[未校訂]第三項 寛文二年の大地震
寛文二年九月十九日の地震は日向の史上空前の大地震で
あった。前項に掲げた町村沿革にあるごとく、田吉村はも
と福島村と田吉村の二村であったが、この地震で福島村は
海中に陥没してしまったので、その住民が今江に移って現
在の福島町を造ったと伝えられている。すなわち明治二十
一年調査の町村沿革調によれば
「一、福島町
旧延岡藩所属寛文二年九月赤江川南岸即チ北那珂郡田吉
村ノ内字福島ノ住民暴潮ノ侵入ヲ避ケ該町往古ハ太田村
ノ内字今江原ト唱へ一ノ曠原ヲ開墾シ屋処ヲ定メ福島町
ノ名称ヲ付ス」
とある。また郡司分村も、もと東郡司分村と西郡司分村と
に分れていたが、東郡司分村もこの地震で海中に没したと
伝えられている。また「日向地誌」の田吉村の部には赤江
町について、
「赤江町
山内ノ北ニ連ナル東西五十間南北三町三十二間人家七十
四戸○相伝フ此町古ハ今ノ城ケ崎ト比ヒ赤江川ノ南岸ニ
アリシカ寛文二年壬寅ノ大地震ニ[海溢|ツナミ]ノ害ヲ蒙リシヨリ
此地ニ移セリト」
と書いてある。これによれば赤江町も赤江川の南岸にあっ
たがこの時津波の害を受けて移転したという。この寛文二
年には全国的に地震があり幾内から関東、北陸、関西各地
に亘り京都なども被害が多かったが、特に日向の国は激し
かったわけで「宮崎県災異誌」によると、
「寛文二年九月十九日日向南岸沖潰家三、八〇〇、死傷多
し、津浪あり(以上理科年表)子刻地大に震う。日向に
ありて県城廓(延岡)の石垣五間余破損、津浪の為に荒
茫せし田畑五七町余、宮崎下別府の湊に泊せし船舶一〇
隻破損、汐入となりし麦二二〇俵余、米五〇〇俵余、堤
防破損一三ケ所六七〇間、其他道路橋の崩壊して通行な
り難き所また多し。倒家一、 三〇〇余軒、半倒五一〇
軒、死亡五人、佐土原(島津氏居城)城廓の石垣壊れ、
士庶の家破損せしもの一、八〇〇余戸」
とある。また旧幕領の記録「日向国御料発端其外旧記」に
は
「那珂郡之儀高橋右近太夫殿領分有馬左衛門佐殿領地之節
寛文二年寅年地震津波ニテ新別府村、吉村、下別府村ハ
田地海成、福島村ハ田畑皆無所ト相成候由ナリ」
とある。さらに大淀川の北岸においても、町村沿革調の上
野町について、
「上野町 元下別府町
寛文二年九月十九日大地震ノ際水底ト変ゼシヨリ現今ノ
地へ移転シタルモノニテ其以前ノ沿革ハ全ク不分明、尤
往昔ヨリ旧延岡藩所属」
と書いてある。それで上野町も、もとは下別府町と言った
のであった。このことは小戸神社の移転がこれを証明して
いる。「宮崎県史蹟調査」に小戸神社について、
「小戸神社は初め下別府の地に在り、寛文の震災により現
地に移れるものにして、小戸の社名は小門の古伝に在る
ことを伝うるものなり、云々」
とあり、ここに現地とあるのは橘通二丁目のミシロ食料品
店の南附近で、ここに遷座したのを、昭和七年に橘橋の架
替に伴い接続道路拡張のためさらに鶴の島町の現位置に移
転したのであった。このように各地に被害をもたらした
が、中でも大淀川の河口に近い沿岸が最も被害が大きかっ
たわけである。当時吉村の庄屋であった清水氏の系図に
は、ヅンブリ島について、
「一、ヅンブリ島寛文壬寅年大地震津波亡所後元禄五壬申
年御領所相成吉村預被仰付、其後元禄十四辛巳年清水清蔵
代請地願上被仰付候事」
とあり、ヅンブリ島の名はヅンブリ沈んだ島という意味
で、元禄五年に幕領となり吉村の預りとなったことは、町
村沿革調の記事とほぼ一致する。そして元禄十四年に庄屋
の清水清蔵の代に請地を願って許されたとあるが、[請地|うけち]と
は請すなわち一定の年貢を納めて開墾することである。日
向地誌の田吉村の部に、
「ヅンブリ島
姥ケ島ノ南ニアリ東西一町三四十間南北大約同ジ人家四
戸」
とあるが、ヅンブリ島といい姥ケ島といいこの地方が洪水
によってもたらされた土砂の堆積によってできた島であっ
たことを示す地名である。それにしてもこのように一村、
一町がヅンブリと水底に沈むというが如き大地震の被害を
思えば、自然の力の恐ろしさを感ぜざるを得ないのであ
る。