[未校訂] 寛文二年の大地震は京都に震央があつたが、(1)高野川の谷
並に安曇川上流朽木谷に於ても激烈を極めた事情は日本地
震資料並(2)に本邦大地震概説等(3)に詳かである。この大震の際
には若狭三方湖附近に於ても亦烈震を感じ、これ等の諸低
地を連ねる線は近畿地震構造線の研究上注意すべきであつ
て、曾て小川博士によつても重要視されたことがあり、(4)最
近に於ては山崎博士、多田理学士による有益な研究が(5)あ
る。
三方湖は狭き水路によつて水月湖に、水月湖は嵯峨暗渠
によつて[日向湖|ヒルガ]に連つて遂に若狭湾に連続する。又水月湖
は浦見川によつて久々子潟湖に連る。この浦見川は寛文四
年の開鑿にかゝるもので、従前に於ては水月湖の東から気
山川となつて久々子湖に流れたものである。これ等の諸湖
は地質時代(第三紀末?)に於ける土地の沈降によつて生
じたもので、久々子湖も亦沈降地帯に生じた潟湖である。
附近一帯は標式的断層地貌を示し、北は久々子の聚落から
南へ気山、三方、十村の諸村を連ねる南北線を境界とし
て、東に断層崖西に溺没谷を有し、断層崖下には前記の諸
村に於て扇状地、集合扇状地が美しく発達するのである。
この南北線は多田理学士が三方断層と(5)命名されたものであ
つて、これ等の地形は五万分一西津村地形図に明瞭であ
る。京都附近に於ける断層の性質から推察すれば(6)三方断層
の生成は多分第三紀末であつたであらう。
記録(7)にょれば近き歴史時代に於て三方湖は漸次に氾濫
し、万治二年頃には湖畔の耕地を埋没せしめる様になつた
ので、寛文元年八月下旬から浦見川の掘割普請が始つた。
然るに翌二年五月一日大地震が突発し、湖水の出口なる気
山川の水路を失ひ、水月、三方二湖の水位は益々高くな
り、湖畔の鳥浜、田名、伊良積、海山の諸村は移転の止む
なきに至つた。よつて余震瀕々たる中にも五月廿三日より
浦見の掘割は再び着手され、同四年五月に至り百八十間の
水路、浦見川を完成した。これによつて水位が低下し、新
に干潟が生じたから開鑿功労者に之を与へ、家を建てしめ
て開墾させたのであつて[生倉|イクラ]、成出の二村は即ちこれであ
るといふ。更に大震当時の状況を記して『三方郡の内丹生
浦より早瀬迄五、六里斗の間大海磯辺八十間百間、早瀬浦
は沖へ百三十間ひあがる。水尾中山より嵯峨の坂迄は五尺
八寸をゆりあぐる。中にても気山の川口は壱丈二尺ゆりあ
ぐると云ふ』とある、これ等の現象は如何に解釈すべき
か。凡そ三方断層線以東は寛文地震の数年前から漸次に隆
起しつゝあつたが、大地震の際俄に数尺の隆起を生じ、従
つて三方湖水月湖は流出口が高まりしを以て益々水位を高
めたと解することは出来ざるや否や。又断層崖を刻む気山
川扇状地が次第に発達したことによるものではないか。暫
く四近一帯の形貌を観察すればこれ等の疑ひは氷解するで
あらう。
鉄道小浜線によつて新舞鶴から東行すると、二三の小隧
道を縫ふて汽車は若狭高浜に着く。高浜は低き新成の沖積
地に存在し、後方には新らしき海岸断崖が並んでゐる。そ
の東方和田村は巾約一粁のトムボロ上に存在し、大島と連
つてゐる。以東は海岸平野は極めて狭まけれど本郷、加斗
附近には小三角洲、小平野を見、又十米前後の段丘も見え
る。小浜は隆起せるドロンドバレーに発達せる小港であ
る。[蘇洞門|ソトモ]の奇勝は内[外海|トミ]村にあつて、石川理学士の記事
及写真(8)によつて推察すれば過去に於ける断層海岸が、現今
に於ては隆起しつゝあることによつて生じたものらしい。
相州江の島の洞窟とその成因を一にすべき洞門が波蝕面上
遙に高く存在し、波蝕台と思はれる形が現今の海面よりも
高所に存在する等は隆起を示すものでなからうか。以東の
海岸は極めて屈曲多き険岸であつて、岬角に於て殊に甚し
き断崖をなす。しかるに湾頭には小平野があつてその高さ
十米乃至二十米に及び若し後背地より砂礫の運搬が豊富な
場合には大なる新生地を作つてゐる。彼の三方諸湖の東方
にある耳川下流の扇状地は即ちこの例である。この扇状地
は海岸の砂丘又は砂嘴(材料は耳川の運搬物即ち扇状地を
作るものと同様のもの、及び久々子西方小丘を作る石英斑
岩類)と連続して、往時の海岸に近く存在した小島(例へ
ば郷市の西、久々子の西、水野の北等)を連結したのであ
る。この扇状地の西端は金山附近に於て十米乃至二十米の
段丘をなして久々子湖に面する。久々子湖が完全なる潟湖
とならざる時代に現今の久々子部落附近からの湾入による
海蝕と、水月湖より来る気山川の浸蝕とは扇状地の西端を
截断したのである。この水蝕断崖は気山部落から北微東に
走り久々子部落の東方に至つて砂丘に隠れてしまふ。この
段丘を構成する材料は下部には淡褐色の粘土層があつて数
戸の瓦屋に利用され、上部には大豆大の楕円小礫よりなる
三米許の礫層がある。地表の傾斜の少なき扇状地末端に運
ばれた小礫が波浪のために更に小く円くされたものであ
る。渡辺理学士の報文(9)には崖錐堆積層となつてゐるが、こ
れは山麓の一部に過ぎず、段丘の大部はテーラスではない
様である。この地層の末端附近は殆んど水平層であるが十
米以上隆起してゐる事実より洪積新層としたい。而して耳
川はこの隆起低地の中を浸蝕して両岸に新しき冲積地を形
成しつゝ若狭湾に入るのである。(地質図参照地質図作製
につき村松繁樹君の尽力を感謝す)
以上は若狭海岸に小旅行を試みて観察した処である。
急ぎの旅行であつたから踏査不十分なるは遺憾であるが
(一)若狭高浜附近から三方湖東方に至る若狭一部の海
岸は現今に於て約二十米以内の隆起を認むる処多きこと
(二)三方湖附近は断層地形として興味深きこと(三)万
治寛文年間の三方湖氾濫は気山東方の断層崖を浸蝕し来る
気山川其他の扇状地の発達と地震による崩壊とのために流
出口の埋没原因によることが直接の原因であつて、三方湖
盆の沈降によるものでないらしく、湖盆は寛文地震後も却
つて隆起せしやを思はしめること(四)三方断層地帯は生
動性の地震構造線として重要なるものなること等を確める
ことが出来た。但し、三方湖附近の隆起の程度の大小につ
きては更に研究を要する
文献
(1) 大森房吉、京都及附近の大地震、震災予防調査会報
告第五十七号、明治三十九年
(2) 日本地震資料、震災予防調査会報告第四十六号、明
治三十六年
(3) 大森房吉、本邦大地震概説、震災予防調査会報告第
六十八号(乙)、大正二年
(4) 小川琢治、深発地震の本性(大峯噴出帯)、地球第
一巻第三号、大正十三年
(5) 山崎直方、多田文男、琵琶湖附近の地形と其の地体
構造につきて、東京帝大地震研究所彙報、第二号、一
九二七年
(6) 中村新太郎、京都大阪奈良神戸四近地質説明文、地
球第八巻第一号、昭和二年
(7) 崝南樵夫、三方湖掘割普請並大地震之事、地学雑誌
第四巻第三十七号、明治二十五年(古記録の写)
(8) 石川成章、若狭蘇洞門の奇勝と有用鉱物、地球第六
巻第五号、大正十五年
(9) 渡辺久吉、福井県三方湖地質及湧水調査報文、地質
調査所報告第六十三号、大正六年