[未校訂] 千葉県誌によると、妙の浦安房郡小湊に在り、鯛魚多く
棲息するを以て又鯛の浦の称あり。往時比の辺皆陸地にて
誕生寺の庭前なりしが、元禄十六年地震海嘯の為に没して
海となる。とある。
安房古事誌によれば、那古寺館山市にあり元禄十六年十
一月二十二日大地震の時堂塔は勿論数多の寺宝悉く地中に
埋没して烏有となる。とある。
千葉県防災気象テキストによれば、隆起陥没の中間にあ
たる長狭町、大山村、峰岡山付近には幅一~二メートルの
亀裂が各所に生じ、震源が近かったため房総沿岸には大津
波が押寄せた。また地震津波の惨状を伝える富山町の記録
によれば、高崎浦周辺では民家は地震のために潰れ、山の
ような津波に流されて野原と化し、直径二十センチほども
ある松の木は根こそぎ引きさらわれ、各所に倒れている溺
死者の手足を犬が食いちぎりくわえて歩いたということで
ある。と記されている。
千葉県史料によると、新井浦(今の富山町)の名主から
代官に出された覚書をみると、あの小村でさえ全壊家屋二
十一軒、半壊家屋一寺十軒、死人四人を数えている。とあ
る。
その他勝浦のこととしては夷隅川上流の地、中倉では
「山崩れで谿を塞ぎ水湛えて淵となる」と房総誌料は記し
ている。
隣り村の御宿(現御宿町)は西方から来襲したとみられ
る津波を遮るべき岬もなく、海に沿った砂原も低く且、広
いので被害は勝浦より大きかったと思われる。この時の溺
死者を埋めたという袴山、通称せんげんやまに後年供養塔
を建てたが、称して千人塚というが、この千人塚という名
は溺死者が多かったか、若しくは溺死漂着の多かったのを
示しているようにおもう(一説にこの塔は慶長の津波の被
害者の供養塔で正保年間に建てられたものともいう)。
上総の国誌稿によれば、「御宿西明寺元禄中海嘯のため
諸堂大破す安永年中之を再興す」とあり、元禄の津波がか
なり奥深くまで被害を与えたことを示しているが、兎に角
御宿では勝浦よりも被害は大きかったといえる。
夷隅海浜大津波(勝浦出張所)によると、現勝浦灯台所
在地(海抜約百尺)は字地名を平目ケ台といえるが、即津
波来襲の時、該地において鮃を拾いしに依り斯く命名せる
ものなり、又勝浦湾の孤島なるヲチャイガ島(海岸より二
丁)は陸続きなりしが、津波のため斯く変りしものなり此
外墨名熊野神社の鳥居付近も元一帯水田なりしが、海波の
ため現時の如く変せり。とある。
NHK教育テレビ昭和五十年一月三十一日放映の教養特
集「元禄地震」によれば、大網白里町の四天木は元禄四年
のときの海岸線は、今の国道のところだったと考えられ、
現在は五百メートル陸地が前進している。また四天木辺の
堀川近くで四十九年土中から茶碗が発見されたが、国立博
物館で鑑定の結果、十七世紀の終り元禄時代のものと判
明、津波で流されたものではないかと思料されている。
九十九里浜大津波(一宮高等小学校)によれば、元禄十
六年十一月二十三日夜(当今の午後九時頃)長生郡一宮川
北岸一松村を中心として、沿岸一帯に一大海嘯悠忽として
襲来し、南は同郡東浪見村(現一宮町)より北は白潟村に
至る二里半の間、西は九十九里浜より十五~六町の所に現
存する一ツ松村(現長生村)の沼に及べる広き部落に一大
惨害を与えたり、死者二千余人、東浪見、一ツ松、一ノ
宮、白潟村には無縁塚、千人塚と称するもの数ヶ所あり。
(以下略)とある。
白子町史によれば、「検地と村」より関係の記事が見出
せる。当時の検地帳の残存はきわめて少なく、後年の写本
が多い。これは本地方が「本田検地水帳備置キ之レアル
ヲ、元禄度大津波ニ遭遇、海岸村々潮押上ゲ住家倒流、非
命ノ死ヲ遂ゲタルモノ数多アルノミナラズ、田圃ノ区域判
明セザルニ因リ当時領主地頭ニ於テ水帳更正下附相成リタ
ル」ト伝ヘ云フ(牛込村二ケ村戸長役場「村誌、地誌」
〈明治十七、十九起〉)とあるによっても知られるごと
く、かかる災害とも深い関連があったであろうことが推測
される。
同町史牛込村(現白子町)よりを見ると、元禄十六年
(一七〇三)十一月二十二日の夜大津波起り村中溺死する
者百三人の経文を貝に記し霊を祀るため埋め享保十一年
(一七二六)建立したが、埋葬の折、貝のために鋤、鍬を
入れることができないありさまという。俚言によれば津波
の精霊といっている。とある。
また同史江戸時代における生活の展開、生活の実態と農
業生産の記事においても、元禄十六年といえばいわゆる元
禄の大津波が十一月中におこった年であり被害は甚大であ
った。この年は単に大地震のみにとどまらず、すでにその
前兆であったのかどうか大旱魃の年であった。と書かれて
いる。いずれにしても異常気象の周期のようなものがあっ
たのではないかと推定される。
大日本地震史料により銚子木国会史の被害状況をみる
と、銚子は津波にて方々損し船付崩れ候につき、村中並に
浦方の者共と普請なす。とある。
千葉県防災気象テキストによれば、銚子では納屋数棟が
倒壊し、家屋一戸が流出したということであるから、津波
の最高は七メートル以上十メートルに達したものと思われ
る。
海上郡誌によれば、銚子浦における津波として、元禄十
六年五月より大旱五穀実らず、十一月房総に大地震し、後
ち津波起り沿岸被害あり。と記されている。
君津郡誌によると、沿岸殊に甚しく人家倒壊し、人畜の
死傷算なく又地形の変動を見る。とある。
千葉県誌によると、松平陸奥守陳屋址、君津郡湊村大字
内浦新町に在り、元禄十六年海嘯のため流失す。とある。
日本震災凶饉によれば、元禄十六年十一月二十二日初夜
電光大いに閃き、八ツ時に至りて声あり、雷の如し、地大
いに震ひて窓戸忽ち挫け、屋舎総て激波を漂ふに似たり。
地裂くること二~三寸乃至五~六尺の所あり。或は砂を吐
き水を噴き火を発し、石垣崩れ屋舎倉庫覆る。此時深川三
十三間堂覆るという。哭泣の声街衝に満つ。既にして倒れ
たる家より火起り、また浜海は大潮起り水溢る。而して小
田原殊に甚だし。為に人畜の死亡するもの殆んど無数な
り。是より地頻りに震ひ、二十四日の夜雨降り二十五日の
暁に至りて漸く止む。然れども十二月に至るまで地屢ば震
ふ。其各所において死亡せし数は、江戸三万七千余人、内
千七百三十九人は二十九日の大火の時、両国にて死せしと
いう。とある。
伊豆海島誌によれば、十一月二十二日地大に震動し、海
水陸地に氾濫し岡田村最も其害を蒙り、廻船漁船十八艘、
男女五十六人、家屋五十八戸皆流没に帰すという。とある。
山武郡緑海村(現成東町)大字松ケ谷区地蔵堂の境内に
千人塚あり、元禄の震災にあい溺死した者を合葬し其の墳
上に高さ一丈許りの石地蔵を安置し、亡者の追福を祈った
のである。上総町村誌によると死者の数詳ならず、蓋名称
に因れる者ならん。としている。
白子町にも元禄津波と九十九里漁業についての記載があ
る。
津波の被害を問題とするとき、九十九里浦の漁業経営は
もとより、致命的な打撃をうけたことが想定できるのであ
るが、もともと九十九里浦の地曳網漁業は、関西漁民の技
術伝播により成立したばかりでなく、その初期の操業には
多分に関西の出稼ぎ漁民が関係していた模様である。大体
関西漁民は近世前期には、この九十九里浜を含めた関東沿
海一帯に出漁し、鰯漁業に当っていた。しかしこのような
関西漁民の関東出漁も、元禄年間には打続く不漁と津波に
より、決定的な打撃をうけたため衰退期に入ったのであ
る。すなわち元禄十六年の大津波をさかいに従来の活動は
跡を断ち、これに代って地元漁民による地曳網漁業が一般
化したとみられるという(荒居英次「近世日本漁村史の研
究」二六八頁)。このような立論の信憑性を確める上から
も今後可能な範囲において、元禄段階における漁業経営の
内容と、津波による被害度合の追求が重要であろう。