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項目 内容
ID J0700137
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1703/12/31
和暦 元禄十六年十一月二十三日
綱文 元禄十六年十一月二十三日(一七〇三・一二・三一)〔関東〕
書名 〔九十九里〕
本文
[未校訂] (前略)さらには、二六年後の元禄一六年(一七〇三年)
一一月二二日の大津波は、浜から七、八キロもあるいまの
茂原市付近にまで押寄せたという。同市本納の蓮福寺過去
帳には、
 「東浦(九十九里浜のこと)で人馬二〇万余が死す」
と書かれているほど。しかし、浜全体で二〇万もの人やウ
マがいたかどうか。この数字は、いささかオーバーくさい
ような気もする。
 それにしても「元禄津波」の犠牲者を葬った千人塚や供
養塔が、九十九里一帯に数知れず点在しているのも事実。
そのひとつ、長生郡長生村一松の本興寺にある供養塚に
は、
 「三八四人を合葬」
 とあるほか、数ある塚の全てが“数百人”単位で葬って
あるので、いかに多くの人が津波にやられたか―。
 昔から、
 「地震が起きてすぐ逃げれば、イザリ(両足の不自由な
人)でも助かる」
 といわれている。早く高台などに避難すれば、助かる余
裕は十分あるというのだ。“万覚書”にも、
 「延宝の津波でこりた釣村の人たちが“避難体制”を整
えていて後の元禄津波のときは、いち早く避難したので、
他の土地から出かせぎにきて、納屋などに残っていた一
四、五人が死んだだけ」
 と被害を最少限度に食い止めたことが記録されている。
 津波に襲われると、人畜の被害もさることながら、営々
と築き上げた屋敷や船、田畑が一瞬のうちに破壊され、土
砂に埋まる。生残った者も当然、生活に困った。
 年貢米などの取立てにきびしい幕府も、あまりの被害の
大きさに驚き、かなりの年貢米、塩年貢を免除している。
出典 新収日本地震史料 第2巻 別巻
ページ 224
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
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版面画像(東京大学地震研究所図書室所蔵)

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