[未校訂]霊元天皇寛文五乙巳年(一六六五)十二月二十七日……
大地震。
申の[刻|とき]大地震が起った。おりから大雪で、民家はいうに
およばず、城郭、神社、寺院ほとんと大破、圧死する者
が多かった。
家老小栗五郎左衛門外、侍で圧死する者三十五人、家族
男女百二十人、町人の死傷数を知らずという。おりから
一丈四尺の大雪で「高田此下にあり」という立札を建て
た。翌春幕府は城主松平光長に金五万両を与えて高田住
民を救助した。この被害は高田だけのことではなかっ
た。三和村所山田には、次の貴重な文書が残っている。
所山田
池松繩家文書
寛文五年(一六六五)
極月廿七日大地震、初
春中迄大雪にて御座候
へ共、土下より地震い
割候て雪上まで青土出
惣而、在辺石すへの家
はたをれたり、立家少
々残り、人民皆々雪上
に小屋立てゝ年過申候
此節大ふん(分)に人足当り
人民難儀仕候
十二月廿七日大地震。四月半ま
で大雪でした。土の下から地が震
い、雪の上へ青土が出ました。在
郷の方では石の土台の家は倒れま
した。
立った家は少々残りましたが、
村人は雪の上に小屋を建てて年を
越しました。此頃高田城下へ沢山
の人足を出させられ、村々は難儀
しました。
この地震では各村々で死傷者が多かったこと。地割れで用
水が壊われたこと、家や蔵が二、三尺も動いて潰れたこと
を、記す文書が多い。この地震は昔から越後三大地震の一
つといわれている。