[未校訂] (前略)さらには、二六年後の元禄一六年(一七〇三年)
一一月二二日の大津波は、浜から七、八キロもあるいまの
茂原市付近にまで押寄せたという。同市本納の蓮福寺過去
帳には、
「東浦(九十九里浜のこと)で人馬二〇万余が死す」
と書かれているほど。しかし、浜全体で二〇万もの人やウ
マがいたかどうか。この数字は、いささかオーバーくさい
ような気もする。
それにしても「元禄津波」の犠牲者を葬った千人塚や供
養塔が、九十九里一帯に数知れず点在しているのも事実。
そのひとつ、長生郡長生村一松の本興寺にある供養塚に
は、
「三八四人を合葬」
とあるほか、数ある塚の全てが“数百人”単位で葬って
あるので、いかに多くの人が津波にやられたか―。
昔から、
「地震が起きてすぐ逃げれば、イザリ(両足の不自由な
人)でも助かる」
といわれている。早く高台などに避難すれば、助かる余
裕は十分あるというのだ。“万覚書”にも、
「延宝の津波でこりた釣村の人たちが“避難体制”を整
えていて後の元禄津波のときは、いち早く避難したので、
他の土地から出かせぎにきて、納屋などに残っていた一
四、五人が死んだだけ」
と被害を最少限度に食い止めたことが記録されている。
津波に襲われると、人畜の被害もさることながら、営々
と築き上げた屋敷や船、田畑が一瞬のうちに破壊され、土
砂に埋まる。生残った者も当然、生活に困った。
年貢米などの取立てにきびしい幕府も、あまりの被害の
大きさに驚き、かなりの年貢米、塩年貢を免除している。