[未校訂]本記に入るに先ち湖水堀割の必要を感したる次第を旧記に
由て左に登載し当時土木事業の形勢一斑を示めし進んて彼
著明なる工事奉行行方久兵衛氏か地質学理上唯一の線路に
由て巧みに至難の開鑿を竣成したる卓絶の功蹟を地学上の
見解に由て表彰せんとす
三方湖堀普請企大地震の事
夫三方湖堀普請の事は万治二年つちのとの亥年七月十九日
酒井讃岐守の譲を得て御子息酒井修理の大夫当国に入部す
其節後藤次兵衛御目見へのため京都より小浜に下着す其折
柄此三方湖の事聞及ばるゝによつて当所に至て伊良積村に
て今井仁右衛門に一宿有て湖一見して其翌日に京都に帰ら
るゝ其後三年をへて寛文元年かのとの丑年八月十九日後藤
次兵衛の手代谷口甚右衛門又嵯峨の角の蔵の手代稲野久右
衛門小浜に下着す則此両人の宿あした屋介右衛門同しく弟
二郎兵衛竹原の作右衛門又伊良積の宿今井仁右門従是以上
十余人恨見坂に至て恨見峠の道より東の水湖の方に小屋三
軒立るなり但材木抔は[日向山|ひるが]より切出し茅なとのふきくさ
は海山村よりかり出す普請鍬初は八月廿七日なり此時御公
儀より大奉行は小泉伝左衛門尉殿松本加兵衛尉殿横目奉行
は近藤長兵衛尉殿御代官は嶺尾平左衛門殿鳥見介兵衛殿な
りされは普請の義を谷口甚右衛門又稲野久右衛門此両人に
被仰付御奉行衆各々方は皆々小浜に帰らるゝゆへ両人の衆
□を集めて数百人を以九月廿四日迄海堀普請仕候得共日あ
いはさみしかく天気は次第に時雨のみにて普請難成候まゝ
来年罷下り御普請可仕由にて各々京都に帰らるゝ也扨又久
々子海の事ハ御蔵米廿俵にて久々子村の庄屋気山村の庄屋
両村の庄屋谷口甚右衛門稲野久右衛門此の両人の手前より
請取候て寛文二年みづのへとら正月十一日より久々子のゑ
らのわきを堀切水を通し申此由を京都へも申遣候故両人の
手代衆も申され候は世上も天気合も能なり耕作をも世上に
仕候はゝ五月の中ば六月の始頃には若州に下り海堀普請を
も可仕と内には支度候処に其年の正月中旬頃より日月の二
天色をへんじて赤色になりて照らさせ給ふ事鏡の表に朱を
さしたるか如く也如此日月の二天変し給ふ事すでに四月晦
日に至る此間諸人是を見て皆人申けるは如何様是は唯年に
てはあるましきそ大日でりか大風吹へきなと申処に五月朔
日朝辰の初刻より雨そよと降出て其雨いまたやまさるに巳
の初刻に至て申酉の方より大地夥敷ゆり出て大に震動する
事申の下り酉の初め迄も少もやます大地を打かへす斗にて
親は子をよび子は親にいだきつきておめきさけふこゑ実に
たとへていわんかたそなき阿坊らせつの異国よりせめ来る
とも角は有間敷者をと我と我身の置所無事をのみなけきか
なしむ有様はたゝ北風のあら波に船にて渡船する心ちにて
いきをつくひまがなき如斯なるゆゑに在々所々の神社仏閣
迄みねの瓦の一ツとして地に落すといふ事なしてんか民お
いて(原文のまゝ)過半つふれて人馬多く死す山わ崩てさけ
落て谷のうめ草となり諸木はころひてせきをかりと(原文
のまゝ)なりて人馬往来自由ならさる中にも大地に大にそ
んじたる処は近江国に高島郡は大地をそこへ壱尺ゆりこむ
と云ふ其外大津松本京山しな伏見竹田淀鳥羽はいつれも五
畿内大地震にて有中にも不思儀なりし事は東山豊国大明神
の山は少もゆらさる由諸人申伝へ京中の貴せん男女参詣す
る事数をしらすさて江州かすら川の谷ゑの木と云ふ所の東
に高たけと云ふ山有高さふもとより一里十町斗の山也此山
三尾二谷さけ落てゑの木の在所家数七十四けん一宇も残ら
ずそんじめつす男女四百六十三人牛馬三十六疋ことごとく
土の下になりて死す此土ゑの木の在所の川中にとまるゆへ
にかすら川谷の水一滴も朽木谷川へ落さるゆゑに俄に横十
六町上下一里八丁斗の水海出来して明王の板橋も落てすて
に本堂の石垣に水つくかるか故にかすら川谷へは人間の往
来もなく牛馬の通も無故にかすら川谷中のひようろうのた
すけもならさる由ひゑの山へもれきこへけれはさらハ宝仙
坊を見舞わんとて人数十人大衆かすら川に至て大聖不動明
王の仏智にて天長地久国土安穏万民与楽のらくしやを数日
きせい申けるか其六日に至りける夜の事なりしに宝仙坊の
夢に明王の一のたきのほとりより少きへひの出て水海のお
もてを通りけると見申たるよし山上の大衆にかたられける
はたして其日の夕暮ほとに淀みせきとむるゑの木の在所川
中の土と水のはり切て水過半に落る又若州の事つたへ聞ハ
尚以夥敷と云ふへし殊更小浜御城内天守櫓并柵土蔵に至る
迄棟の瓦のきのくれに至る迄悉く地におちすと云ふ事なし
又三方郡の内丹生浦より早瀬迄五六里斗の間大海磯辺八十
間百間早瀬浦は沖へ百卅間ひあがる水尾の中山より嵯峨の
坂迄は五尺八寸をゆりあくる中にても気山の川口は壱丈二
尺ゆりあくると云ふ其節気山又兵衛取立の者に又三郎と云
ふ若党気山の川口に出けれは身丈八九寸斗の金仏をひろい
上け是を親方に見す又兵衛是を郡司へつぐる松本嘉兵衛尉
是を則国司へ被指上酒井修理大夫御覧ありて御崇敬被成寺
谷に三間四面の御堂を御建立ありあんちしたまへり後に是
をひかた観音と名付給てれいけん今にあらた也然る故三方
海の水一円気山川へ落まさるによりて水は日々にまさりけ
る間三方村へは海の水市門前に近く鳥浜種村は海と成野々
間の横なわてたもの木と云ふ所迄水込佐古村善光寺田井は
宮の前井ノ口迄如此水つく故海辺の往来たへて堪忍ならさ
る躰を御公儀御覧有に鳥浜村七十二軒の者は小林右今所と
いふ所に小屋を掛け種村廿九軒の者は白山坂の左手右手に
小屋を作る伊良積十三軒の者はたかたけのふもとに小屋を
作る海山十三軒の者は刃光寺の滝のもとに小屋をかける此
由国司聞し召およばれて則家老中をめされ被仰出けるよう
は此度の地震に付気山川に大分ゆり上け水一滴も落さる故
海辺の者共皆々谷々はさまいわほらに小屋を掛けひんくご
とく(原文のまゝ)すまいをするときゝしからは終に民はう
へに及へし民うへにおよばゝ代はおさまるまし代おさまら
すはなんそか易主哉急に浦見峠を堀ぬき水を通し湖七里廿
四町夫わりの人民をたすけよとて御奉行を梶川(原カ)太郎兵衛尉
行方久兵衛尉両人に給り御家中并御領分の百姓土高百石に
弐人宛の役人をめし出し五月廿三日より浦見峠川堀普請は
しまるされは中頃迄は夫人足として堀といへ共底へ次第に
なめらにてほられさるよし申故越前より百余人石切を召よ
せられ切せらるゝ誠に一日片時も無油断御普請なれは余に
物うき御普請なりとて夫人足共のゆいすてに口吟をきけば
一ツとやひとかたならぬ浦見坂何か御普請そりやそうさ二
ツとや二度いやそ浦見坂名聞たにもそりやそうさ三ツとや
右も左も崩山中に御普請そりやそうさ四ツとや世にも物う
き恨み坂人をも世をもそりやそうさ五ツとやいつか御普請
成就して気儘に宿にそりやそうさ六ツとや昔し大坂普請も
是にはいかてそりやそうさ七ツとやなけく夫人の涙にて三
方の水海そりやそうさ八ツとや八声の鳥と諸共に丁場出て
そりやそうさ九ツとや恋の松原恨み坂よくも付たよそりや
そうさ十とやどふど恨みにあきはてたいつか我家にそりや
そうさ如斯の作りうた廿迄有し
如斯いへりいつれも御普請は極月六日迄にて相済同七日朝
辰の上刻に浦見川口を切水を被通也又翌年に可有御普請の
由にて浦見の小屋に小屋もりを置せらるゝ又役人共の薪木
の用迄并野柴のために在々所々にて松の枝を郷中間におろ
させらる故是又物うきとてかくいへり
是より奥にかすへ歌三十余ありあら〳〵留る
此松葉の枝おろしを一日に廿五束つゝ被仰候得共寒天の節
雪中の事なれは仰程はならすして或は廿束十八束なと仕候
故日々の松の枝の末迄の数は積りて次第に借銭に成申故い
つか借銭なし切てとよむと覚へたり兎に角に述かたき御普
請也何も此ゆいすても面白といへとも狂歌の読拾をきけ
ば
君も又民百姓も諸共に恨の川の水のゆけかし
恨坂きくもものうき梶原や水引川と早くなれかし
堀かけてとうらぬ水の恨みこそ行方故のしわさなり鳧
恨坂横田狐にたらされて堀にほられぬ底のなめかた
恨坂普請永引く道理かしいらぬなめかた指して事哉
又癸卯の正月十八日ゟ浦見川口をせき留て去年の如御普請
被成候か弥々次第に下ハ大ばんしやくのなめらにてほられ
さるよりて京白川ゟ百余人の石切以上二百五十人の石切を
被召定の其上御家中の役人并御領分の夫人足五月三日迄御
普請被成候か如斯水をせきとめ暮迄も御普請候ハゝ此湖の
まわりの耕作難成其上大分水損可致由御覧被成五月三日に
川口を切水をはなし被申故田井保内なにハ壱町弐反斗の干
あがり出来する則此干上り所を惣百姓へ被下廿九分つゝ支
配仕候也甲辰の二月十八日ゟ右の石切夫人足召所いられ
(原文のまゝ)五月朔日迄以上此三年の間の普請つもり恨坂
のちやう上ゟ川底迄は廿三間そらの横の長さは八十間川底
のひろさは三間半川の長さは百八十間夫人足の数は三万七
千三百五人也此普請成就して其後三方磯には三方村にて
は九郎兵衛同村嘉右衛門同村佐左衛門同村伊左衛門気山村
にては又兵衛同村弥治右衛門佐古村にては九左衛門鳥浜村
にては市太夫同村佐左衛門同村権兵衛此拾人に土高弐拾石
宛被仰付則家を建させ村作被成在所之名も生倉村と名付給
ふ又田井領には神上りといふ所に田井野村にて平兵衛河内
にて弥太夫世久津にて清兵衛海山にて六郎左衛門同村弥兵
衛同村小右衛門同村弥太夫日向浦にて六郎右衛門北前川村
にて七兵衛気山村にて伝四郎此拾人に如右被仰付家など立
させ被成在名も成出村と名付給ふ又田井保内へ干上り五町
七反被下と也是を年寄百性は五町宛被下所也脇百性は四畝
つゝかじけ百性は三畝つゝ被下処也是は立事王刀(原文の
まゝ)の五月朔日の大地震より出来四年の間日には五度七
度夜に又三度五度の少しも地震のやむ事なかりしにきのと
の巳年十二月廿七日に越後の国頸城郡高田の庄大地震にて
有ときくそれ以後上方惣して爰かしこゆらさる事如何とも
我人申斗に候但是は今日の雨中の徒然さに人の不問かたり
を有増爰に書留め置事は誠に後見の人の不顧嘲弄所也
穴賢々々
梶原太郎兵衛尉 保木作左衛門
大奉行 勘定奉行 横田角左衛門
行方久兵衛尉 上田二郎兵衛
附言以上の旧記は三方郡役所員千田九郎助氏の厚意
に由て予に寄贈せられたるものなり