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項目 内容
ID J0700136
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1703/12/31
和暦 元禄十六年十一月二十三日
綱文 元禄十六年十一月二十三日(一七〇三・一二・三一)〔関東〕
書名 〔九十九里町誌各論編 上〕
本文
[未校訂] さて、江戸時代を通じて、何等かの被害を及ぼしたと思
われる地震を挙げると、次の表107(略)は「江戸時代の千
葉県下の既往地震とその概要」のように一七件が確認され
ている。中でも、被害の規模からいっても最も有名なもの
が、元禄の地震であろう。前表では発生月日を大陽暦に直
してあるが、一七〇三年(元禄一六)一一月二二日夜であ
った。
 次に、年代不詳であるが、『飯高家文書』が、その状況
をリアルに伝えていると思われるので紹介したい。
一元禄十六未年十一月二十二日夜子ノ刻(0~二時)ヨ
リ、俄ニ大震ニテユリカエシ〳〵表ニテ大タイコ打候
如クニナリヒビク、同丑ノ刻(二時~四時)ニ大山ノ
如ナル津波二、三ノ浪続イテ入来ル、別テ二ノ浪ツヨ
クシテ、家□木共ニ押流サレ、大木ハ土手共ニ二、三
丁程モ流、逃人々之ウチニテモ浪ニ追イツカレ、水ニ
溺レ死スモノ脇村ハ格別、当所ニテ百人余也、牛馬鶏
犬マテ(で)水ニ溺レ死ス、又、水ヲワケ出テモ、寒気ニ(ママ)綴
レテ死スモノ多シ、暁天ニ[潮汐引退|ちようせきひきしりぞく]、哀ナルカナ、
[骸|むくろ]ハ道路ニ累々トス、住人コヽヲ去リカネタリ、□来
如斯ナル事、[能々|よくよく]心得テ、家財ヲ捨[迯|にげ]去ルベシ、右年
□二十七年以前ニモ[大成|おおいなる]地震(前表7の延宝五年の房
総沖と思われるもの)有リテ[淩|さらい]、津浪入□□前モ廿七
年以前ニ入ル、五十壱年以前ニモ入タルヨシ[伝聞|つたえきく](前
表6の明暦元年の房総沖地震の誤伝か)(後略)」
 この記録によれば、旧暦一一月二二日深夜(大陽暦では
一二月三一日(大晦日)に当たるわけだが)0時すぎ、大
地震に見まわれたようである。この厳冬の夜更けのこと故
ほとんどの者が就寝中であったと想像される。まさに「寝
耳に水」であったわけである。その震動を大太鼓の音にた
とえているが、地鳴りの音のすごさがうかがわれる。
 その後の津浪の襲来に、第一、二、三波あって、第二波
が最も激しかったと記している。大木・家屋・人・家畜な
どをすべて押し流す津波の恐しさが手にとるようである
「死者、当所ニテ百余也」とあるのは、粟生村の死者と見
られる。
 ここで再び、古川力説を借りれば、元禄地震の際に起こ
った津波の先端は、汀線より一、三五〇メートル(直距離
にして)入った海抜三メートルの線の準県道の線まで達し
たと見ている。したがって、海岸からこの線までの区域、
現在の九十九里町の半ば以上の地域が、この時津波に洗わ
れたことになる。すなわち、旧豊海町では「新田」「不動
堂下」「粟生下」、旧片貝町の「下タ谷・トモ谷・南・北新
田」や豊漁期に急増した宿新田下・西之下・北之下等にあ
った納屋は一呑にされてしまった。
 さて、この津波の引いた跡には、汀線最後の微高地であ
る、二・五メートルの等高線上の各所に、死体の山が築か
れたと思われる。その場所に「津浪仏」(溺死者の供養塔)
が建てられたということがわかる。と結んでいる。
出典 新収日本地震史料 第2巻 別巻
ページ 223
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 千葉
市区町村 九十九里【参考】歴史的行政区域データセットβ版でみる

版面画像(東京大学地震研究所図書室所蔵)

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