[未校訂] さて、江戸時代を通じて、何等かの被害を及ぼしたと思
われる地震を挙げると、次の表107(略)は「江戸時代の千
葉県下の既往地震とその概要」のように一七件が確認され
ている。中でも、被害の規模からいっても最も有名なもの
が、元禄の地震であろう。前表では発生月日を大陽暦に直
してあるが、一七〇三年(元禄一六)一一月二二日夜であ
った。
次に、年代不詳であるが、『飯高家文書』が、その状況
をリアルに伝えていると思われるので紹介したい。
一元禄十六未年十一月二十二日夜子ノ刻(0~二時)ヨ
リ、俄ニ大震ニテユリカエシ〳〵表ニテ大タイコ打候
如クニナリヒビク、同丑ノ刻(二時~四時)ニ大山ノ
如ナル津波二、三ノ浪続イテ入来ル、別テ二ノ浪ツヨ
クシテ、家□木共ニ押流サレ、大木ハ土手共ニ二、三
丁程モ流、逃人々之ウチニテモ浪ニ追イツカレ、水ニ
溺レ死スモノ脇村ハ格別、当所ニテ百人余也、牛馬鶏
犬マテ(で)水ニ溺レ死ス、又、水ヲワケ出テモ、寒気ニ(ママ)綴
レテ死スモノ多シ、暁天ニ[潮汐引退|ちようせきひきしりぞく]、哀ナルカナ、
[骸|むくろ]ハ道路ニ累々トス、住人コヽヲ去リカネタリ、□来
如斯ナル事、[能々|よくよく]心得テ、家財ヲ捨[迯|にげ]去ルベシ、右年
□二十七年以前ニモ[大成|おおいなる]地震(前表7の延宝五年の房
総沖と思われるもの)有リテ[淩|さらい]、津浪入□□前モ廿七
年以前ニ入ル、五十壱年以前ニモ入タルヨシ[伝聞|つたえきく](前
表6の明暦元年の房総沖地震の誤伝か)(後略)」
この記録によれば、旧暦一一月二二日深夜(大陽暦では
一二月三一日(大晦日)に当たるわけだが)0時すぎ、大
地震に見まわれたようである。この厳冬の夜更けのこと故
ほとんどの者が就寝中であったと想像される。まさに「寝
耳に水」であったわけである。その震動を大太鼓の音にた
とえているが、地鳴りの音のすごさがうかがわれる。
その後の津浪の襲来に、第一、二、三波あって、第二波
が最も激しかったと記している。大木・家屋・人・家畜な
どをすべて押し流す津波の恐しさが手にとるようである
「死者、当所ニテ百余也」とあるのは、粟生村の死者と見
られる。
ここで再び、古川力説を借りれば、元禄地震の際に起こ
った津波の先端は、汀線より一、三五〇メートル(直距離
にして)入った海抜三メートルの線の準県道の線まで達し
たと見ている。したがって、海岸からこの線までの区域、
現在の九十九里町の半ば以上の地域が、この時津波に洗わ
れたことになる。すなわち、旧豊海町では「新田」「不動
堂下」「粟生下」、旧片貝町の「下タ谷・トモ谷・南・北新
田」や豊漁期に急増した宿新田下・西之下・北之下等にあ
った納屋は一呑にされてしまった。
さて、この津波の引いた跡には、汀線最後の微高地であ
る、二・五メートルの等高線上の各所に、死体の山が築か
れたと思われる。その場所に「津浪仏」(溺死者の供養塔)
が建てられたということがわかる。と結んでいる。