[未校訂]○富津市
(2)1 売津村年貢割付状
(1)(前欠)此取米壱斗六升八合 壱反三斗五升取
田方反別壱町七反六畝廿三歩 米 小以 四石六斗八升
上畑五反弐畝廿歩 有反 此取米七百三拾七文 壱反百四
拾文取
中畑八反五畝廿七歩 内 壱畝拾歩 未地震(一七〇三)川欠申(一七〇四)より永
引残八反四畝拾七歩 有反 此取永壱貫拾五文 壱反百
弐拾文取
下畑弐町九畝壱歩 内 壱反三畝廿八歩 未地震川欠申よ
り永引
残壱町九反五畝三歩 有反 此取永壱貫九百五拾壱文
壱反百文取
下々畑三反壱畝廿六歩 有反 此取永弐百五拾五文 壱反
八拾文取
切畑壱反壱畝拾七歩 有反 此取永五拾八文 壱反五拾文
取
屋敷弐反歩 有反
(後葉欠)
(10)○鋸南町
2 房州平郡市井原村酉御成ケ可納割付之事
(3)(前略)
下田六町弐反四畝拾壱歩 内 弐反三畝拾九歩 前々川欠
永引 弐畝廿三歩 巳より川欠永引 弐畝拾八歩 地震
川欠山崩酉より永引 壱町九反五畝廿三歩 当砂押付荒
引
残三町九反九畝拾八歩 有反 此取米拾三石五斗八升六
合 壱反三斗四升取
(中略)
右之通大小百姓不残立合無高下様割合 来ル極月十日前
可致皆済候若令遅滞者急度可申付者也
宝永二年(一七〇五)酉十一月
樋又兵衛印
右之村
名主百姓
3 房州平郡元名村申(一七〇四)御成ケ可納割付之事
(4)一、高三百六拾弐石壱斗六升九合 田畑屋敷共 四斗弐升
前々小物成高入 内五拾壱石九升六合 前々無地高入
此反別三拾九町六反九畝八歩
此わけ 上田四町九畝拾弐歩 内 壱畝拾五歩 前
々永引 八反壱畝拾八歩 付荒風損津浪荒当引
残三町弐反六畝九歩 有反 此取米拾四石六斗八升四
合
(中略)
下田拾町歩 内 三反三畝廿六歩 前々川欠永引 四畝廿
七歩 巳川欠永引 三町三反八畝拾弐歩 付荒風損津浪
荒当引
残六町弐反弐畝廿五歩 有反 内 六町壱反六畝六歩
此取米弐拾石三升五合 壱反三斗三升取 六畝拾九歩
地震山崩申(一七〇四)より畑成ル 此取米六升六合 壱反壱斗取
(中略)
山畑九町九反九畝廿四歩 内 弐町壱反八畝拾歩 前々山
崩永引 三畝九歩 酉(一六九三?)より山崩引 九畝拾歩 地震山崩
申(一七〇四)より永引 六反三畝廿壱歩 地震当不作引
残七町五畝四歩 此取永四貫五百八拾三文 壱反六拾五
文取
(中略)
右之通大小百姓不残立合無高下様 割合来ル極月十日前可
致皆済候若令遅滞は急度可申付者也
宝永(一七〇四)元年申十一月
樋又兵衛印
右之村
名主百姓
(5)4 覚書を以申上候事
酒井内膳様御知行所相浜村(現館山市相浜)ニ而都合八ヶ村
前海支配仕来段本郷村(現鋸南町保田)書付ニ而申上候村々
一、高弐百八拾壱石三斗四升六合 酒井雅楽守知行所
犬石村
(現館山市犬石)
名主理兵衛
当村古来漁猟仕候大神宮村(現館山市大神宮)境川湊有之両村舟通行仕候
舟寄場論合御戴許御証文頂戴仕罷有候四拾五年(一七〇三年)以前津
浪ニ而干潟ニ相成川湊無之浪高舟通行難成漁猟相止申候
尤破船寄物等其外浦役相勤申候以来漁猟湊出来次第仕事
付由ニ御座候
一、高四百五拾三石九斗弐升六合 酒井雅楽守御知行所
川野藤右衛門御知行所
大神宮村(現館山市大神宮) 名主 浅右衛門
幸右衛門
当村古来漁猟仕候 犬石村(現館山市犬石)堺川湊ニ而舟通行仕候 古来
漁猟仕候節舟寄場論御戴許頂戴仕候 当村浪高海辺遠川
湊干潟ニ而無之漁猟不仕候 村方ニ而破船寄物等惣而浦
支配当村ニ而相勤申候
一、高百弐拾八石八斗六升八合 酒井内膳御知行所
藤原村(現館山市藤原) 名主 清兵衛
当村古来漁猟仕候処ニ 津浪以後凡弐拾丁余干潟ニ相成
当時舟寄場無之漁猟相止申候 此上漁猟望次第相成候
尤破船寄物浦役等当村ニ而相勤申候
一、高百七拾四石九斗四升四合 小笠原岩見守御知行所
尾村清右衛門御知行所
佐野村(現館山市佐野) 名主 庄右衛門
当村居村より海辺迄壱里余遠く浪高湊無之舟通行難成
漁猟不仕候 尤浦役其外破船寄物等当村ニ而相勤申候
〆四ケ村此外四ケ村之儀も様子可有御座候得共承り不
申候
白子村(現千倉町白子)ニ而四ヶ村前海支配仕候段本郷村(現鋸南町保田)申上候
(後略)
(6)
5 乍恐口上書を以御願申上候
一、安房国本名村(現鋸南町元名)田地浪欠海中ニ相成候場所沖之方え何程
有之哉と御尋被為慥候得共 数年来欠入候儀殊海上ニ御
座候得は町歩難相積り奉存候 只今本名村より三里南方
那古村(現館山市那古)
より七浦辺干潟(千倉町沿岸)出来仕 凡五六町海水引新田并家
居と相成 古来之湊岡と成新湊出来候場所も有之候処ニ
本名村并近村共ニ変地 土地下リ年々水増古絵図之地
所相違仕 塩風除之柴地并土手松林等浪ニ而(ママ)打崩シ 当
時田地大分欠入候場所乍恐御見分不被下候而は明白ニは
難相分チ候間 何卒御慈悲ニ御検分之上委細申上度奉願
上候 以上
延享四年
(一七四七)安房国平郡本名村
夘五月 神谷記内知行所
名主 勘兵衛
与願(くみがしら) 九兵衛
同断 藤右衛門
御奉行所様 百姓代 松兵衛
(7B)7寛延二巳八月改取立名寄帳
(前略)
佐久間山下
(現鋸南町中佐久間山ノ下)長右衛門
一 上田六畝拾四歩分米八斗四升六夕
せどぐち
(現鋸南町中佐久間瀬戸口)一 上田五畝拾八歩 未ノ地震(一七〇三)ニ不残川欠 分米七斗弐升
八合
(中略)
苗代町
一 中田弐畝七歩 未ノ津浪ニ不残海欠
分米弐斗四升五合七夕
(中略)
苗代町
一 中田壱畝拾三歩 寛政三亥年海欠 分米壱斗五升七合
七夕
同所
一 中田壱畝三歩 元禄未津浪ニ海欠 分米壱斗弐升壱合
仏崎
(写真1・2参照、石塔のある岬の部分)(現鋸南町吉浜)一 下田四畝廿四歩 元禄未津浪ニ不残海欠 分米四斗三
升弐合
上田合弐反五畝廿二歩 分米 三石三斗四升五合二夕
中田合六畝拾六歩 分米 七斗壱升七夕
下田合四畝廿四歩 分米 四斗三升弐合
反歩合三反七畝弐歩 分米 合四石四斗九升五合九夕
同村松木田
一 上田三畝拾壱歩 内弐畝廿一歩元禄未より寛延迄川欠
ニ引亦五歩明和(一七七〇)七寅春川欠見分之節引分米四斗三升七
合六夕
苗代町
一 中田弐畝歩 元禄未津浪ニ不残海欠 分米弐斗五升六
合六夕
(中略)
苗代町
一 中田弐畝拾四歩 元禄(一七〇三―一七四九)未ノ津浪より寛延巳迄不残海欠
分米弐斗七升壱合三夕
(中略)
苗代町
一 中田弐畝七歩 分米弐斗四升五合六夕 元禄未津浪よ
り寛延迄ニ浪欠ニ引
(中略)
苗代町
一 中田弐畝拾四歩 分米弐斗七升壱合四夕
元禄未津浪より寛延弐年迄ニ不残海欠
大門松下
一 上田四畝八歩 分米五斗五升四合七夕
同所
一 中田壱畝拾弐歩 分米壱斗五升四合 未ノ津浪ニ不残
海欠
(中略)
惣寄
上田合弐町壱反六畝拾弐歩
分米合弐拾八石壱斗三升壱合 内弐反弐畝拾四歩 海
欠川欠 此分米弐石九斗弐升六夕
中田合壱町三反三歩
分米合拾四石三斗二升八合三夕 内壱反八畝廿六歩
海川欠 此分米弐石七升五合三夕
下田合壱町三反弐畝拾弐歩
分米合拾壱石九斗壱升六合 内弐反壱畝七歩 海川欠
此分米壱石九斗壱升壱合
惣反歩合四町七反八升廿七歩
分米合五拾四石三斗七升五合三夕 内六反三畝拾七歩
海川荒引 此分米六石九斗六合九夕
残而
反歩 四町壱反五畝拾歩 有反
分米 四拾七石四斗六升八合四夕
右名寄寛永(一六二四―)年中之以帳面
寛延(一七四九)二年巳八月写改者也
妙写真1本寺海岸絵図(元禄地震前)…年代不詳
写真2 妙本寺海岸絵図(元禄地震後)…1776年以後
(8)8 別願院津波慰霊碑碑文及び墓碑
〔慰霊碑〕
元禄海嘯菩提地蔵尊二百二十一□大祭碑
大正十二年四月一日
〓魂重修
施主 別願在住 法住院善誉□光道□大居士
□□□□□□□□□
元禄十六年霜月二十三日 海嘯罹災 三百十一人□□
〔墓碑〕
吉山道休居士 元禄十六年未十一月二十三日
龐興希蘊居士 享保四亥五月四日
9 乍恐御尋ニ付書付奉差上候
(9)一 私先祖又右衛門義、出生大坂ニて、下総国ニ住居仕
節、御領主堀田加賀守様え御用相達勤労有之候ニ付、独
札被 仰付、其後寛永年中御領主堀田加賀守様房州え領
替御遷之節、浄土宗僧円知并祖又右衛門、右両人之者
被 召連、同国勝山村ニ住居被 仰付、右円知儀ハ一
寺建立被 仰付則只今之最誓寺ニ御座候、祖又右衛門
儀、先規之通御用相勤罷在候、其節御領内酒屋数多ニ
て、農業等之障リニ相成リ候由被 聞召候て、祖又右衛
門ニ酒商売并請元被為 仰付、御書付等被下置候、右御
領主上野介様迄御二代ニて、御領替被遊、其後御料所
御代官八木治郎右衛門様、其後御領主酒井修理太夫様右
御領主代々御代リ被為遊候節、御糺之上、先規之通酒商
売元請被為 仰付、猶又御書付等被下置候処、元禄十六
癸未年十一月廿二日夜房州満水之節ニ流失仕候、其後御
当家様ニ至リ候ても、御糺被遊候上、前々之通リ酒商売
元請被為 仰付、御書付等被下置、難有仕合奉存候、右
此度御尋ニ付、以御書付奉申上候、以上、
御領内酒商売元請
勝山村 又右衛門
文化三寅十月
御役所様
右之由緒書仕候て可差上段被仰付候間、出府在中ニ差
上候、尤右由緒書之外ニ先年正徳三年(巳)己三月差上候処之
書付御引合之為御尋ニ付、先年差上候通リ相写、又候此
度差上申候、則左ニ記ス、且又正徳年中 御当家様より
御糺之上先規之通 御領内酒商売元請之御免許書御引合
之ため、御尋ニ付相写奉差上候、是又左ニ記ス、
(12)○富山町
(11)10 元禄十六年高崎浦津波記録
比しも元禄拾六年癸未新玉の春も目出度立て、夏ハ早(旱)魃
に、秋ハ最中に風もなく、冬気に成て霜月ノ下旬廿二日ハ
天赫日空も晴、吉クなぎて海上も波浪静に日も暮て夜の九
ツ時分俄に地震ゆるぎ立、皆家ごとに寝しづまり、起揚ら
んとすれ共起てハころび〳〵漸ク立上リ、部屋の戸を明ケ
[後|ウシロ]え出也、内方も三人の子共を引つれ、後の壁弐間後え打
返リ、其より後え出也、親子皆無事にて門口へ廻ル、台所
にハ下人数多寝居也、家伏セ共はりのあいに成ておされ
ず、後の小路へ出ル中にも危事も有、部屋の天井南の方廻
リふちはなれ片はな落ルに、入口の仕切の内戸壱本内えは
ずれ、天井のつかに成ル、音たて下え落付バ、皆をしに可
シ成、家を戌の年作リ、拾八年目也、板天井にすゝ厚サ三
四寸もたまりて[重|オモク]落に戸壱本はづれてつかに成ルハ不思議
の仕合也、惣別寝間の上にハこもにてもはるべし、板天井
いらぬ物也、弐ツの倉も伏ス、馬屋も伏ス、され共牛馬は
やく飛出して長屋の前に居なり、とおりも伏ス、[厠|カハヤ]も伏
ス、され共居家ハ不伏、石すへならハ柱を太クすべし、柱
細キハ此節皆つぶれる也、貫目いたミわれ伏なり、さすハ
太ク、はリハ細ク、しきけたかけ四方繩しめに心を付、釘ハ
便リにすべからす、横広ク足元つよく大ねだ木十文字に可
入、古昔皆此通なり、此台にて[助|タスカ]不伏家ハ杢兵衛居屋又
兵衛居や、弥惣右衛門居屋、門四郎家、市十良家也、牛頭天
王様社中え波打越せ共、御宮不流何事もなし、薬師堂も香
坊も何事もなし、其外ハ皆伏ス、寝閑りにて家伏ス故、人
損ず、古より人申ハ、大地震有には必ス津波寄と申事思ひ
出し、皆はやく家を出よとよばハリ、長屋の前へ出レハ磯
際の方清水の田へさあさらと波押て追付故みミやう堂え逃
ゲル、浜台の老若男女皆円正寺山の西のひらへあがりて小
松に取付居也、寝閑リの事なれハ、あハて、着物も帯もわ
すれ、真はだかにて出ル男女も有、杢兵衛ハ家へ戻リ見れ
バ、庭の内へ波打込、腰たけになり、前の井けた少出ル、
なにもかも海になり、おそろ敷ゆへ家へ早ク入、御祓を取
持行也、又寺山へ登ル、地震常のゆりやうとハちがひこま
かにびくびく〳〵とゆる也、心悪敷故、とかく食物を専一
と思ひ、宿へ人を遣リ、米を四五升取寄人にもとらせたれ
ハ、夜明ル迄皆打かゝリ〳〵居ルなリ、夜明ケても無間も
びく〳〵ゆるゝ故、波おそろ敷テ無心許、山よりすぐに光
泉寺をのぼりに子共をおい抱キ、昼時分に寿薬寺へ行也、
岡浜の男女寺の上の畑へ小屋をかけ居ル、廿三日夜通小屋
にて火をたき明し、廿四日ハ又岡へ戻リ、名主弥兵衛殿庭
に小屋をかけ居ルに、皆人申にハ、又津波参べしと申によ
り、宿へ不帰、医者金木玄貞老内室も大勢居ル也、然に皆
申に北口より盗賊参由申触し人々苦労にいたし用心する
に、安(案)に相違して偽なり、爰にても間もなく地震ゆるぎ心
悪敷、十二月一日迄岡の庭に居る、其日七ツ比に成、浜の
宿へ帰リ見れバ扨あハれ成事にハ、親ハ子を失ひ、子ハお
やにおくれ、夫ハ妻に離れ、幼稚者共もあまた波にとら
れ、親兄弟なげきかなしむ有様実に生者必滅会者定離、中々
目も不被当、心言もきへはてゝ、人ハはかなき事共なリ、
或人の云、寿命ハ如し蜉蝣ノ朝に生れて夕に死ス、身躰ハ
如し芭蕉ノ、随テ風ニ易シ壊レと書れしハ、おもひ当リて
理リなリ、死たる人ハ、
一 浜金左衛門妹長命 一 同所八兵衛
一 同所庄作が妹いぬ 一 坂本五兵衛内方
一 川向ノ勘兵衛 一 塚原伝兵衛下女
浜吉兵衛所ニて
一 下リ松利古右衛門下女
親子 是迄八人ハ家におされ死ス
一 浜三十郎子息 一 浜お吉子息
一 同所久五郎子息 一 同人の娘
一 同長左衛門女房 一 浜勘左衛門ばあ
一 同六三郎女房 一 同人子息いせ
一 同人 娘ひめ 一 浜惣左衛門女房
一 同人 娘ミの 一 同人 田町の孫
一 川向の半四良女房 一 同人の子息
一 同所市良左衛門女房 一 同人の娘
一 同人孫 一 同人の子息
一 同所勘兵衛女房 一 石小浦湯入弐人
浜半左衛門所にて
一 上須加喜平次下女松 一 川間甚五兵衛女房
船形村にて
一 同所庄次郎子息 一 同人 守子
東浦にて
一 同人娘まさ
是迄弐拾七人波に心取死スル也、
〆三拾五人此通御地頭え申上ル、
其外けがする者多し、夜中時分の事なれハ、あわてさハき
思ひよらさる事ゆへ、方角ちがひ、とかく謂間もなく家伏
し、家人共に沖へ引被出、或ハ出ても川へ落死も有リ、老
少不定と云ふなから、十日十五日の内ハ浜磯へ死人数多海
からより昼夜犬共かふべ手足をくひちぎり、門戸口迄もく
わへあるき、おそろ敷て浜へも不被出、中々見るも思ひ也、
はた辺の分ハ引波に四壁竹木崩損し、野はらのことくに成
リたり、哀無常の次第也、波三ツ打、弐ツ目と三ツ目沖よ
り山のことくに打来リ、谷口小丹が屋倉下迄波打なり、依
之、木倉六三郎子共弐人共に種井戸の上、又兵衛田に波ニ
て押上ケ、死て有リ、木倉十右衛門屋敷の松弐尺四五寸も
廻ルを根こみにし、南の三郎右衛門門口へ波にて押付ル、
杢兵衛外屋敷田ふちハ昔より竹藪なるをとをして松を弐通
植置、壱尺余廻ル松を皆不残しやうがをはかいたやうに、
杢兵衛の門口へ波にて押付ル、廿三日四日外屋敷にて磯う
を大めばりゑびなよし、いろ〳〵の魚共弐三十程ひろひ、
寺家台の小屋へ遣ル、外屋敷畑半分南ハ作物に風あたリ、
実入悪敷し風筋也、竹藪にして置ケバ風よけにもなり、津
波よけにもよし、自今以後ハ昔のやうに必竹くねにして可
シ置、或人云ク、本をわすれて末執ると謂れたり、惣別昔
より有来ルくねをバとおさぬものと申伝る也、清水より押
来ル波にて表の蔵のけたを吉郎兵衛の屋敷に流有リ、木く
ら惣左衛門長太郎杯椀かくを杢兵衛坪の向隣の藪に有リ、
半左衛門の川より入波先山本の杢兵衛田六畝四歩の橋のき
わ迄行、杢兵衛上くぼた道切リ浜の真木を波にて押上ル、
[清水|シミツ]の波ハ又兵衛田迄両方の波のあい杢兵衛の宮田孫兵衛
田三郎右衛門前の田斗也、依之、此台ハ、高崎の内嶋の様
ニ成也、浜に置網ハ大幟を流ス、船共多ク損ス、杢兵衛網
船、八郎兵衛網船、吉郎兵衛網船其外浦請ケないや(納屋)にても
網舟諸道具皆損ス、杢兵衛ハ浜の木倉に大分山を買真木下
シ入置、皆波に流ス、上須加のたなも伏損ス、何角都合弐
百両の損金致ス、同十二月六日に御地頭酒井隼人正様此旨
御心に被達せて、相(騒)動を御見分に御家中千賀弥平次殿御代
官に菅野三右衛門殿御両人御越、高崎の有様御覧被成ルな
り、浜吉兵衛どての御宮流ル、盛者必衰不[遁|ノガレ]、是ハ元禄拾
壱年寅ノ六月廿二日の夜の五ツ過に浜権兵衛どての際へ大
キ成亀上リ居所ヲ堀ル、浜の老人集リて酒を[呑|ノバ]すれハ、[渚|ナキサ]
へ下リ海へ行也、とかく祝ひてよしとて同月廿四日に円正
寺宥専法印申請住吉大明神に被祭、其年中に御宮建立成、
同年七月十七日にひらう中くろ鯛嶋へ鯨弐本、前のがる嶋
の内へ鯨壱本以上三本はね上ル、是ハ村の吉事なりと皆よ
ろこぶ也、式文に[善|ゼン]を[修|ジユ]すれハ[福|フク]を[蒙|カウムル]と云へり、向の姥
神御宮何事もなし、是ハ元禄拾六年未ノ五月十五日杢兵衛
御宮建立仕ル、宥専法印御せんくう也、十二月中夜昼幾度
も不止にゆるぎ、年明ヶても正月中ゆるき、二月中旬にゆ
るぎ止ム也、去霜月末より皆人ごとに昼夜不怠万歳〳〵世
直し〳〵といふ也、
長井杢兵衛(印)
営所上須賀町金木玄貞老此書を見被中添書に一首
長井氏為後記筆作ス、之某見之寿命は如し蜉蝣ノ、身躰
は如し芭蕉ノ、と古人ノ語ヲ書入有リ
讃之日、
身命は八拾年、意は是万代に残し置、子孫繁栄ニ腰折レ
の
一句
あだな身に智恵を包て浮世成リ
たのミ落てもすゑのたね哉
金木氏より
長井氏丈
(14)○富浦町
(13)11 常光寺薬師堂棟札銘文
1 伏(梵字)
天下泰平 国土安全 万民豊楽
当村繁昌 諸人快楽 如意祈所
2 此堂者先住法印頼残寛文十一年(一六七一)建立之云云干時元禄十
六年」未霜月廿二日之夜大地震破壊半滅也依之中尾川大
(一七〇三)般寺両村之」衆中悲其消竭童女興行歌念仏勧近隣之人家
替地形」此再営令成就者也
3 当村名主 生稲甚五右門
(ママ)年寄 羽山市郎右門
(ママ)4 于時宝永元甲(一七〇四)申歳十二月八日 別当常光寺法印宥光
5 不明(寄進者名らしいが損耗のため判読不能)
6 嘉兵衛娘 おたま
金右門娘(ママ) おひめ
庄右門娘 おなつ
念仏言 太右門娘 おいわ
太郎兵衛娘 おせうぶ
作兵衛娘 おちやう
清兵衛娘 おひめ
其外郷中肝煎
念仏師匠
欠損
(27)○館山市
(15)12大福寺(崖の観音)津波被災者供養塔碑文
[正 面]
[元禄十六歳 生国 摂州西宮住南無阿弥陀仏 浄心信士 不退未十一月廿三日 俗名 中村佐平治]
〔台座〕
[施主網山丸]
[左側面]
[元禄十六年(梵字) 道〓(ママ)信士 生国 房州立嶋村 (現鋸南町竜島か)助七(梵字) 秀源信士 生国 上総小久保村 (現富津市小久保か)惣吉(梵字) 了全信士 勘三未十一月廿三日]
[右側面]
[元禄十六年(梵字)正西信士 生国 摂州西宮住 俗名 六郎兵衛(梵字)玄了□士 同国 西宮住 俗名 善重郎(梵字)西溺信士 同 西宮 俗名 万五郎(?)未十一月廿三日]
(16)13覚
覚
一 那古寺脇坊八箇寺
一 恵日坊 住持御座候 地震ニ津ふ連(れ)小屋掛仕罷有候
一 西之坊 右同断
一 源養坊 住持御座候 地震ニ津ふ連(れ)其上焼失小屋掛仕
罷有候
一 入之坊 地震津ふれ焼失仕候 住持義は当二日相果申
候
一 岩宝坊 右同断 住持御座候 那古寺ニ差置為相勤申
候
一 普門坊 先住代たゝミ置申候住持は那古寺ニ差置為
相勤申候
一 承禅院 那古寺隠居所ニ御座候 那古寺之中致地替
候ニ付大門ニ当候故たゝミ申候
一 上之坊 往古ハ御座候由申伝候得共、只今坊跡も 無
御座候
右之通ニ御座候 此度御吟味之上漸々御取立住仕附、
御祈禱可相勤旨被仰付奉畏候以上
宝永元年(一七〇四)申九月 九月房州平郡那古村
那古寺印
四箇寺
御役者中
(17)14 房州安房郡八幡村社人方
覚
一 鶴谷八幡宮御本社并ニ幣殿拝殿 若宮末社共ニ大破損
仕候
一 家不残津ふ連(れ)申候 神主 酒井志摩印
一 家不残津ふ連(れ)申候 命婦印
一 家不残津ふ連(れ)申候称宜 内記印
一 家不残津ふ連(れ)申候社人 民部印
一 家不残津ふ連(れ)申候社人 惣右衛門印
一 家不残津ふ連(れ)申候社人 元右衛門印
一 家不残津ふ連(れ)申候社人 八郎兵衛印
一 家破損社人 茂左衛門印
一 家破損社人 市兵衛印
右之通今月廿三日之夜大地震仕候得共 男女共ニ壱人
もけが無御座候 以上
元禄拾六年(一七〇三)未ノ十一月
(18)15 奉指上候書付之事(Lは原文書の改行を示す)
一 古河新田(現館山市川名)之儀宝永年(一七〇四年―)中開発石山切割河通右石山」横弐
間竪行弐拾二間余深サ三間半堀切上之堀切高サ五尺幅弐
間長サ五間余 北ノ方河行」土手横四間竪行六拾三間余
築立 普請開発仕御見」分之上旱損水損ニ不相構 御年
貢反ニ弐斗三升御定」免御定被下 永々可作之御書付致
頂戴 年々無滞上納」仕候処 此度増年貢御上納可仕旨
被仰渡候得共」右田之儀塵芥等押込悪田故虫難年々有之
又は」大西風吹塩水打揚腐候時切茂有之 三ケ年ニ壱反
も」無難ニ熟シ候義も無御座候右ニ付増御年貢之儀上
納致兼候間 此段御高免奉願上候処 上納相成不申候て
書付差」出し候様被仰付奉畏入候 前文奉申上候通悪田
ニ而年々虫」難ニて三年ニ壱反も無難ニ出来不申増年貢
之儀」差上兼候間則書付奉指上候右田地之儀外新田平場
之」開発普請と違ひ格別金子も掛り不用地御田地ニいた
し」乍恐御殿様御益ニも相成候儀ニ御座候得は 此段御
堅」察被下度御免状之通御年貢被仰付可被下候様奉願上
候依て 書付」差上申候 以上
天保五午年(一八三四)八月
舟形村
(現館山市船形)川名村(現館山市川名) 大作百姓
九右衛門印
石川六左衛門様御内
御出役衆中
(19)16 相渡申井堀証文之事(Lは原文書の改行を示す)
一 三拾六年(元禄十六年(一七〇三))以前未之年大地震ニ而 其御村方(之か)□」御神領
地窪ニ罷成 (鶴ケ谷八幡神社社領)満水之節田地仕付難成」御難儀ニ付 当村
(湊村)地内江悪水落之井堀御願ニ付」 其節年切之約束ニ而井
堀相立為堀代と米六俵四升宛毎年切ニ取米申候 然所ニ
当村(現館山市湊区)道筋」等及破損 難儀之趣相達し止申候事」
一 此度亦候其御方より段々御願ニ付 当村川田」大道岸
よりぐゝ田坪岸迄横幅九尺堅行百」八拾五間四尺七寸為
畝歩九畝九歩 為其地代と」文字金弐拾弐両慥ニ請取永
々売渡申」所実正潮田也 但御年貢諸公済等之儀は」御
社領之井堀ニ御座候ニ付此方地主共方ニ而相勤可申候
右此方地主并」惣百姓相談之上ニ而其御村方御役人并惣
百」姓中此末永々井堀普請随分ニ無油断」被致候筈ニ相
究申候 右相定申候横堅間」数之外田畑ニ欠込不申候様
ニ被入念普請可」被成候 且亦其元御村方より相認被遣
候買証文ニ少茂無相違候ハゝ永々悪水」通し申筈ニ両村
相互ニ得心之上相定申候」為後日一札如件
一 井堀之辺満水之節損出来候ハゝ 証文之通其元」御村
方ニ而早速人足被成御出 随分ニ被入念ニ」普請罷成候
上ハ一切相違無御座候、万一大雨ニテ」上新田大土手破
レ横推水仕候而 此方田畑ニ」破損御座候ハゝ 右両村
(湊村・八幡村)立合ニ而見分之上ニ而如何」様共御相談仕候筈ニ相定申
候以上
元文三年(一七三八)午四月
安房郡湊村
名主 甚右衛門印
組頭 佐右衛門印
千燈院様 百姓代 茂左衛門印
酒井山城様 地主 徳蔵院印
伊達伊賀様 同断 長右衛門印
武内伊勢様 同断 八兵衛印
名主(八幡村名主)久右衛門殿 同断 門助印
組頭宇兵衛殿 同断 甚右衛門印
百姓代金右衛門殿
(20)17 乍恐以返答書奉申上候(Lは原文書の改行を示す)
一 房州平郡正木村(現館山市正木区)名主組頭百姓共奉申上候 同国安房
郡」湊村(現館山市湊区)名主政右衛門 高井村(現館山市高井)名主治郎兵衛方より古来
無之処新規」境杭相立候趣御訴訟申上 御裏御判頂載相
附候ニ付」驚奉拝見則罷出左ニ御答奉申上候
一 右訴訟人共奉申上候は、古来より無之処江大勢相催し
新規境杭」相立 殊ニ往古入江ニ而元船近相繫候湊ニ御
座候処 元禄年中」大地震ニ而右場所潮退キ候後川原ニ
罷成 当時砂間・芝間ニ而」往古より湊附之村方故湊村
と申右場所ハ字湊村と申候」湊村附之場所ニ相心得候由
悉ク相違之訴状相認」奉差上候
此段右場所之義は正木川と申 去九ヶ年以前辰年」
従御公儀様国役御普請被仰候節」地頭所より右川中央
川際村々立会相改置候様被申」付候間早速湊村高井村
江も申遣候ハ 此度正木川筋川」除御普請被成下候由
ニ候間立会川境相改申度候間立会候様申遣候処 其節
湊村名主政右衛門組頭五郎兵衛高井村名主次郎兵衛同
儀左衛門□組頭伝兵衛同長三郎右之」者共立会正木村
川端通三拾四町之間并湊村高井」村両村地内双方内見
仕得心之上今般論所之」場所川中央之境杭立置申候所
無間茂御見分」御役人様猪俣要右衛門様湯川加兵衛様
被御出御吟」味之上湊村高井村之者共被召出 双方得
心之上右川中ニ」立置杭木相違無之哉と御尋御座候処
双方共此度」相改杭木立置所境ニ相違無御座候段御答
申上」御見分相済其後御普請為御改和田清助様被成御
出」又候双方立会被仰付御吟味御座候所右杭木相立
候」場所境ニ相違無之段申上候ニ付 双方より其趣口
書御取」被極御普請成就仕候年来之儀ニ御座候間右杭
木段々と」出水度ニ石砂押上埋リ候ニ付 此度添杭相
立申度々候間」立会候様右両村江度々申遣候処彼是申
立会不申候間猶又」先達而御見分之節御改被下置境杭
ニ御座候得ハ何分」立会候様再往申遣候得共 否之儀
も不申越却而水流境ニ而」右川は湊川と申我等勝手次
第抔ニ無跡形茂申越難渋」仕立会不申候然処右境杭之
義砂利中江強打込最初水之」上潮壱尺七八寸程も出居
候所 年数相立候義ニ御座候間最早□」石砂押重リ埋
リ相見不申候様罷成候ニ付此上出水御座候而」流失
仕候ハは川境も取失候様罷成候間其段両村之者共
江」相届候上古来之古杭ニ相並添杭相立申候得は 決
而無之」場所ニ新杭打候と申儀ニ而は少も無御座候所
此度右杭木」年々相埋リ見へ不申候を見込新規ニ杭
木相立候抔と偽リ」成義御願申上候ハ全巧を以正木村
地内川原等可奪取存心と」奉存候間 何分御吟味奉願
上候殊ニ右古杭之義今以砂利中ニ埋リ」居候得は 御
見分被成下候得は明白ニ相分リ申候御事
一 訴訟方之者共正木川之儀湊川之由申上候は甚□成儀ニ
御座候
此段湊川と申候儀ハ宇戸川と申候而 古来は分川ニ
御座候而此川」筋高井村地内より湊村薬師堂脇江水流
来候故湊川と申候」処 先年御公儀様為御普請桑原郷
と申候所ニ高井村秣場」御座候処 右場所を正木川江
新川堀切被仰付 右川筋御田地ニ」開発仕其場所字今
ニ古川新田と唱候得は 右川之外湊川と申候筋無御座
候処彼是謀計を以(乗カ)□違等仕殊ニ正木川と瀬筋正木村ニ
相附候を見込 先年立会之上御見分被下置候」境目相
潰正木川原可奪取巧ニ而新規抔と偽之義申」上候義と
奉存候間何分御吟味被成下候様奉願上候御事
一 九ヶ年以前辰年御普請相済候後則和田清助様村」方
役人共江被仰渡候ハ□此度御慈悲を以川除御普請被
為」仰付候上ハ此後毎年破損不致候様村方ニ而出情(精)致
可申」旨被仰渡奉畏候所翌年巳年出水ニ而少々欠所出
来」仕候間 当村ニ而普請仕候所又候未年破損仕候ニ
付其段」地頭所江訴出候所為修復料金三拾両被下置則
致」普請夫より年年少々宛川欠取結候義ハ右両方境
杭」川中ニ有之候を目当ニ致来リ候所 若湊村高井村
申上候」通ニ川中央ニ杭木無之候得は欠ヶ次第ニ相成
一向結等も」難成 元より境目相糺シ候事も不罷成
候得は 出入可及」□□ニ而も御座候間此段御吟味奉
願上候御事
右之通少も相違不申上候 湊村 高井村之共者平生如
何□訳ニ御座候哉 権威我儘ニ而三給之当村を苗代ニ仕
立会之儀」等両村より度々人遣し候而も取合不申剰法
外□言之」返事仕候義及度候得共彼是申争候義ハ却而村
方」困窮之基と差出様罷在候儀ニ御座候 此度之義ハ全
以」正木村地内段々可掠取 巧を以出訴仕候儀と奉存候
間」何分御吟味之上御見分被為仰付被下置候ハヽ村一同
ニ」案堵仕難有仕合ニ奉存候以上
嶋田新三郎知行所
房州平郡正木村
明和五子年(一七六八)九月 名主 三右衛門
組頭 与左衛門
百姓代 長三郎
浅野源三郎知行所
名主 平内
組頭 甚左衛門
百姓代 藤三郎
白須甲斐守知行所
名主 藤助
組頭 五右衛門
吉左衛門代
百姓代 善八
御奉行所様
(21)18 覚(Lは原文書の改行を示す)
一 北条村(現館山市北条)五石領之百姓当夏訴証申上候儀ハ」古より潮来
り塩御年貢屋敷分ニ納来り候、地」震此方塩上げ申儀不
罷成殊ニ田畑日損場」処故御年貢遅滞ニ及難儀計ニ候
塩年貢」御免訴被下壱両二歩を田畑かけ御納所申度」
由達而訴来リ候寺領納処分減少ニ付各々江」相談申
干潟田地ニ罷成候様世間存知之上ニ候」間免許可申願
与存候 皆々尤之様ニ御座候ハヽ」左分印形被致当住
職私ニ不申後代申訳ニ候
依而談合状 如斯候
享保十三戊申年
(一七二八)円蔵院住職
(千倉町円蔵院)十一月日 日盛
小松寺印
金仙寺印
徳蔵院印
金剛院印
薬王院印
名主 権右衛門
(22)19(表紙)
(一七〇三年)
未十一月廿二日之夜
地震ニ而潰家并死人改帳
新井浦
(現館山市館山新井浦)名主 佐五左衛門印
(本文)
潰家之覚
一家壱軒 佐五左衛門
一同壱軒 久左衛門
一同壱軒 市郎兵衛
一同壱軒 山九郎
一同壱軒 長三郎
一同壱軒 庄八
一同壱軒 八郎右衛門
一同壱軒 八三郎
一同壱軒 門九郎
一同壱軒 久兵衛
一同壱軒 七郎兵衛
一同壱軒 久兵衛
一同壱軒 吉兵衛
一同壱軒 庄次郎
一同壱軒 権七
一同壱軒 市三郎
一同壱軒 惣十郎
一同壱軒但門共ニ(5図参照)三福寺
一瓦蔵弐軒 八郎右衛門
半潰家之覚
一家壱軒 佐五左衛門
一同壱軒 八郎右衛門
一同壱軒 三七
一同壱軒 新三郎
一同壱軒 善吉
一同壱軒 九兵衛
一同壱軒 徳兵衛
一同壱軒 惣七
一同壱軒 次右衛門
一同壱軒 権四郎
一同壱軒(前出)三福寺
死人之覚
門三郎
清七
長三郎
茂右衛門
右之者共稼ニ来津波ニ被取相果申し候
右之合
家数合弐拾壱軒 潰家
家数合拾壱軒 半潰家
死人四人
右之通相改書付差上ケ申候 以上
元禄十六年未十一月廿五日
新井浦
名主 佐五左衛門印
組頭 善兵衛印
同 惣右衛門印
柳井彦右衛門様
(23)20指上ケ申手形之事(Lは原文書の改行を示す)
一 房州長狭郡(現鴨川市)浜御林御公儀様御用御薪江戸」廻し被仰付
御座候ニ而 当月十九日ニ磯村(現鴨川市磯村)ニ而 泉州海上寺村」長
四郎船ニ 雑木御薪三千六百拾七束積立出」船仕 同廿
二日暮方ニ 当浦高野嶋(館山市鷹ノ島…図5参照)へ入船仕掛リ罷」 有候処ニ 同
夜八つ時分ニ大地震津波ニ而 右之御薪」船破船仕候ニ
付 船頭相断申候故 拙者并ニ近村(現館山市新井浦の名主)」より人足大勢出し
御薪随分無油断取揚申候拠ニ」雑木御薪千三百三十四
束取揚申候殊当村(新井浦)御」役人中茂早速破舟場江罷出 諸事
御指図被成尋」 拙者共立合相改 右之東高少し茂相違
無御座候 然上ハ」御薪船積無御座候内ハ 随分大切ニ
仕紛失不仕候様ニ」相守可申候 勿論破舟之分ヶ并ニ御
定浮荷物廿分」の一之代ハ当村御地頭地方御役人中へ指
上ヶ申候 浦」証文之内ニ委細書付指上ケ申候 為後日
手形依如件
元禄十六歳(一七〇三)未ノ十一月廿八日
(25)23 干潟出入之覚(Lは原文書の改行を示す)
(前略)
公事ニ可罷出と申ニ付、双方より張紙いたし、九月十三
日之御評定ニ罷出、絵図御披見ニ入、重左衛門申上候ハ六
石台越中守殿御知行所六石下之ひかた越中守知行所地引揚
と申上候、私共申上候ハ、六石台ハ真倉村分ケ郷ニて越中
守様御知行所ニ御座候、ひかた之義ハ此方地頭之干鰯場ニ
て地震已後運上取立来申候、地引之義小あいと申所ニて入
会ニ引来、地震前(元禄地震)ハ小あいより外ハ岩間ニて、地引難成、
ひかたニ罷成候ても、六石台より砂浜ヘハ、所ニより壱丈
より壱丈四五尺下ニて御座候、ひかた砂浜、此方干鰯場ニ
て、一切地引不仕候、此段ハ地引請負人ニ御尋被下候様ニ
と申上候、干鰯為仕運上取立候義ハ、干鰯商人ニ御尋被下
候えハ、相知レ申候義ニ御座候、干鰯帳面共御披見ニ入申
度と差上ケ申候、其外ヶ様ニ北下嶋と申上候義、六石台ハ
上須か六石台(図6参照)
と申則越中守様御免状も是ニ御座候と申、差
上ケ、此方之義ハ北下と申名所、御免状ニのり申候と申
上、免状差上ケ申候、右書物共御覧無之海ハ其方之かと御
尋御座候、成程高入ニて御座候と申上候、海高入ニても、
名所有之哉と御尋被遊候、成程北下と申名所御免状ニ御座
候と申上候、重左衛門申上候ハ、此ひかた運上金四両弐
分、六石台名主ニ預ケ置申候えハ、あの方へ取候、此段ハ
追て御訴訟可申上と申上候、私共申上候ハ此方ヘハ地震已
後干鰯運上金取来候、大切之運上金其元へと取不申、可預
ケ訳無御座候と申上候、御奉行大隅守様被仰付候ハ、検使
ニ罷成候間、霜月十三日ニ罷出候様ニと被仰付、御帳場へ
廻り封紙被下、絵図大切ニ可仕旨ニて、包紙のり共ニ被下
封候て、双方相封ニて、預リ置申候、
24(26A) (表紙)
元禄十六年
(一七〇三)今度地震ニ山ゆりくすれ
田畑荒帳
(現館山市畑区)畑村
未ノ十二月日
(表紙裏)
山崩田畑損毛
なべくら七畝十歩内 下田弐畝十歩 訴
(本文)
なべくら
下田 七畝十歩 内二畝十歩 山くミ
同所
下田 五畝六歩 内拾歩 山くミ
さかい田
一下田 九畝歩 内廿歩 山くミ
まりはたけ
下田 三畝廿部(ママ) 内二畝廿歩 山くミ
麦久田
下田 弐畝廿八歩 内廿歩 山くミ
同所
下田 壱畝四歩 内三歩 山くミ
吉野
上田 壱反四畝四歩 内四畝歩 山くミ
立石
中田 壱反弐畝廿七歩 内五歩 山くミ
清水
上田 三畝廿三歩 内四歩 山くミ
怒田
中田 弐畝十一歩 山くミ
渡度
下田 三畝十四歩 内一畝歩 山くミ
ほそ尾
中田 六畝拾歩 内廿五歩 山くミ
ふる屋と
中田 九畝廿四歩 内五歩 山くミ
吉野
上田 九畝拾八歩 内十歩 山くミ
同所
下田 五畝拾二歩 内廿歩 山くミ
同所
下田 五畝拾一歩 内十五歩 山くミ
なべくら
下田 五畝拾一歩 内十五歩 山くミ
同所
下田 五畝十一歩 内五歩 山くミ
川田
中田 二反拾六歩 内二畝歩 山くミ
越地原
中田 壱反七畝廿七歩 内三歩 山くミ
とうけ
下田 七畝拾四歩 内一畝十五歩 山くミ
同所
下田 廿歩 内三歩 山くミ
石が尾
下田 壱畝歩 内五歩 山くミ
むなこ
下田 三畝拾五歩 内廿四歩 山くミ
壱郷
下田 壱反六畝五歩 内四畝五歩 山くミ
へびが尾
一下田 五畝三歩 内壱畝歩 山くミ
北沢
下田 弐畝十二歩 内一歩 山くミ
ほり切
下田 五畝十歩 内三歩 山くミ
ほり切
中田 八畝十三歩 内長サ廿七間川へゆり」わり申し
候」
同所
下田 三畝八歩 内長サ廿間川へゆり」わり申し候」
むかい山
下田 壱畝拾五歩 山くミ
西川
下田 拾五歩 川くミ
一 惣太郎屋敷弐畝十二歩内壱畝歩川くミ」四尺廻リ之松
壱本ゆりくすれ
一 勘右衛門屋敷前道 六間川へくミ」申候間道とまり」
屋敷之内道ニ仕候
一 瑞竜院(図7参照)六石弐斗御朱印地内 内五畝廿八歩山くミ 同
寺つふれ寺中二つニわれ申し候」
一 なへくら山 高さ十五間 横十間山くミ
一 川田山 高サ五十間 横廿五間山くミ」川つゝまり道
とまり申候
一 大さ川へ 高サ三十間 横廿間 川へ山くミ」水つゝ
まり道とまり申し候
一 ほらの川道 川へくミ道とまり申し候
一 西川道 高サ十間 横廿間川へくミ」道とまり申し候
一 へびが尾 高サ五十間 横百間山ゆりく」ずれ申し候
一 吉野山 高サ六間 横廿三間山川へくミ」道とまり申
し候
一 とりがふね山 高サ十五間 横廿間川へ」くミ道とま
り申し候
一 むかい山 高サ十五間 横廿間川へくミ」川つゝまり
道とまり申し候
一 大せき川水一すいも無御座候」此水後迄も無御座候得
は田地大分つぶれ」申候□□(別而カ)なわしろ場ニテ御座候
一 村中ニ水向井戸水一円無御座候
一 ひわくび山よりいゝもりつかまて」九百間ほとゆりわ
れ申し候
一 たて(館)山へ道方々ゆりくすれゆり」われ大分御座候
其外五間拾間之小ひわく共数百」も御座候 田畑つふ
れ之儀も其外」御座候 御見衆様御出之時分御案内」
可仕候
房州畑村 作兵衛印
元禄十六年(一七〇三)未ノ十二月日
野崎文右衛門様
柳井彦右衛門様
(26B)24 神余地蔵畑(図7参照)の地蔵尊碑文
〔地蔵尊の背に碑文あり〕
神余村地蔵畑(現館山市神余地蔵畑)往古ヨリノ本尊ハ元禄」十六癸未(一七〇三)十一月廿
二日之夜大地震ニテ」岩屋崩木像故別当自性院エ」奉遷
則」
石地蔵尊」令建立畢
25 蓮寿院(位置は図8参照)津波供養碑碑文(Lは原文の改行を示す)
〔正面碑文〕
南無阿弥陀仏(梵字)
元禄十六癸未(一七〇三)十一月廿三日因津浪於当所 死亡男女老
若八十六人也考今年」
正徳乙未天(一七一五)十一月廿三日当十三回忌故為彼亡者此名号
建石塔弔忌者也
〔左面碑文〕
房州安房郡相浜村(現館山市相浜区)立之
〔右面碑文〕
施主 武州江戸尾張町 浅田六兵衛
〔裏面碑文〕
〔上段〕
経日遇斯光者三拓消滅及至善心生焉」若在三塗勤若
之処見此光明皆得休息」又云其仏本願力聞名欲往生
皆悉」
致彼国自致不退転
〔下段〕
一切含霊 有衆両縁 及至法界 平等普益
(29)○千倉町
(28)26 相渡申海境証文之事
一 去未(一七〇三)霜月廿二日夜大地震以後海上潮早(旱)ニ付、平磯千田
海境先規之場所へ両村立合ニて相改候所に両郷兼て覚置
候境相違仕、既ニ論所と罷成、内々ニて難遂吟味、不及
是悲(非)ニ、両御役所様方迄申上候所ニ、組合之村々川口、
(現千倉町)忽戸、平館、南朝夷、北朝夷、右五ヶ村名主組頭衆御取
扱可被下由ニて両御役所様方より被申下彼御扱之衆中、
海境御見分被成候え共、双方存寄各別相違仕由ニて、何
れとも御了簡御極難被成、然上ニハ計之松両村覚相違仕
候、以其中分達て御扱被成候ニ付、無拠任其意、則御扱
之衆中御立合ニて、境之分木陸ニ壱本、夫より八拾間行
黒嶋分木目壱ツ(注28をみよ)、 又弐拾六間行潮早(旱)之場所ニ分木壱本、
是より湊際ニ分木壱本、右三本之分木ニて、湊沖ノ嶋波
打際ニ大穴壱ツ、是ヲ目当テ海上大灘迄見渡シ、千田、
平磯海境と相立テ、潮早(旱)ノ場所ハ猶更水底根続去ニ見当
次第と永々相極置候上ハ、海上何ニても、向後出入ケ間
敷儀仕出シ申間鋪候、為其御扱之衆中以連判証文、相互
ニ取引相済申候、為後日一札仍如件、
千田村
名主 平次左衛門印
組頭 清右衛門印
同九郎左衛門印
惣百性代七右衛門印
扱人南朝夷村
庄兵衛印
金右衛門印
北朝夷村
勘解由印
庄左衛門印
元禄拾七申甲年
(一七〇四)三月十一日
平館村
喜左衛門印
権之助印
忽戸村
善左衛門印
源助印
川口村
小兵衛印
清右衛門印
平磯村
団六殿
七郎右衛門殿
安右衛門殿
徳右衛門殿
(35)○丸山町・和田町
(30)27 房州沓見村(現丸山町沓見区)大地震ニ付破損ノ品々
一 堂社合 八ケ所 但大神宮 八幡宮 山王堂 釈迦堂
弥陀堂 薬師堂 観音堂 虚空蔵堂
一 家数合 六十八軒 内 藤兵衛家一軒別儀無御座候
其外六十七軒ハツブレ申候
一 御蔵 ツブレ申候ニ付小屋懸仕昼夜共番人置申候
一 馬十九疋 内七疋死申候
一 牛二十五疋 内八疋死申候
一 田方之内 一町八反五畝余 当荒
一 畑方之内 二町七畝余 当荒
一 池数合 六ケ所堤ワレ申候
一 納米 二十一俵二斗三升二合 御蔵ニ有
一 浜出シ置候薪五六束程帰リ申候由船主方ヨリ申来候
一 百姓中之諸道具不残損申候
右ハ十一月二十二日ノ夜大地震ニ付破損仕リ候御見分
奉願候処ニ早速御両人御越被成下我々モ立合村中御吟味
之上如斯御座候以上
元禄十六年(一七〇三)未極月十一日
沓見村名主 権右衛門
年寄 吉右衛門
同 惣兵衛
同 小兵衛
六嶋与兵衛殿
田山織右衛門殿
(31)28 浅間社句碑碑文(Lは原文の改行を示す)
(石碑表面、歌)
浅間山神のくしひに生るひと 家のさかえはつくる世□
□□ 清隆
こころあるひとはあはなむ千代かけて浅間の神の高きめ
ぐみを 七平 秋水
(裏面)
元禄十六稔癸未」十一月廿三日夜過」半時有強震本村」
西白渚浅間山崩」壊自南方亘西方」其面積八町余歩」埋
滅戸数五点人」員廿八身今尚唱」峯台是也東白渚」中塚
又罹災埋没」家数四戸人員廿余体距今実百九十」三年也
聊録而為」後証
明治二十八年十二月
加藤七平識
(以下に寄進者名あり、略す)
(32)29 東堂大地震津波供養碑碑文、および安遊堂供養碑碑文
〔東堂大地震津波供養碑〕
[梵字元禄十六未天大地震津波聖霊十一月廿三日覚泡信士覚妙信女妙霜信女岩清信女香達信女香意童子香木童女覚円信士施主 白渚村三重良]
〔安遊堂供養碑〕(Lは原文の改行を示す)
供養碑
夫レ宇宙間ニ生レ凡ソ血気アルモノ死ヲ厭ヒ生ヲ楽マサ
ルモノアランヤ况ンヤ天」災地変ニ遭遇シ非命ノ死ヲ遂ク
ルニ於テ其レヲ聞キ其レヲ見ル人誰レカ之ヲ哀」痛悲傷セ
サルアランヤ某等生ニ辺郷鄙陬ニ在リト雖モ均是我」皇化
ニ露フノ民ナリ時或ハ義勇ノ兵トナリ身ヲ鋒鏑ニ殞シ或ハ
疫癘ノ触ル所ナルモアリ」鳴呼此徒ノ幽魂ヲシテ空シク荒
烟断艸ノ中ニ彷徨セシメテ可ナランヤ是ニ於テ某某等」相
謀リ一塔ヲ建立シ毎歳春秋二季ヲ以テ凡ソ天災地変及国難
ニ殉スルモノヽ」亡霊ヲ供養弔慰シ永ク此ノ典ヲシテ絶エ
サラシメント欲ス蓋シ亦々同胞」相愍ノ意ニ出ルモノナ
リ」
明応七年八月廿三日 大地震大海嘯
天正十八年二月十六日 同
寛永四年八月五日 同
慶長六年十月十六日 同一云同八年十一月
廿三日
元禄十六年十一月廿三日 同
安政元年十一月三日 地震海嘯
明治十年二月 西南役
同廿七年八月 征清役
同廿九年六月十五日 三陸」地震大海嘯
明治三十一稔(一八九八)春三月
有志供養会
(以下に関係者名あり、略す)
(33)30 威徳院津波到達地点碑
〔元禄十六未十一月廿二日夜□□□津波□□□□〕
「碑に関する伝承」、この碑文の彫り込んである石段の
上から3段目まで津波が達したという。また、矢部鴨北著
「千葉県郷土志」(一九二九年発行)のp85に「……『石
階に銘していふ元禄十六年十一月廿二日夜(以下磨滅不
詳)』とあるこれ当時の震災にして海嘯の此処まで来りし
を記念すべく刻せるもの……」と記している。
(34)31 威徳院津波地震供養碑
(石塔部分の碑文)
〔正面〕
伝聞昔慶長八(一六〇三)癸卯十一月廿三日応天赦之日此所津波
騒動其後一百年而元禄十六(一七〇三)癸未十一月廿三日亦天赦之
日也夜半過大地震而津波至当山階下村(現和田町真浦区)中溺死八十余人
西白
〔左側面〕
須賀(現白渚区)不二山東表自山八分崩落人家宇人数廿八人也其
地今之地蔵堂辺也右為諸聖霊同証仏果雖石塔一基立之
歳月綿邈石碑傾♠正而爰今歳五十遠回故重興厥廃而令
供養者也
宝暦二壬申年(一七五二)十一月廿三日
〔裏面〕
天元禄之後宝暦二年雖再建積歳月而既及磨滅依而亦
復造立之則是右為聖霊並水陸横死之諸霊魂乃至一切聖
霊成三菩提也旦写古碑而為令知後生記之童男童女勿生
疑而已
〔右側面〕(梵字)
天保二辛卯年(一八三一)七月二十一日
(台座の碑文)
〔正面〕
名主 平右衛門
組頭 市兵衛
同 半右衛門
石工 四郎兵衛
当住 廿一世法印□□
〔裏面〕
速証信士
海印信士
〔右側面〕
中村(横書き)
(40)○鴨川市
(36)32 堀田文左衛門他二名書状、平野吉兵衛宛(」は原文書の改行を示す)
去ル(元禄十六年十二月二十六日)廿六日之飛脚今廿九日昼」時分参急書状被見
申候然は」去ル廿三日之明方其元大地震高浪ニ而波太
前原(現鴨川市波太・前原)家財」不残浪ニ取ラレ被申候由驚入存候」殊ニ
前原ニテハ仁右衛門(平野仁右衛門)御手前子」(平野吉兵衛子供)家来已上(以上)十人相果被申
候由」笑止千万ニ存候、則申上候処無」便ニ被思召
候嶋(仁右衛門島)ニテハ無何事」山へ退被申」候由、飛脚之者
委細申聞を 此上之仕合存候」波太之儀、無心元左右
承度」存候所、入念飛脚之差越し勝浦へも申遣加藤伴
右衛門」其元へ参致見分之所ニ被」仰付候間、定
而今程改可レ申と」存候」
一 此度津浪ニ家財流候由」御聞無レ便ニ 思召」依之
米十俵被下候間、有難頂載可」被申候、代官者右
之通此度申遣し候間、此書状早々相届」右米受取可被
申候取込候間」早々申入候、委細飛脚之者」口上
ニ可申候 恐々謹言
十一月廿九日
堀田文左衛門(花押)
小野寺友右衛門(花押)
堀十郎左右衛門(花押)
平野吉兵衛殿
この手紙は巻物になっている、その注記以下の通り
「元禄十六年十一月廿三日大津浪に付幕府よりの見舞
状なり御上ハ徳川綱吉公也、吉兵衛とハ当主仁右衛門の
弟なり、後襲名して仁右衛門となる」
(37)33 仁右衛門島弁財天津波犠牲者供養塔および地蔵尊
〔供養塔〕
(表面)
[元禄十六年癸未妙法清流院日浄霊十一月廿三日〕
(右側面)
〔妙玄童女〕
(左側面)
〔露幻童子〕
〔地蔵尊〕
〔銘〕露幻
妙玄
(zz)34 日枝神社津波避難丘および墓碑
〔日枝神社津波避難丘〕(位置図10参照)
前原地区が立地する鴨川平野南部の砂堆上にある。ほぼ
円形の平面形をもち、断面概略は図のごとくである。
伝承によれば、「慶長津波で前原浦は大被害を受けたの
で、盛土して塚を作った。元禄津波来襲時には、この塚に
逃げ登ったものは助かったが、他のものは水死した。元禄
津波後、次の津波に備えてさらに盛土をした。最近まで多
数の元禄津波の犠牲者の墓碑が塚の回りに立っていたが、
石垣に使われたり、持ち去られたりして数が少なくなって
しまった」(前原区相木吉之助氏談)という。踏査してみ
ると、地表面は盛土よりなる塚で下段の石垣は周囲の道路
を限るため最近築造されたものらしく、上段の石垣は、比
較的古い築造になるものである。
元禄津波犠牲者墓碑は五点発見したが、2点が下段の石
垣の石に使用されていた。他に元禄四年、元禄十三年の墓
碑が各一点づつ、磨耗のため年代不詳のものが2・3点あ
る。元禄地震前の墓碑があることから、塚の作成時期は伝
承通り元禄地震前にさかのぼるであろう。また元禄津波犠
牲者の墓が全体の半数を占め、それ以後の墓がないこと
や、附近に類似する高地はなく、わざわざ盛土を行い、上
部を石垣で固める等の工事がなされている事など単なる墓
地ではなく、伝承の通り津波避難所として建設されたもの
であろう。
〔墓碑〕①~③は塚の西側斜面にあり、④、⑤は南側の
下段石垣用材に使用されている。
(42)37 先祖六右衛門従申伝事
(前略)
御墨付迄頂戴仕御褒美書其上七人者共五節句御見舞仰付ニ
テ麻上下ニテ東条御屋敷表御玄関ニテ御体相済夫ヨリ御次
ヘ相廻リ御奉行様ヨリ御酒被下其比御免ニテ唐木綿三幅ニ
テ西宮干鰯中間ト書大文字ニ書二間浦一番の下ヘ立テ五月
晦日ヨリ六月七日迄竜神祭リト申仲間内寄諸人ヘ神酒ヲス
ヽメ年久敷相続右大ノボリハ小西市郎右衛門方ヘ預ヶ置候
得共御墨付ハ大切ノ品ユヘ辰庄兵衛方ヘ預ヶ置候処元禄十
六年十一月廿三日大津波為ニ庄兵衛家蔵家財不残流サレ右
(一七〇三)御墨付モ其節流失仕候急(マヽ) モ早足東条(現鴨川市東条)御屋敷迄申上候処御
奉行後日ニ願可出由仰被下候処何レノ訳合御座候哉西郷様
御屋敷御取払ニ相成甚残多存候西郷様御繁昌内二間谷竜尾
ニ住居致シ候百姓衆本場上通芝原ノ処居屋敷ニ願出早速御
聞届被成御見分上其時ノ百姓持高ニ順シ夫々御割渡シ被下
今芝竜屋敷六反一畝廿六歩是也右居屋敷割初ハ須田太左衛
門申者今以相続罷在候元来居屋敷ノ願手蔓ハ太左衛門ト申
人モ始御領守様御小姓ヲ相勤此女中ヨリ内々御内意ニテ御聞
済故割初ハ太左衛門ヨリ段々割渡シ橋重屋浦迄割渡シ夫ヨ
リ東之方西宮七人納屋場ユヘ先達テ本場附ニテ御免ノ屋敷
ニ付御手入無之候夫ヨリ七軒ノ納屋場辰ノ大井戸近所上通
ハ納屋場中通ハ干イワシ俵積場下通ハ西宮ノ者船引場にテ
小仲間平九郎納屋ヨリ東井戸尻マデハ西宮者十分ニ商売場
ニテ其比芝ノ水流ハ辰大井戸キワ迄流津波後段々納屋場カ
ケ只今ハ小中間平九郎持今寿ハラヤ三郎兵衛ヘ相渡其次四
宮六右衛門夫ヨリ小西市右衛門納屋場ニテ残ハ形モ無之候
然共其比ノ形ハエビヤ市右衛門ヨリ辰庄兵衛大井戸迄両家
十分住屋致シ津波後年増日増ニ海近ク相成右屋敷ハ干カ場
納屋ニ致我等モ当所引越候初メヨリ山本庄五郎屋鋪今波打
キワ迄出張候屋敷広ク住居仕候得共津波後ヨリ年々屋敷カ
ケ宝暦元年ヨリ町方ヘ引キ越シ只今通リ細々先祖ノ家名ヲ
立罷在候此外種々細々敷事トモ御座候ヘ共右古書物多分虫
喰ニ相成訳リ兼候間アラアラ未々孫共為心得書残シ置キ候
(中略)
文政八年酉春
当家五代目
六右衛門印
八十一歳
子孫ヘ
丙天保七申春写替
○勝浦市
38 高照寺過去帳(元禄十六年の頃)
元禄十五壬午正月卅日ヨリ二月六日マテ 西南ノ間ニ掃
星出ル 元禄十五壬午四月十七日月天如紅
元禄十六癸未(一七〇三)十一月廿二日ノ夜九ツ子の時 前代未聞之
大地震大地夥敷破レ 倒屋不知数 同八ツ半刻津波出水
神明(現勝浦市出水神明神社)ノ先壱丁死人又ハ肴ヲ拾フ 内宿(灯台行きの耕地附近)サツダ坂下(川津トンネル下の坂)迄家ヲ
流ス 安房上総之内ニ而死人都テ一万人余 諸国ノ死人不
レ知レ数 同月二十六日之暮六ツ時大地震惣〆日本国之死人
三十万六千人余 地震五月迄
宝永四[亥|い]十一月廿三日大震動昼申ノ刻(后四―六時)石フル 同夜八丑
刻砂(前二時ごろ)フル十二月十一日迄不止 積事五寸 同十一月廿四
日ノ日中如闇 往来燈行ヲトボス
*地名の注は「私説勝浦史」による。
(43)39 香取神社棟裏肘木銘文
元禄“不明”大地震大津波上総下総安房相模四ケ国ニ入
リ、海辺房州洲ノ崎ヨリ九十九里まで男女“不明”牛馬不
知数房州七浦二十町程陸地ニ成ル鮑ナド大分上ル大ナル材
木ニテ造リ家寺社共不残禿ル、其時江戸モ大地震大火事、男
女二十万人死ス。此年マデ先年ノ津波七十三年ニ成ル(注、
寛政五年の津波か)中興ノ津波二十七年ニナル(注、延宝
五年の津波を指す)其後宝永四年(一七〇七)亥十月四日京大阪其外四
国ヨリ海辺豆州ヨリ大地震大津波入、京大阪大火事、禁中
マデ焼ル。同年十一月二十三日富士山焼ル、其砂武州相州
安房上総下総五ヶ国ニ降ル、三日ノ内昼夜ノ差別ナシ。桃
橙灯ニテ往来ス。翌年子年(一七〇五)石砂除金トシテ高百石ニ付二両
ヅツ日本国中ニ掛ル、富士山近山ハ一丈積ル、其外五尺三
尺マデ積ル、其時ニ子富士トテ山一ツ出現ス、富士山近所
ハ火ノ雨降ルナリ、宝永六年(一七〇九)正月十一日公房御他界、四月
朔日甲府様御本丸ニ御入、同年五月廿八日書之 領主 松
平刑部内植野郷町 吉野佐五右衛門久勝(花押)
○御宿町
40 妙音寺過去帳
寛永五年(一六二八)戊辰十二日十六日戌時ニ津波入リ 御宿江(現御宿町御宿)ニ
大小男女共ニ五拾余人死ス 此時新御堂七間(ママ)之家ヲ波ニ破
サル 仏頂院六拾弐歳時也其時隣郷ニ家移リ造ル(以下略
水流人十三名の法名)
干時 延宝(一六七七)五歳丁巳十月九日夜 亥時津波入御宿郷ニテ
男女三十八人余死ス 当院中興開山幸順法印三十二歳之
時妙音寺住職スル時分也(以下水流人十名の法名)
干時 元禄十六歳癸(一七〇三)未霜月廿二日ノ夜四ツ時分ヨリ九ツ
時分ニテ大地震 男女死スル者其数余多也 夜ノ九ツ過キ
ヨリ夜明ニ至ルマデ津波三ケ度ニテ入 地旅ノ人十五人余
水流ニテ死ス 当寺中興開基竪者法印幸順五拾七歳ノ時分
也(以下水流人の法名三名あり)
宝永四丁亥暦(一七〇七)西国大地震津波入テ死人不知其数ヲ 前代
未タ聞 当国ニハ霜月廿三日夜半ヨリ沙石降ル事経月不
止 積事二寸ニ余リ十二月二日ヨリ三日迄白キ毛降ル
長サ一寸二寸余リ 富士山焼ル事 月経テ不消
41⒜ 元禄弐年(一六八九)巳ノ十二月廿五日、御宿(現御宿町御宿)浦方割合之帳(末尾
書き込み)
浜の権利を記した帳簿であるが、未尾に「右帳面未(一七〇三)ノ十
一月廿三日夕、津浪しおくさりに成候故、享保拾六年辛亥
年五月直し置候」とある。
⒝ 村方模様書、上総国長柄郡和泉村
(現岬町和泉) 文中に「右は貞享三寅年(一六八六)天羽七右衛門様御代官之節、田
畑御地請有之御水嶋所持仕候処元禄十六未年(一七〇三)村方は海岸附
にて大浪打入、家財被引取、其節御水帳流失仕候」とあり。
⒞ 享和二年(一八〇二)戌正月改(和泉村)村方様子明細帳
文中に「元禄十六未年(一七〇三)津波ニテ検地水帳竹垣三右衛門御
代官所流失仕候」とあり。
いずれも、千葉県史料近世編上総国(上)、千葉県発行
より引用。
○一宮町・長生村
42 (表紙)(」は原文書の改行を示す)
享保四年(一七一九)亥ノ
(巳か)万覚書写
三月吉日万書置覚 児安惣次左衛門
一 元禄十六年未(一七〇三)ノ十一月廿三日夜四つ時分より 大地震
三度夥ク」ゆり出し 少し間有て辰巳沖より海夥ク鳴リ
夜八つ半時分津浪打」上り申候 毎度巳ノ年ノ津波よ
り浪の高さ四尺余も高ク来り申候」□□度前々下通り屋
敷へ出候家共あと形もなく打潰レ 此節又々」□□会所
江上り 居住仕候浪揚候通り せき内の道を所々」□□
三十間計水上り申し候 岩切下(一宮町石切) 行屋下きし上河はし上
迄」□□きおし上申候 此節ハ先年の津浪覚にて下通ニ
居住」の者 大地震(ママ)大地震故早ク皆々迯上り候故 人死
ハ多無之 はま」網なやに置候者 心なくにけ上り不申
候者共 拾四五人死申候」東浪見浦に織網(ママ) 地網共六程
有之候 此節皆々舟網諸道具」不残打破流レ亡失ニ成リ
候
手前も毎度より五・六年も織網半程引 諸道具御座候
処に 此節舟網諸道具不残打流し 金子百」両計損失有
之候 此節の津浪一ノ宮町下やぶきしまて」打揚申候
一ノ宮下通に居住の者 其外はまなやに居候者共 已上
五拾人余も死申事に候 川通リ(一宮川か?)ハ茂原下まて水押あけ」
申事ニ候 舟頭給(一宮町船頭給)より北の方段々浪高ク打揚 一松領(現長生村一松)三
千石の内」家も大分に打潰レ 人も千弐三百人も死ス 牛
馬も大分死失」申候 九十九里いよか(飯岡)まで 舟人壱万千
余も死失申候 浦方」漁舟も左のことく亡失ニ成り候
南ハ上総房州まて段々浪高ク」打揚 人も大分に死亡申
候 房州前原(現鴨川市前原)浦一村にて 家居も千軒余りの家不残打流
し 人も千三百人余死亡申候 牛馬も死失」□□(大分カ)に有之
候 此節の地震夥き大地震にて おか方ニテも□□家寺
々共 大分家ともゆりたおし 所々にて人も沢山に」□
□□打連 或ハ気を失 死人も大分に有之候 房州海辺
は」海陸に成り候所又有之 おか地海に成り候所 普多
所出来申候」其外地志んにて所々替り候事共 沢山に有
之候
一 宝永二年(一七〇五)(宝永四年か?)酉ノ十月四日昼日中に大地震ゆるき 此節も
下」浦浪柴きわまて打あけ申候 此節上方道中小田原の
町」不残津浪其上火事にて打潰レ 同大久保加賀守様御
城も」焼失申候 紀州なとも大分津浪上り 浦辺にて人
三万人余も」死亡申候由 四国の内も大分の津浪にて
死人も何程と数にも」不過死亡申候由
43 乍恐以書付御訴訟申上候(」は原文書の改行を示す)
一 高弐千四百六拾弐石壱斗八升八合七夕本郷一ノ宮村(現一宮町一ノ宮)高
辻」
内 三百四拾弐石壱斗八升八合七夕 未ノ改出高」
此反別弐百拾町八反弐畝弐拾七歩
内 田方百拾壱町弐反九畝弐拾三歩
内 拾八町六反七畝弐拾弐歩 砂埋亡所
畑方九拾九町五反三畝四歩
内 拾七町三反弐畝弐拾八歩 砂埋亡所
是ハ申ノ春(一七〇四)より夏秋迄百姓男女共不残罷出砂さらへ」
普請仕申ノ麦毛仕付申候間酉ノ年(一六〇五)より御年貢上納可仕
候
一 七拾六町三反七畝弐拾八歩 新田畑反別
内 田方弐拾五町七反五畝拾壱歩
内 拾四町九反四畝弐歩 新田砂埋亡所
畑方五拾町六反弐畝拾七歩
内 弐拾壱町八反五畝拾弐歩 新畑砂埋亡所」
〆五拾五町四反七畝六歩 本田畑新田畑砂埋亡所
一 百姓家百六拾六軒 津浪流失
此者共屋舗無御座候故陸江上り 一門縁者或百姓傍
輩之」屋敷ノ内をせはめ候而小屋かけ仕干今罷有候
一 本郷村(現一宮町)新笈村川除潮留堤千弐百五拾間余」前方より押
流 田畑大分押欠申候故未ノ七月十七日」風雨荒之節も
村東五拾町余田地江潮差込」御年貢ニ上納可仕米一切無
御座候付金納ニ而御」年貢皆済仕候 依之同年之」九月
御代官様御検見ニ御廻リ被遊候節御見分ニ入川除潮留堤
之御普請奉願候得ハ御聞届御普請可被」仰付様ニ被仰候
其以後津浪ニ而大破ニ罷成難儀仕候
一 高弐百四拾七石 新笈村高辻
内 八拾壱石六斗八升七合九夕弐才 川欠無地高 此反
別拾弐町七反五畝八歩」
内 田方七町弐反弐拾五歩
内 壱町八反七畝拾壱歩 本田砂埋亡所
畑方五町七反弐畝拾三歩 本畑砂埋亡所
是ハ申ノ夏秋百姓男罷出砂さらへ普請仕麦毛」仕付申
候得は酉ノ年より御年貢上納可仕候
右は未(一七〇三)十一月廿二日之夜大地震津浪ニ而田畑砂埋」亡
所ニ罷成候 右之内本畑拾七町三反弐畝弐拾八歩去」申
ノ春秋(一七〇四)百姓自力ニ而砂掃普請仕候 残而五拾」五町四反
七畝六歩ハ百姓自力ニ而普請不罷成候ニ付」其砌より度
々奉願候得共被仰付無御座何とも」迷惑仕候 依之去秋
御検見ニ御廻り右砂埋亡所」御見分被遊候節も御普請之
儀奉願候ヘハ百姓」自力ニ而随分精出シ普請仕候様ニと
被仰付候得共」困窮之百姓ニ御座候へは自力ニ而普請不
罷成迷惑」仕候 御慈悲ニ亡所川除潮留堤 御公儀様」
御入用を以御普請被為仰付被下候は渇命」をも津なき百
姓相続仕難有可奉存候以上」
宝永弐年(一七〇五)酉二月
上総国長柄郡本郷一ノ宮村
名主 十郎左衛門
同 太兵衛
同 太郎左衛門
同 平四郎
組頭 重兵衛
組長 新兵衛
同 角右衛門
同 平次左衛門
同 清兵衛
同 源次郎
同 藤右衛門
惣百姓
同国同郡新笈村
名主 市左衛門
組頭 三左衛門
(後一葉を欠く)
44 乍恐以書付御訴訟申上候(」は原文書の改行を示す)
上総国長柄郡一宮本郷村
(現一宮町一宮)訴訟人 惣百姓
一 去未(一七〇三)十一月廿二日之夜大地震之節津浪入田畑亡所」大
分出来仕 百姓自力ニ普請難相叶迷惑仕候 以」御慈悲
御普請被為仰付被下候は 難有可奉存候」 亡所之儀委
細書付去暮差上置申候事
一 本郷村之渡シ船(一宮地先の一宮川の渡し船か?)之儀 先規御地頭様方より破損次第」
修覆被仰付被下候 然共今般殊外破損仕候是又」御慈悲
を以御修覆被為 仰付被下候は難有可奉存候」 尤郷中
ニ不限往還之渡船ニ而御座候事
一 郷中之小橋殊外破損仕候 是も先規御地頭様方より」
段々御修覆被仰付被下候間 此度も御慈悲を以」御修覆
被為仰付被下候は難有可奉存候事
一 猪鹿等罷出田畑荒シ申候節は 累年御地頭様より」鉄
炮借用仕 玉なしに驚シ申候 今度も猪鹿罷出」難儀仕
候間 鉄炮四挺拝借被為仰付被下候は」玉那しに驚シ申
度奉存候事
右之趣惣百姓奉願候 以御慈悲被為仰付」被下候は
難有可奉存候以上
宝永元年申(一七〇四)七月
上総国長柄郡一ノ宮本郷村
名主 十郎左衛門
同 太兵衛
同 平四郎
同 太郎左衛門
組頭 藤右衛門
同 源次郎
同 源右衛門
同 平次左衛門
同 角右衛門
同 重兵衛
同 新兵衛
御代官様
45 先祖伝来過去帳
注 菊地利夫(一九七六)近世九十九里浜の不漁に対す
る領主と漁民の行動、歴史地理学会編、災害の歴史地
理、古今書院、p.83~100より引用。
先祖伝来過去帳 八積村(現長生村)元台田家文書
慶長六辛丑年十月十六日 大地震山崩 海埋て潮の引事
凡三十町余 十七日子刻ニ沖ノ方数度鳴 大波立 村々山
里ニ波打揚ヶ 安房小湊 和田 白古内浦 天津 辺原
新河 勝浦 岩和田 御宿 矢指戸 小浜 日在 和泉
東浪見 一宮 一松 幸治 中里 五井 古所 刺金 浜
宿 四天木 今泉粟生 片貝迄 凡四十五村 水死之者二
万人程有
元禄十六癸未年十一月廿二日夜 房総大津波 宮成ノ下
溜池迄 水上ル 夜の九ツ時より大地震ゆり 三尺戸自然
と明く海辺ハ大地一二尺割れ 波より先達て水せき出る
依之土中に足ふみ込み 逃候も埓明不申 波にお付られ水
死仕もの凡七万人斗 水死之者有之 其年極月迄 不絶地
震ゆりき
○白子町
46 一代記付リ津波ノ事(」は原文書の改行を示す)
(前略)
同年号」元禄十六癸未年(一七〇三)夏旱抜シテ」冬寒強星ノ[気色|ケシキ]何ト
ナク」列ナラズ霜月廿二日ノ夜子ノ」刻ニ俄ニ大地震シテ
無止時」山ハ崩レテ谷ヲ埋大地裂ケ」水涌出ル石壁崩レ
家倒ル」坤軸折レテ世界金輪在ヘ」堕入カト怪ムカヽル時
津浪入」事アリトテ早ク逃去者ハ助ル」津浪入トキハ井ノ
水ヒルヨシ申」伝ルニヨリ井戸ヲ見レハ水常ノ」如クアリ
海辺ハ潮大ニ旱ルサテ」丑ノ刻ハカリニ大山ノ如クナル
潮」上総九十九里ノ浜ニ打カクル海ギワ」ヨリ岡江一里計
打カケ潮流ユク」事ハ一里半ハカリ数千軒ノ家」壊流数万
人ノ僧俗男女」牛馬雞犬マテ尽ク流溺死ス」或ハ木竹ニ取
付助ル者モ冷コヾヘ」死ス某モ流レテ五位村(現白子町五井)十三人塚ノ」
杉ノ木ニ取付既ニ冷テ死ス夜明テ」情アル者共藁火ヲ焼テ
暖ルニヨツテ」イキイツル希有ニシテ命[計免|マヌカレ]タリ」家財皆
流失ス明石原上人塚ノ(現白子町五井高の上人塚カ?)」上ニテ多ノ人助ル遠クニゲント
テ」市場(現白子町市場)ノ橋五位(現白子町五井)の印塔ニテ死スル者」多シ某ハソレヨリ
向原(現白子町向原)与次右衛門」所ニユキ一両日居テ又市場(前出)善左」衛門所
ニ十日ハカリ居テ観音堂(現白子町観音堂)」長右衛門所二十日ハカリ居テ同
所」新兵衛所ノ長屋ヲカリ同年」極月十四日ニ遷テ同酉ノ
夏迄住ス」酉ノ六月十三日古所村(現白子町古所)九兵衛所ニ」草庵ヲ結ヒ
居住ス妻ハ観音堂(前出)」ニテ約諾シテ同十七日引取ル同年」九
月十七日女子出生スサテ又」津浪入テヨリ日々ニ大地ウコ
イテ」ヤマズ一日ニ五度三度ユル事ハ酉ノ」年(一七〇五)マデ不止其
砌二ヶ月三ヶ月」ノ間ハ津波又来トテ迯去事」度々ナリキ
未ノ年ヨリ廿七」年以前延宝四己巳年(延宝五年(一六七七)カ)(丙辰カ)十月十日」ノ夜戌ノ
刻津波入前ニ大成地震」一ツユル此時波六丁計打入十丁」
ハカリ流渡ル由謂伝ル其前巳ノ」年ヨリ五十一年(安永三年)以前巳ノ
年ノ」如ク入ル由語リ伝ル今度未ノ」年入タル如クナル事
開闢ヨリ」以来此浜ニ不云伝南ハ一ノ宮(現一宮町一宮)」ヨリ南サホド
強カラズ北ハ片貝(現九十九里町片貝)」ヨリ北強カラズ後来ノ人大成ル」地震
カヘシテユル時必大津浪」ト心得テ捨家財ヲ早ク岡江
迯」去ベシ近辺ナリトモ高キ所ハ助ル」古所村印塔ノ大ナ
ル塚ノ上ニテ助ル」椿台ト云者アリ家ノ上ニ登ル者多家」潰レテモ
助ル如此ヨク々可得」心
同戌ノ霜月惣左衛門地ヲ借リ」十三日(ママ)移従ス」同年(宝永四年・一七〇七)号亥ノ
十月四日暖ナル事五月ノ如シ」天晴雲一点モナシ風不吹シ
テ」鬢ノ毛モウゴカズ午ノ下刻ニ」地震大ニユル三年コノ
カタニ不覚」ツヨクユル堀ノ水溢ル未ノ中刻俄ニ」浪高ク
ナリ二三十間打掛引カヘシ」四度打掛ケ次第ニツヨク打カ
ケ二丁」計打上ケナイヤノ上マデ浪来ル」此日鰯大ニヨリ
引アグル数百人ノ」者共鰯ニカヽリアヒアヤウキメニ」逢
者数多アリ作田松ガエノ川(片貝町作田川カ?)」ニテ十四人死スル者アリ此時
モ二三日」ノ間地シン度々ニユル皆人夜ニ岡エニゲ」上ル
同年霜月廿三日午ノ刻雷鳴空」ノケシキ焼ホコリフスボル
如クシテ砂石」降ル俄ニ闇ト成人ノ面ミヘズ」初ハカル石
ノクダケタルモノ降後ハ黒キ砂」フル皆人前後ヲ忘却シテ
動転スル斗也」申ノ刻雪降リ天晴皆人安諸ノ思」ヲナス又
夜ニ入黒砂降極深闇」ト成昼ナレバ則[闇|クラ]ヤミ也此砂石」フ
ル事同十二月八日迄也」富士山ニ大成穴出大地ノ底ヨリ火
出」山土焼飛来也此後風ヲ引煩事」無限一人も風引ぬ者ハ
ナシ」
同子ノ年九月四日男子誕生ス」此日天気好未ノ刻大成震動
ス」入日赤キ事半天ニ過テ朱ノ色」ノ如シ人皆怪ム夜大雨
降リ」水出ル
〈注〉
(1)[売津|うるず]村(現富津市売津区)の村域は湊川下流の
冲積平野と第三系山地を占める。文中の未地震(元禄地
震)による河岸崩壊はおそらく湊川河岸で生じたと思わ
れるが、言い伝え等はなく場所は不明である。
なおこの文書は前・後葉を欠き年代は文中からは確か
められないが、最近まで後葉が存在していたらしく、裏
に朱筆で宝永二年の年貢割付状である旨が注記してあ
る。
(2) 〔富津市の史料・補足〕富津市域では、現在の
所史料1以外は元禄地震・津波に関する言い伝えや文書
は見つかっていない。
地震前の絵図としては、寛文四年(一六六四)の「安
房国元名村・保田村と上総国金谷村境論の事・絵図」が
富津市金谷、鈴木志朗氏宅に保管されている。
(3) 市井原村(現鋸南町市井原)は保田川上流の山
村で、水田は狭小な谷底平野ないしは地辷地形上に立地
する。文中の下田の項、「弐畝拾八歩 地震川欠山崩酉
(一七〇五)より永引」とあるが、他に「川欠酉より永
引」等の水田も散見するので、地震による被害水田は一
七〇四年に年貢免除(永引)が行なわれず、一七〇五年
に、同年の水害被害水田と合わせて年貢免除が行なわれ
た可能性もあり、弐畝拾八歩の水田がすべて元禄地震に
よる被害を受けた水田とはいいきれない。なお、被害を
受けた水田の所在は未調査のため不詳である。
(4) 元名村(現鋸南町元名区)の地震翌年の年貢割
付状である。村の耕地は鋸山南斜面の山地及び段丘を刻
む開拓谷谷底の谷津田と、山地緩斜面、段丘上の畑とか
らなる。
崩壊による被害は、下田六畝十九歩が山崩で畑とな
り、山畑九畝十歩が失なわれた。この崩壊位置は確認で
きなかった。
また、「付荒風損津浪荒当引」とされた、水田が合
計、五町六反二畝二十歩あり、山畑六反三畝二十一歩が
「地震当不作(つくらず)」とされている。
(5) 元名村と隣村本郷村(現鋸南町保田)との前海
支配をめぐる紛争の際に出された文書で、館山から千倉
にかけての沿岸各村々への本郷村の問合わせに対する各
村の回答が述べられている。
初めにでてくる、犬石、大神宮、藤原、佐野の各村
は、館山市平砂浦東部にある(図8参照)。犬石村、大
神宮村の項に述べられている「川湊」は現在の巴川下流
にあった港で、当時宮前橋まで舟が出入したという文書
(平砂浦砂防史(図8参照))が残っている。なお広大
な干潟(砂地の浜と解すべきであろう)が生じたことが
書かれているが、この旧汀線は今村明恒(一九二五)が
相浜の古図より指摘した旧汀線の続きで、房総フラワー
ラインの東方に並行して位置するが、現在は元禄期以後
の砂丘に埋積されて地形としては残っていない(注27・
図8参照)。後段の瀬戸村以下の各村は外房の千倉町北
部より鴨川市にいたる沿岸の村であるが、人間生活に大
きく影響するような大規模な隆起現象は認められなかっ
たようである(注21参照)。
(6) 元名村の海岸一帯で近年海食が進行し、田畑が
減少したので、支配所から検分に来てほしいという願書
である。文中で、那古村より七浦あたりまでの房州南部
の沿岸の隆起と、本(元)名村并近村の鋸南町の沿岸の
沈降との地形変化が対比されている。原因は述べられて
いないがこの両地域の他の文書、言い伝え等からみてこ
れらの現象が元禄地震によって生じたことは確実であ
る。この文書では①当時の人々が地震による海岸線の
大幅な後退を認めたのは七浦(七倉町)から那古までで
あること(注35参照)、②「変レ地土地下り」と明瞭に述
べているように鋸南町沿岸では沈降したことが注目され
る。
但し、「どの地域が沈降した」と具体的に述べている
のは今の所この文書のみで、以下6・7で示す文書、及
び、注10に示した文書や言い伝えは厳密には「元禄津波
以後年々海食によって海岸線が前進した」と解釈すべき
であろう。しかし、元禄地震を期に海食が始まったこと
及び文書のごとく津波で流れた土地が復旧されなかった
ことからみて、地震の際沈降現象のあったことは確実と
思われる。
なお、史料42の元禄地震の項に、「房州海辺は海陸に
成り候所 又有之おか地海に成り候所、普多(ふた)所出来申候」
とあり、隆起地域と沈降地域があったと述べている。史
料42の筆者は、元禄地震の体験者であり、この史料も当
時の体験を書いたものであるだけに、信頼性が高いとい
える。
以上より松田・太田ら(一九七四年)の示した元禄段
丘・元禄汀線の高度分布については一部再検討の必要が
あろう。
*松田時彦、太田陽子、安藤雅孝、米倉伸之(一九七
四)元禄関東地震(一七〇三年)の地学的研究、関
東地方の地震と地殻運動、ラティス、p.175~191
(7B) この文書は現在の鋸南町各所に散在していた
妙本寺寺領の名主の家に伝わる、寺領の明細である。文
中の地名につけた註は鋸南町史記載の小字名及び写真
1・2に記された小字名で文中の地名に該当すると思わ
れるものを記した。文書は「寛延二年(一七四九)改」
とあるが、文中に明和七年(一七七〇)、寛政三年(一
七九一)の注記があることから一七九一年以降に一部加
筆した写本であろう。この写本成立時期は不明である。
写真1・2の範囲に含まれる小字は、仏崎、苗代町、
大門松下で、この各小字はすべて妙本寺の寺領であった
と推定される(妙本寺所蔵の注7AのB図による)の
で、この文書の示す[海欠|うみかけ]による耕地の減少面積は、実際
の耕地減少面積に当ると仮定する。
この三字の耕地減少は、①「元禄未(一七〇三)津波
ニ不残海欠」の分、一反一畝十六歩、②「元禄未(一七
〇三)ノ津波より寛延巳(一七四九)迄不残海欠」の
分、七畝五歩、③「寛政三亥年(一七九一)海欠」の
分、五畝十七歩、④「浪欠(時期不明)」の分、一畝十
九歩、であり、①が元禄地震時の津波による(おそらく
は沈下の影響も含む)耕地減少で、減少分の半数を占め
②③④はその後の海食によるものである。字ごとに見る
と、仏崎は地積の四畝二十四歩の全てが元禄津波で海
欠、苗代町は地積二反二畝十歩の内元禄津波で五畝十歩
が海欠し、後の海食で一反三畝十一歩が海欠し、残った
耕地は三畝十九歩であった。
写真1・写真2の海岸線変化は、仏崎と苗代町の変化
を示しているのであるから、写真1・2の年代を推定す
るために、1・2間の水田の減少面積を概算し、文書の
水田海欠面積と比較した(対象となる水田は写真1の
「寺領田」と注記される部分で、岬の北方のものが仏崎
の地積、岬と道路の南側が苗代町の地積と推定される。
測定の基準尺度としては、「字大門松ノ下」という注記
の南北の道路が現存しているので、道路間の間隔の概測
値、約55mを利用した)。
比較結果(表1)をみると、写真1・2間の水田減少
面積約三反は、①の元禄津波による減少面積の3倍、③
の寛政三年より前の減少面積累計の2倍弱であり、④又
は⑥の寛政三年以降の減少面積累計に近い。一般に文書
の示す面積の数値は繩延びのため実際の面積よりも小さ
く出るし、畔道等の面積も加味されるが、それでも①・
③の値は小さすぎ、④又は⑥の時期の面積に当るとして
不合理ではない。なお傍証として写真1に仏崎にも水田
があることが示されている(面積は約300㎡で、文書の示
す面積四畝二十四歩より小さい)。以上より写真1は元
禄(一七〇三)地震前、写真2は文書7の作成時期との
前後関係は確定できないが寛政三(一七九一)年以後の
状態を示している図であろう。
表1 仏崎、苗代町の時期別の水田減少面積
区別
期間ごとの減少面積
元禄津波以前よりの累計
①元禄地震(一七〇三)による減少面積
一反〇畝四歩
一反〇畝四歩
②寛延二年(一七四九)までの減少面積
七畝五歩
一反七畝九歩
③寛延二年(三四九)~寛政三年(三九一)の海欠直前までの減少面積
〇
一反七畝九歩
④寛政三年(一七九一)の海欠による減少面積
五畝一七歩
二反二畝二六歩
⑤時期不明の海欠
一畝一九歩
二反四畝三歩
⑥一七九一年より文書作成時までの減少面積
〇
二反四畝三歩}
文書七による
⑦写真一・二の比較による水田減少面積
約三、〇〇〇㎡(三反)
写真一・二より計測
なお瀬戸口(現鋸南町中佐久間瀬戸口、図1参照)で
は水田合計一反一畝六歩が川欠によって失なわれたが、
おそらく佐久間川の河岸に生じた崩壊と思われる。未調
査のため崩壊場所は不明である。
(8) 慰霊碑は大正十二年建立のもので、碑の前に碑
文中に記された風化して形の崩れた地蔵尊が一体ある。
墓碑の一人は元禄津波で死亡した保田村の浜名主の墓と
いう。別願院(図1参照)は、浮世絵師菱川師宣の墓所
図1 鋸南町沿岸
1 別願院 2 神明社 3 妙本寺 4 仏崎 5 瀬戸口
6 酒屋又右衛門住宅跡 7 天王 塚 8 法福寺 9 大智
庵 10 浄蓮寺 1 1 妙典寺 12 万灯塚旧跡 13 貴布禰神社
としても知られているが、寺堂及び師宣の墓も津波で流
失したと伝える。なお別願院には師宣が元禄七年寄進し
た鐘が戦前まで残っていた。鋸南町史によれば、元禄津
波前は堂はもっと西方にあり、地蔵堂・鐘楼があったと
いわれる。
(9) 千葉県史料近世篇 安房国(上)、p.74~75
「勝山村又右衛門言上書」より引用。
勝山村(鋸南町勝山)の酒商又右衛門家が津波で流失
した事を示す。又右衛門家の位置は図1参照。
(10) 〔鋸南町の史料・補足〕鋸南町の被害は鋸南町
史に詳しい。被害を抜粋すると以下の通りである(本書
に採録したものを除く)。
①津波による死者、保田浦のみで三一九人と伝え別願
院(図1参照)に葬り、吉浜浦では万灯塚(図1参照)、
勝山浦では千人塚(天王塚図1参照あったという)に葬
る。
②土地流失、大帷子通称「ノメラのハナ」を中心とし
て吉浜・大帷子・本郷(保田)各村を通じ宅地を含めて
約三町歩余の芝地畑地が流失、元名根本海岸では一町余
の耕地が欠壊流失。勝山では浮島の岩角崩壊、陥没あ
り。
③神社の移転、勝山村加知山神社(天王塚(図1参
照)にあった)は元禄の大津波以後潮が近くなり移転。
④津波で流失したと伝えられる寺社(図1参照)
保田附近、神明社(吉浜三三七番地)、別願院
勝山附近、妙典寺(勝山三一六番地)浄蓮寺(勝山
三一五)大智庵(勝山四〇七)正宗寺
(廃寺)(稲松別館東の船引場)観音堂
法福寺(勝山四〇九)
我々の聞き取りによれば⒜、妙本寺地先の海底、保田
地先の海底には墓石が多数沈んでいるといわれ、また神
明社(図1参照)には、地先の海底に沈んでいたのを引
き揚げた(引き揚げた人存命)石の鳥居があるという。
保田の海岸に最近海底から波に打ち上げられたという墓
石が一基あったが、年代は明和年間(元禄地震後)のも
のであった。
⒝図1の13、[貴布弥|きぶね]神社の下の保田川に昔、大津波で
船が三隻流されてきて引掛ったという。鋸南町史にも、
同様の伝承が採録され、「船が流されてきたので木船と
いう」とある。神社の縁起伝承(貴布弥↓木船)が混っ
ているため事実かどうかは疑問である。
(11) 千葉県史料近世篇 安房国(上)、p.143~148
より引用。原本は焼失。
文中傍線の地名等は図2を参照されたい。
元禄津波の体験記である。この文書および他の伝承を
基に羽鳥(一九七五)が浸水分布図を描いている。羽鳥
の採録した伝承以外では、図の13(小柴氏宅)で、川を
さかのぼってきた津波によって牛馬と子供二名が水死し
たと伝える。
なお、羽鳥の採録した伝承の内、地点11近くにある石
塚(津波で浜から打上げられた石を集めたと言われるも
図2 富山町沿岸
1 長井(永井)家,2 又兵衛家,3 牛頭天王(岩井神社),
4 薬師堂,5 みミやう堂……今はない,6 円生寺,7 清水
8 寺山 9 光泉寺……今はない 10 寿楽寺 11 名主弥兵衛殿
宅(現吉野家),12 谷口小丹が屋敷倉下,13 小柴氏宅
A 附近:浜台
の)は、基盤の風化した露頭のもようである。
この文書中の地名や人家跡を調査したが、その結果よ
り見ると、津波は二波に分れて侵入し、一つは地点7と
12附近を通りAで示す浜台といわれる砂堆の東方で、岩
井川沿いに侵入してきたもう一つの津波と合流して地点
3へ向かったようである。この際、Aの砂堆は浸水を免
れたようである。
(12) 〔富山町の史料・補足〕富山町では現在の所、
史料10以外の資料は見つかっていない。津波についての
言い伝えは平野北部の久枝区にも伝えられていたようだ
が採録できなかった。宝永年中の多数の久枝区有文書に
は年貢割付等にも津波被害の例はないようで羽鳥(一九
七五)の描いた浸水域から予想されるような被害記録は
今の所見つかっていない。なお元禄地震直後の裁許絵図
(宝永七年)が富山町高崎の吉野久代氏宅に現存してい
る。この絵図からみると岩井平野の海岸では鋸南町沿
岸、館山平野のような大規模な海岸侵食や海退現象は生
じなかった可能性が強い。
図3 富浦町
●常光寺
(13) この棟札は常光寺(図3参照)境内の薬師堂に
在ったもので、裏面の②の如く、寺の境内にあった建造
後三十年余の薬師堂が地震により半壊したので、中尾
川、大般寺(現在は大半津と書く)両村が裏面⑥の童女
たちによる、歌念仏を興行し再建した事を示す。地震前
の薬師堂の規模・位置は伝わらないが、現在の薬師堂は
二間四方の建物であることから、ほぼそれに匹敵する規
図4 館山平野北部
1 大福寺(崖の観音),2 西之坊跡,3 恵日坊跡,―元禄汀線
4 八幡神社・八幡区,5 古川新田,6 浜新田,7 川井新田
模の建物であったと思われる。なお寺域の地盤は沼段丘
面(海成)と山地との境界部にあたり、海成冲積層はな
く、波蝕台又は山地斜面をなす第三系の基盤上に砕屑物
を薄く乗せているらしい。
(14) 〔富浦町の史料・補足〕富浦町では、史料11の
外は、史料、言い伝えとも調査不十分のため発見できな
かった。 (15) 言い伝えによると、津波来襲当時、船形浦の海
上で船に仮泊していて難にあった漁船乗組員の供養塔と
言う(位置図4参照)。
(16) 那古寺(館山市那古)の在る山麓近傍に散在し
ていた、那古寺の脇寺の被害である。
八箇坊の内、地震当時は六坊が存在し、承禅院をのぞ
いていずれも倒壊した。内、恵日坊、西之坊は再建され
最近まで続いていたが、他の四坊は廃寺となったようで
ある。恵日坊、西之坊はいずれも那古寺の脚下の海成波
食台をなす冲積段丘面上の砂堆列上にある。他の坊の所
在位置は不明である(図4参照)。
なお那古寺の堂宇は元禄地震の際全壊したとされる
(館山市史による)。
(17) 鶴ケ谷八幡神社、(図4参照)の社殿及び神官
等の家屋の被害状況である。鶴ケ谷八幡神社は元禄汀線
に沿って分布する砂堆上に立地するが、砂堆はかなり厚
い海成の泥層上に乗っているものと考えられる。
なお、社殿は享保四年(一七一九)再建された(館山
市史による)。前記の13とあわせて、当時の汀線真近に
あった堂社の被害である。
(18) 元禄地震の翌年、宝永元年(一七〇四)に、隆
起した古川の入江跡を開拓造成して作られた古河新田
(図4参照)の存在を示す資料である。
元禄地震により隆起した旧干潟(元禄段丘)の開拓が
最も早く行なわれた例であり、逆に、元禄段丘とされて
いる地形の陸化時期を間接的に示す資料でもある。な
お、文中には『宝永年中開発』とあるが、今回省略した
宝永元年の文書により開発時期は確定されている。
(19) 湊村と八幡村(現館山市湊区、八幡区、図4参
照)との間の排水路に関する係争文書の一つである。こ
の排水路は、文頭にある如く、八幡村の百姓領、および
八幡神社領の水田が地震による地表の変形で排水不良に
なったため、元禄地震の翌年(宝永元年)に作られ、そ
の時の両村の文書も残っている(湊区有文書、一号、
「相渡申一札之事」宝永元年)。
八幡村領は館山平野の沿岸部ほぼ中央にあり、厚い冲
積層上の砂堆および堤間低地上に立地していた。大正地
震の際も地割れ、地表の微少な隆起沈降等の地表変形が
みられたが、元禄地震に際してもそのような変形が発生
したのであろう。
この変形については、未調査のためその規模や位置等
については未詳である。
(20) 平久里川をはさんで、南側の湊村・高井村と北
側の正木村(現館山市湊区、高井区、正木区)との村境
争いの文書である。この文書は訴えられた正木村側の反
論書を原告側の湊村が写したものであろう。湊、高井両
村の訴状も残っている。……(湊区有文書、「乍恐以書
付御訴訟奉申上候」明和五年)。
村境争いの対象となった土地は、図4に?を附した現
在の平久里川河口部で、文中にある如く「往古入江にて
……湊に御座候所……元禄年中大地震右場所潮退き候後
川原ニ罷成、当時砂間、芝間にて……後略」という状態
になったものである。
この陸化して廃港となった港は、景行天皇の渡ったと
いう「[淡水門|あわのみなと]」、また平久里川中流の府中にあった安房
国府の国府津と想定されている港(千田稔(一九七四)
埋れた港、p.94~97学生社による)に当るものであ
る。
現在の平久里川河口部は明治以降の人工的改変が大き
く、古絵図等(史料21)からも「元禄地震前の入江」を
地形のみから復元することは難かしい。
(21) 北条村(汐入川の北岸にあり、館山の市街地を
なす、渚、南町、六軒町、三軒町、神明町、鶴ケ谷等を
含む)に所領を持っていた円蔵院(千倉町所在)が、北
条村の所領の所では、干潟が隆起して田地になったた
め、干潟を利用して塩上げにより作成していた塩がとれ
なくなったので、塩年貢を田畑年貢に変更した際の文書
である。
汐入川沿岸では盛んに製塩が行なわれ、「塩場」「新塩
場等」の地名が元禄汀線附近に残っている(図6参照)。
(22)嶋田駿司(一九七三)房州館山と漁村新井浦
106p.(限定版)より引用。千葉県史料、近世篇安房国
(上)にも採録されている。
新井浦(現館山市館山、新井区)の被害報告書であ
る。嶋田(前掲)によれば、元禄十四年の新井浦居屋敷
数は八四軒程度であるとのことで、内三十二軒が全半潰
したことになる。
当時の人家は元禄汀線近くの砂堆上に立地していた
と思われるが、当該地域の冲積層厚の分布図を田崎稔
(一九七二)が作成しておりそれによると、層厚は場所
により変化が大きいが、新井浦附近に深度の大きな埋没
谷が認められる。
*田崎 稔(一九七二)館山湾沿岸冲積層について、房
総地理、一九七二、P四七~五六
(23) 嶋田駿司(一九七三)房州館山と漁村新井浦、
106p.(限定版)に掲載されている。
新井浦名主が津波により難波した船の船頭に対して、
発行した書状の控えである。
津波来襲後、早速救助活動を行い得たこと、ならびに
図5 館山平野南部
1 六軒町のサイカチの木,2 金台寺,3 三福寺,
4 国司神社,―元禄汀線 A 新井浦 B 小原新田
C 北下台 大正地震後の海面埋立地
史料19においても津波による家屋被害がなかったらしい
こと等より、新井浦附近では津波は陸上にほとんど侵入
しなかったのではないかと思われる(注27参照)。
(25) 千葉県史料近世篇 安房国(上)p.384~394
より引用。
北下台(図5・6参照)の下に地震後できた干潟に関
する訴訟の覚え書である。
文中の小字名については、未調査のため不詳。
(26) ⒜ 畑村(現館山市畑区図7参照)における多
数の激しい崩壊の被害報告書である。畑区は、長尾川の
上流の山村で、集落、水田は長尾川沿いの侵食岩石段丘
面や崖錐上に立地する。
詳細な報告なので、小字名、伝承を精査すれば、被害
の復元が可能と思われるが、未踏査のため不詳である。
⒝ 地震尊の位置は図7参照。碑文によると地蔵畑に
は木像の本尊が祭られた岩屋があったが、地震により岩
屋が崩れたので、木像を自性院に移し、かわりに現在の
石地蔵を建てたと解される。
なお、館山市史によれば、自性院という寺は、かつて
地蔵畑にあり一四二四年堂宇建立と伝えるが、元禄地震
の際倒壊したので、館山市神余四、六一二番地へ移転し
たと云う。
自性院旧跡(図7参照)の位置は伝承されている位置
では第三系の山稜線直下の山地斜面だったようである。
(27) 〔館山市の史料・補足〕 史料12~25および注15
~26に記した以外の史料・伝承は次の通り。
⒜ 津波について、
●金台寺の津波供養塔
金台寺(館山市北条一、〇四二)(図5参照)に津波供
養碑と伝える石塔がある。碑文年代は寛文二年(一六六
二年)。津波の供養塔とする証拠は斉藤夏之助著「安房
志」に採録された伝承によるのみで、津波供養塔である
かどうかは不明である(館山市史p.792~793参照)。
●三福寺(図5参照、史料19参照)にて仏像三体流
失、堂宇流失。明治期の由緒書による。
●館山市北条六軒町のサイカチの木に数人の人が登り
かけ難をさけた(位置図5参照)という。
以上の二つの伝承は、三福寺の方は史料19には流失の
記録がなく後の伝承の誤りである可能性が強く、またサ
イカチの木の方は、関東大震災のさい、津波が来るといっ
て登った人があることからの伝承の変形の可能性が強い。
史料13、14、19等から建造物被害の内、流失がなく、
またその建造物の位置から津波の陸地への浸入は小規模
であったろうと考えられる。
以上の二つの伝承を用いた羽鳥(一九七六)の館山に於
ける津波浸水域、津波の波高は過大であろうと思われる。
*羽鳥徳太郎(一九七六)南房総における元禄16年(一
七〇三年)津波の供養碑、地震研彙報51巻2号、p.
63~81
⒝ 隆起について
●旧根岸(八幡村名主)家文書(所有者、市川市、加
島安太郎氏)の要約が館山市史p.295にある。
「(元禄十六年の)地震の結果……中略……八幡村
(注、図8参照)では、東西二十六間、南北五十三間、
総坪数千三百七十八坪という干潟地ができる有様であっ
た。この土地は、悪地であったため屋敷地などに使われ
た。」
この要約によると干潟地(陸地)の増加分が東西二十
六間と非常に小さくなる。この要約のもとの古文書を大
分探したが、残念なことに破損して失なわれてしまって
いるらしく発見できなかった。他の史料よりみて、この
要約の数値には疑問が強い。
図8 平砂浦
―元禄汀線 同(推定)
明治16年の砂丘分布地域
1 蓮寿院,2 宮前橋,3 弁天社,4 注27参照
(28) 引用、千葉県史料近世篇 安房国(下)p.388
~390による。
地震により千田(千倉町千倉)、平磯(千倉町平磯)
両村地先の海岸が隆起し、広く陸化したため両村の海
境を再確認した証文である。文中の分木(杭)、黒嶋
([豊嶋|としま]か)、波打際に大穴のある湊沖ノ嶋等について
は、その所在地点を調査したが確認できなかった。但し
「[渡嶋|としま]」という岩礁は現在の千田・平磯の海境にあり、
文中の豊嶋は現在の渡嶋であろう。
(29) 〔千倉町の史料・補足〕千倉町沿岸では、松
田、太田ら(一九七四)の元禄汀線について歴史史料か
ら検討すると元禄地震前の絵図が未発見であり、歴史史
料からだけでは元禄汀線の位置は厳密には決定できな
い。しかし元禄地震の隆起に伴なうと思われる船着場の
変化や、集落の形成等の言い伝え資料があり、千倉町川
口地区では松田・太田らの元禄段丘上に新畑の開発が行
なわれている等の傍証は多い。なお大日本地震史料には
慶長六年の地震により「三十町余干潟となる」(房総治
乱記)という記事があるが、隆起の存在を示す歴史資料
はみつからなかった。その他、津波、崩壊等による被害
の記録、伝承は発見できなかった。
(30) この文書は丸山町行繩寛家に伝わっていたもの
であるが、原文書は最近焼失して存在しない。しかし明
治末~大正初期に書かれた著者不明の「豊田村誌」(豊田
村は現丸山町の一部)が同家に保存されており、その文
中二二二頁に引用されていたものである。豊田村誌の当該部
分は以下の通りである。
「▲元禄ノ地震 元禄十六年ノ地震ハ意外ノ災厄ニシ
テ沓見村三給ノ一タル上組ノミニテモ其損害ノ少ナカラ
ザルコト次ノ如シ 全村ノ損害推シテ知ルベキノミ今
本村沓見行繩鎌太郎所蔵ノ古文書原文ノ儘ヲ左ニ掲グ、
―以下前掲文書―、案ズルニ六嶋岡山ノ両人ハ領主
能勢日向守内ノ人ニシテ災害後二十日ニ江戸ヨリ出張シ
タルナルベシ 書中薪五六束帰リ由候ノ帰リハ覆ヘリノ
意ナラン、」
沓見村は丸山川右岸の冲積平野と第三系の丘陵とより
なる内陸の村である。集落は厚い冲積層上に立地し、関
東大地震の際も大被害を受けた。
文中の堂社の内、「大神宮」は沓見莫越山神社、「弥陀
堂」は真勝寺、「観音堂」は円鏡寺、「虚空蔵堂」は慈眼
寺ではないかと思われる。「浜方ニ置候薪……」は津波
による被害を示すと思われる。
(31) 隆起海岸段丘上に立地する[白渚|しらすか]部落の背後の海
食崖起源の急斜面二ケ所に発生した崩壊の記録である。
位置図9参照「峯台」の崩壊位置は未確認であるが、史
料に述べられている西白須賀村の崩壊(山の名は不二山
になっている)と、被害者が同じなので、同一の崩壊を
示しているのであろう。
(32)
●東堂(図9参照)の堂前にある供養碑で、8名の死
亡者を記す。この碑に向い合って、史料の8名を含む
37名の供養碑(天保十五年建立。羽鳥(一九七六)に
図9和田町
1 浅間社句碑,2 東堂,3 安遊堂,4 威徳院
「津波碑」と記されている)がある。これは碑文に「元
禄十六未年より」とあるので、元禄十六年以降天保十五
年までの死亡者の供養碑ですべてが津波による死者では
ない。なお、真浦威徳院の過去帳(元禄後のもの)の余
白にも、この8名の死者の戒名が書かれていた。
●安遊堂(図9参照)にある供養碑である。史料的価
値は乏しいと思うが参考のため採録した。
(33) 威徳院の位置は図9参照。この史料を用いた津
波の波高復元については羽鳥(一九七六)を参照された
い。
(34) 威徳院附近の村(真浦村か)、の津波による死
者八十余人、史料28にも記されている崩壊による死者二
十八名と述べている石碑である。
(35) 〔丸山町・和田町の史料、補足〕 丸山町・和田
町の被害については調査不十分であるが多くの資料が眠
っていると思われる。土地の隆起については、5の文書
に丸山川河口の海発等について述べられている。松田、
太田ら(一九七四)は、海発付近で元禄汀線を5.38mと
見積り最大級の隆起量を与えているが、そのような大き
な隆起があった場合5の文書の性格上、当然記載さるべ
きであるが、文書5には大規模な汀線後退に関連する事
象は記載されていない。また新田開発等の隆起に伴う言
い伝え等も確認できなかった。大日本地震史料にも「千
倉ト申ス浦辺より、平郡安房郡浦方……(月見堂聞集)」
と大きな隆起地域の分布を限定し、丸山川下流より北部
での隆起の有無に触れていない。以上より、松田らの元
禄汀線高度の値は、当該地域については歴史資料からは
過大の可能性もある。
津波被害については、採録した史料の他に矢部鴨北著
「千葉県郷土志」p.58によれば「和田町竜ケ崎の岬上
に京塚碑あり。明治廿九年道路工事の際人骨累々其数を
知らず慶長元禄の震災に圧死若しくは溺死者を一部人が
埋葬せるもの当時此和田村民全滅のさま判然たるものあ
りおもふに此都人といふは此地取引の漁商なるべく現在
の石碑は工事発見の際改めて建立せしもの其当時の惨禍
思うべきである……」とある。この石碑については未調
査である。
(36) 鴨川市波太の仁右衛門島の島主、平野仁右衛門
の弟、吉兵衛宛の幕府役人の書状である。津波により、
波太、前原(現鴨川市波太浜の一部、前原、図10参照)
の家屋が残らず流失し、特に前原にて仁右衛門、吉兵衛
の子(史料33によれば二名)、仁右衛門の家来等計十名
が死亡し、仁右衛門島(文中の「嶋」)では、住民は島
の高所に避難したが、仁右衛門の家は流失したことがわ
かる。
平野仁右衛門氏によれば、死亡した仁右衛門は当日十
夜講に参加するため前原の親戚の家(図10参照)に行
き、遭難したと云う。また現在の仁右衛門家の家材に
は、津波で破壊した旧宅の材木が使用されているとい
い、旧宅の跡地も残っている。
津波の浸水高度については、羽鳥(一九七六)を参照
のこと。
(37) 仁右衛門島の弁財天(図10参照)に在る墓碑で
史料32に示す、平野家の津波による死者、3名の墓であ
る。平野仁右衛門氏所蔵の過去帳にもこの3名の記載が
ある。
(38) 前原浦の津波被害については、前掲史料32の
図10鴨川市
1 仁右衛門島弁財天, 2 日枝神
社(津波避難丘),3 平野仁右衛門
の親戚の家跡(伝),4 訪諏神社,
5 池の跡
外に、史料41に、「房州前原浦一村にて 家居も千軒余
り家不残打流し 人も千三百人余死亡申候」とある。
(39) 写真5・6ともに元禄地震前の鴨川平野南部の
絵図である。写真5には、加茂川、待崎川河口部、現鴨
川市前原附近の道路、及び池、訪諏神社(図10参照)が
記入されている。
現在それらの所在は現地で確認できるが、旧汀線は不
明瞭で、かつ図の縮尺も正確とはいえないため、元禄地
震前汀線の位置決定はかなり困難のようである。
(40) 〔鴨川市の史料・補足〕 今回採録した資料以外
に、多くの伝承があり、地元の久根崎周太郎氏により採
録されている。久根崎氏の結果を含めて羽鳥(一九七
六)が当地域の津波被害を述べている。
*久根崎周太郎(一九七〇~七五)漁民の移動、鴨川十
二~十七号。鴨川図書館発行。
(41) 元禄地震前の誕生寺、市川村附近の海岸絵図で
ある。
この地域の津波被害については、増訂大日本地震史料
の「安房郡誌」の項に「誕生寺明応七年八月二十三日地
震海嘯のため土地陥没精舎も亦尽く没す。朱印も共に失
ふ。乃ち之を妙の浦の岡に移す。……中略……元禄十六
年十一月二十三日再び海嘯の災害に罹り現地に転ぜり」
とあるが、絵図から誕生寺堂宇は元禄津波前に現在の位
置に在ったことがわかる。故に元禄津波で被害を受けた
(被害の明細は、増訂大日本地震史料「月見堂聞書」の
項にあり)誕生寺寺域はほぼ現在の所在地に一致するも
のと考えられる。津波波高については羽鳥(一九七六)
を参照されたい。
(42) 文中の海岸侵食の記載は、鋸南町所在の資料が
示す、沈降に伴なう海岸侵食現象との類似を思わせる
が、現地未調査のため後考に待ちたい。
岸本鎌吉編(一九一四)安房郡水産沿革史、安房郡水
産組合、293p.より引用。
(43) 引田弘蔵著「私説勝浦史」より引用。