剃金・牛込・浜宿の八カ村)の人数はあわせて
一〇五九人となる。しかしこの各村の溺死者の数は、まさ
しく各村々の居住民の溺死人数を示すものかどうかは念の
ために別に検討を要するであろう。なお、本供養碑の右側
には「元禄癸未歳十一月廿二日夜丑刻大地震東海激浪溺死
都合二千百五十余人死亡允癸酉五拾一年忌営之」と記され、
左側には「天下和順開山日弁聖人日月晴明長圀山鷲山寺、
施主、門中、男女」とある。これによれば元禄の大津波は
元禄十六年十一月二十二日の夜丑の刻(夜の一時から三時
までの間)に起ったこと、この供養碑にもとずく限りにお
いて、溺死者は二、一五〇余人である。この数字はもちろ
ん、一松郷外九カ村の溺死人数であり、激浪をうけた東海
全域の溺死人数を示すものではなかろう。
 つぎに郷土の村々に残っている埋葬地をみてみよう。ま
ず牛込の南入地墓地には、つぎの記載がみられる供養碑が
ある。正面には、
元禄十六歳舎癸未
南無妙法蓮華経東海激浪溺死五+七人已来七人精霊
十一月廿有三日
とあり、これは寛政十一年(一七九九)施主牛込村男女、
世話人同村信者中により行われた百年忌の供養碑である。
 古所の通称「つなしろ様」とよばれる津波供養碑によれ
ば元禄十六未十一月二三日津波諸精霊老若男女二百七十余
とあり、二百七十余人の供養碑であり、十三回忌にあたる
正徳五年(一七一五)十一月二三日の供養碑であることが
わかる。幸治にある無縁塚は俗に津波精霊様とよばれ、古
老の言によれば水死者三百六十余人を葬ったものという。
この場所には高さ凡そ六〇糎の石塔が立っている。古老の
はなしによれば、幸治の津波の避難者は多く高谷原、高根
本郷村に向って逃げたが、蝮(カ)沼方面の水量が高まり、逆水
のため板ばさみとなり多数の溺死者を出したという。中里
の無縁塚(鬼人台)は元禄の津波の水死者を葬ったという。
石塔はなく埋葬数も詳らかではない。八斗高の無縁塚(森
川源白氏宅後方の墓地)は約三坪の広さで石塔はないが、
元禄津波の水死者を葬ると伝えられる。埋葬者数は不明で
ある。また五井高の上人塚と、牛込の下村竜宮台も元禄津
波の溺死者の埋葬地であるという。牛込の下村竜宮台は溺
死者十数名を葬ったと伝えられている。
 このようにみてみると、村々の元禄津波による溺死人数
等については、厳密な意味においてはたとえば過去帳と照
合しながら検討する作業が残されてはいるが、とにかくわ
れわれの想像以上の大災害であったことが明白である。ち
なみに前述した茂原市鷲山寺の門前に存する供養碑に記さ
れている郷土の村々の水死数を合すると、一〇五九人とい
うおどろくべき人数である。この数字が郷土の村々の居住
民の死亡人口のみではなくとも(他村の避難民等も含まれ
ていると想定しても)その被害がいかに大きかったかが明
らかであり、いまさらながら津波のおそろしさをまざまざ
と示すものである。今後の災害対策の上からも、往時の地
理的景観と海水の侵入状況、その被害状況を適確につかん
でおき、どういう条件下に水死者が多く出たか等を今後つ
きとめる必要がある。
 以上は人的被害についてである、この外に家屋、耕地等
の被害も甚大であったろう。一面泥沼となり田畑の区別も
つかなくなり、もちろん作物の被害があることを忘れては
ならない。津波によってうけた多くの人的、物的資源の被
害はおそらくわれわれの想像をはるかに越えるものがあろ
う。いますぐさまその被害の状態をつぶさに明らかにし得
ないことをかなしむ。今後大いにわれわれ町民一人一人が
一体となって少しでもその実態を明らかにする努力をつづ
けよう。もっとも、さいわいなことに、池上誠氏(小母
佐)の先代が記した「一代記 付リ津波ノ事」(池上誠家
文書)がある。これは、まさしく元禄の津波に遭遇し、あ
やうく一命をとりとめた同家の先代が、その時の生々しい
経験をもとにして貴重な見聞、体験をのべている。つぎに
その記載をみよう(省略、本書、二〇三頁参照)。
 これによれば、元禄の大津波は海際より岡へ一里ばかり
潮がおしよせ、潮の流れは一里半にも及んだとしている。
そうして上総九十九里浜において数千軒の家がおし流さ
れ、数万人の僧俗男女から、牛馬鶏犬まで溺死したとあ
る。この筆者は五井村の十三人塚の杉の木にとりついだ
が、冷えてすでに仮死状態になったところを、なさけある
人々が藁火で暖めてくれて一命を免れたといっている。特
に市場の橋や五井の印塔で死んだ者が多く、明石原の上人
塚の上では多くの人が助かったとのべている。この記載
は、大津波目撃者であり、体験者(被害者)がしるしたも
のであるところに大きな特徴があるが、郷土における被害
状況を参考にするとともに、かつ地震があった節にこのこ
ろの人々が、津波がある場合は井戸の水が干るという経験
的な勘を心得ていたことがわかる。特に津波の際の教訓と
して「後来ノ人大成ル地震押カヘシテユル時、必大津波ト
心得テ、捨家財ヲ早ク岡江逃去ベシ、近辺ナリトモ高キ
所ハ助ル(中略)家ノ上ニ登ル者多家潰レテモ助ル、如此
ヨク々可得心」とのべており、津波の際の心得事項が大
いに参考となるであろう。
 ここで参考上、「上総町村誌」(明治二二年七月刊行、小
沢治郎右衛門著)の記載を掲げよう。「元禄十六年癸未十
一月二十二日本州ノ地大ニ震ス、夜東海嘯キ洪濤陸ニ浸入
シ、夷隅、長柄、山辺、武射四郡沿海ノ村落其害ヲ被リ家
畜ヲ斃シ、家屋ヲ奪去セラレ溺死スル者幾千人為ルヲ算フ
可カラス、其死屍ヲ集収シ各所ニ埋葬ス、最著シキモノ六
墳タリ、夷隅郡久保村ノ東方沙漠中ニ千人塚アリ、当時溺
死者ヲ葬ル其数詳ニ伝ハラスト雖モ、千人塚ノ名称ニ因レ
ル者ナラン今墳上碑アリ、長柄郡一ツ松村本興寺境内供養
塚在リ、死屍三百八十四ヲ合葬ス、本寺位碑ノ背後ニ維元
禄十有六年癸未十(一脱カ)月二十二日之夜、於当国一松、大地震尋
揚大波、鳴呼天乎是時民屋流、牛馬斃、死亡人不知幾万
矣、今也記当寺有録死者千名簿、勒回向於後世者也ト記
ス、幸治村ニ無縁塚在リ、死者三百六十余ヲ合葬スト、今
墳上松樹蒼々タリ、牛込村ノ南方字古屋敷墓所中ニ津波精
霊ト称スル一墳在リ、死者百三ヲ合葬スト、享保十一年丙
午年十一月経文ヲ貝殻ニ書シ、追福ノ為メ之ヲ埋メ塔ヲ建
立シ、亡霊ヲ弔フ。山辺郡四天木村の中央要行寺境内ニ津
波溺死霊魂碑ト書セシ木塔在リ、死者二百四十五ヲ合葬ス
ト、武射郡松ケ谷村字地蔵堂ニ千人塚在リ、死者ノ数詳ナ
ラズ、蓋名称ニ因レル者ナラン、今墳上石地蔵ヲ置ク、其
他自己ノ埋葬スル者挙ケテ算フベカラスト謂フ」
 ところで、郷土の村々の一部は海水が進入して耕地が泥
沼のようになり、悲惨な状景がくりひろげられたと想像さ
れるが、このことを直接ものがたる史料は現在見当らな
い。しかし次の二つの史料は断片的ではあるが、このよう
な事情の一端を示しているといえる。

一 其の村溜井堤ならびに落堀、去る元禄十六未年津浪に
て押砂埋り候につき、普請人足帳面を以て願い候間、扶持
方米七俵三斗九升相渡し候、以上、
正徳四午年
筑紫左衛門内
大野一郎右衛門印
浅井与惣右衛門印
上総国驚村
名主
惣百姓中

一 驚村溜井の儀、元禄十六未の年津波故、押砂にて埋
り、もちろん落堀等も押埋り候につき、普請人足前々の通
り知行内の人足願いこれあり承知せしめ候、しかれども村
々に普請数多これある間、その村の人足にて段々普請致さ
るべく候、扶持方米の儀は当御年貢にて差引き申すべく
候、もつとも普請仕舞い候はば、仕様帳面差上げ申さるべ
く候、そのためかくの如くに御座候、以上、
正徳四年午正月廿三日
大野市郎右衛門印
驚村
名主惣百性中
 右の二つの文書(内容は一つのことについてである)に
よれば、驚村の溜井と落堀が元禄十六年(一七〇三)の津
波によって、押砂の被害をうけたことにかんがみ村方から
普請人足の願いが出されたことが明らかである。その結果
地頭筑紫氏の用人から正徳四年(一七一四)、村方に発し
た文書である。これによれば、村方の要望に対して、普請
人足の扶持米を与えていることがわかる。とにかく右によ
って驚村の溜井が津波による押砂によって埋り、溜井の機
能に支障を来したことは明らかであり、溜井の位置の再確
認とともに、津波の被害状況をしらべる上での一つの手が
かりとなるだろう。
 津波の被害を問題とするとき、九十九里浦の漁業経営は
もとより致命的な打撃をうけたことが想定できるのである
が、もともと九十九里浦の地曳網漁業は、関西漁民の技術
伝播により成立したばかりでなく、その初期の操業には多
分に関西の出稼漁民が関係していた模様である。大体関西
漁民は近世前期にはこの九十九里浜を含めた関東沿海一帯
に出漁し、鰯漁業に当っていた。しかしこのような関西漁
民の関東出漁も、元禄年間には打続く不漁と津波により決
定的な打撃をうけたため衰退期に入ったのである。すなわ
ち元禄十六年の大津波をさかいに従来の活動は跡を断ち、
これに代って地元漁民による地曳網漁業が一般化したとみ
られるという(荒居英次「近世日本漁村史の研究」二六八
頁)。このような立論の信憑性を確める上からも今後可能
な範囲において、元禄段階における漁業経営の内容と、津
波による被害度合の追求が重要であろう。(下略)
出典 新収日本地震史料 第2巻 別巻
ページ 227
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
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