[未校訂]㈠ 翁の家系
山水秀麗な若狭には、古来幾多の偉人が輩出して、いづれ
も社会の文化に貢献してゐるのは、われ人ともに周知の事
であるが、同じその偉人の[一人|ヒトリ]でありながら、吾が浦見坂
開鑿奉行、行方久兵衛正成翁の如きは、その工事が一地方
に限られ又工事そのものゝ比較的[無飾|チミ]である関係からでも
あらうか、あたら、その盛名の広く天下に伝はつてゐない
のは、返へす〳〵も残念なことである。
翁の家系によると、行方氏は常陸の産で、祖父の某は小田
原の北条氏政侯に仕へてゐたが、天正十八年、主家滅亡の
後は、『二君に仕へず』の心からでもあらうか、上総山辺
の庄に世を忍んで落魄の半生を送つた。父の正通は祖父に
も劣らぬ勇士で、最初は大垣の石川侯に、次は岩槻の青山
侯に仕へてゐたが、いづれも或る事情の為に終を完うする
事が出来なくて、其の後―寛永二年―更に川越の酒井
忠勝侯に仕へ、忠勤をさ〳〵怠りなかつたので、若狭小浜
に御転封後は郡奉行に挙げられ秩禄二百四十石を[食|ハ]むで安
定の境遇を作つた。翁は其の長男として呱々の声をあげた
のは、元和二年―父がまだ青山侯に仕へてゐた頃―で
あつたが、十五歳の時、忠勝侯の中小姓に召出され―二
十八歳の時、父の病歿によつて家督を続ぎ、秩禄二百四十
石の内百四十石を給せられ―たといふ外には、其の少年
時代、青年時代を飾るべき何等事蹟の伝はつてゐるものが
無いのであるが、それは、たま〳〵無事な世に生れ、平和
な家庭に養はれて、驥足を展ふべき機運に際会しなかつた
のを語るに外ならないのではあるまいか、否その壮年時代
に入つても、尚順調ながら平凡な境遇に展開して、三十六
歳の時、御作事奉行に挙げられ―四十四歳の時、郡奉行
に進み―かくて『人生五十』さしたる功も無くて、一生
を終らうとした時!天は始めて翁を[起|タ]たしむべく、浦見坂
開鑿の一大使命を下した。あゝ浦見坂の開鑿!これぞ翁が
畢生の心血を濺いで、精励恪勤、忍不抜、風に櫛り雨に沐
する三星霜、遂によく完成の栄誉を荷つて、余沢遠く後世
に垂れ、流風永く郷党を動かすに至つた困難にして而も不
朽の一大工事であつた。
㈡ 浦見坂開鑿工事
(イ) 京極氏時代に於ける其の計画
抑もこの浦見坂開鑿工事の計画は、已に其の端を京極氏時
代に発してゐたが、其の目的は勿論干拓によつて新田を得
ようといふのであつた―といふのは、当時三方郡海山村
の農夫太郎兵衛といふものが、農作の片手暇に三方湖或は
西浦海の魚を[捕|ト]つて、京都に[商|アキナ]に出かけた折々三方湖の
落口―気山川を浚渫せば、湖汀に少なからぬ新田を得る
であらうと言ひ触らしたのを、伝へ聞いたのが京都の富商
角倉庄七であつた。この角倉庄七といふのは、かの慶長年
中、大堰(山城)富士、天竜の諸川を開いて舟楫の便を計
り『魚にあらすして、舟の水を走る怪なる哉』と、山間の
民を驚嘆させた河川開鑿工事の本尊、角倉了以の後裔であ
つたので、浚渫には父祖直伝の秘法もあり、尚資金には糸
目を繋ぐ恐れもないので、早くも成功の夢に憧れて寛永三
年、若狭に来り件の太郎兵衛を案内として実地踏査の上、
気山川を浚渫するか、或は新に浦見坂又は嵯峨山を開鑿す
るかの三つに一つの中、遂に浦見坂を開鑿する事に取極
め、尚功成つて新田を得ば、折半して一は藩主の御領とな
され、一は子々孫々角倉に賜らば、さし当り巨額の費用を
要すとも、直に着手すべしとあつて、小浜に来り河辺五左
衛門の宅に足を止め、家老多賀越中、赤尾伊豆、佐々木九
郎兵衛に取り入つて、藩主にお目見えの上、じき〳〵お願
ひ申すやう、取り成しを頼み入つた―のはよかつたが、
[汗濶|ウツカリ]!今一人の家老塩津外記を忘れてゐたので、シタゝカ
横車を押されて、取り成しも自然延び〳〵の姿になつてゐ
たが、その内塩津外記の心も解けたと見えて、折ふし京
都より下つて来た猿楽の太夫日吉といふものにお目見えを
許される序、庄七にも『罷り出づるよう』との[達|タツ]があつ
た。すると庄七は『我家は代々公方様にも御存知のもので
ある、将軍様にもお目見えしたものである、今その子孫た
るものが猿楽の太夫輩と同座のお目見えは誠に心外であ
る』とあつて、即刻小浜を[発|タ]つて京都に帰つたので、あた
ら折角の計画も水泡に帰したのであつた。
その後―寛永五年京都の町人藤井九左衛門、角屋治兵
衛、又大阪の町人志竹源兵衛、備中屋太郎左衛門等前後し
て小浜に来り、いづれも縁故をたよつて浦見坂開鑿を願ひ
出たが、いつも家老達の意見が纒らない為に誰一人許可の
恩命に接しないで、空う帰らざるを得なかつたのであつ
た。
かくして浦見坂の開鑿は京極氏時代に、その著手をさへ見
る事が出来なかつたのであつた。
(ロ) 酒井氏時代に於ける其の計画
寛永十一年酒井忠勝侯御領国の後、藩士松本加兵衛が角倉
庄七の計画を継いで、浦見坂開鑿を決行せむとし、御用
にて江戸に上りし序、この議を言上すると、忠勝侯には
『新田を開く事は我家の為計りでなく、公儀の御為にもな
るべき事なれば、下国の節、家老達とも相談の上改め申し
出でよ』と仰せられたので、難有御礼を述べ小浜に帰着の
後家老達とも相談の上、それ〳〵調査を遂げ、見積書に絵
図面を添へて、重ねて御伺に及んだが、忠勝侯より御相談
を承つた家臣達はいづれも『中々の大計画にて竣工の程も
疑はしく、竣工の暁、新田を得るとも暴風大雨の折々潮入
の憂なしとも限らず』との意見であつたので、忠勝侯には
御思案の末、江見太兵衛を小浜に差遣はされて、郡奉行糟
谷勘右衛門、中村伊兵衛等に実地検分を命ぜられたが、こ
れからの人々も、委に検分の上、やはり『お見合せ然るべ
し』とのことに、太兵衛は、すぐさま江戸に立ち帰つて、
この旨を言上した。加兵衛はその後如何にと焦慮してゐた
が、形勢日に非となつたので、その後江戸に上りし時、竣
工の困難ならぬこと、潮入の憂なきことなど委に言上した
が、遂に御許の恩命を蒙ることが出来なかつたのであつ
た。
越えて万治二年忠直侯、お初入の時、お目見えのため、京
都より下つて来た後藤治兵衛、角倉平次といふものが、浦
見坂開鑿を思ひ立つてお願ひに及ぶと、『成功の後は新田
の半分を両人に与へる』といふ条件にてお許しになつたの
で、いよ〳〵翌年の八月、後藤の手代谷口甚右衛門角倉の
手代稲野久右衛門の両人浦見坂に来り、数百人の日傭を集
めて、藩主よりのお許とあつて日向山より伐り出した材木
と、海山村より刈り集めた茅を用ひて、三軒ばかりの小屋
を建て並べなどして工事に着手したものゝ其の難儀なこと
は一ト通りでなく、その上九月に入つてからは、日あしも
短かくなり、北国の常として時雨も多くて、思つた程にも
捗らないので、翌年を期して一ト先づ京都に引上げたが、
其の後成功の見込もないといふので已むなく中止に終つた
のであつた。
(ハ) 翁の第一期工事
角倉、松本、後藤等の浦見坂開鑿は、新田獲得の為めであ
つたが、翁のそれは湖畔の浸水村落救助が主であつて緩急
その目的を異にしてゐたのは言ふまでもないことであつ
た。然しその竣工に及むで、一挙両得、湖畔の浸水村落救
助を全うした上に、多年渇望の新田獲得を実現するに至つ
たのは、当然の理といはゞいへ、実に痛快なことであつ
た。
寛文二年五月朔日の地震は、随分と強烈なものであつた。
小浜城内でも天守は崩れ、土蔵は潰れ、土塀は倒れ、門は
傾くといふ有様であつたから、領内の損害は到底想像にも
及ばなかつたのであつたが、就中、三方郡では気山川の落
口が八尺余も揺り上げて、湖水の排出を塞いだので、みる
〳〵一丈二尺余の氾濫となつて、湖畔十一箇村の領民はみ
す〳〵家屋田畑を水底に捨てゝ[此処|コヽ][彼処|カシコ]の谷[間|アヒ]山[陰|カゲ]に避難
しなければならないといふやうな惨状を呈したのであつ
た。
そこでこれを聞こしめされた忠直侯には『この十一箇村の
難儀をよそに見、且つは若狭古来の土高を減ずるに任する
は、国君たるものゝ耻辱なれば、城内の普請は暫くさし措
き、湖水を大海に切り落すよう、急ぎ手順に及べ』とあつ
て翁及松本加兵衛を同地に差遣されたので、両人は委に踏
査の上、気山川の浚渫を捨て、新に浦見坂を開鑿して湖水
を排出しようと建議したのであつた。一寸考へて見ると、
新に浦見坂を開鑿するよりも、在来の気山川を浚渫する方
が易々たるやうであるが、その実、徒に屈曲の多い十余町
の河身は、到底永久に湖水を排出するに何等故障の生じな
い訳にはいかないのであるから、嶮阻ではあり難儀ではあ
るが、直通二町余の浦見坂開鑿は、確に国家百年の計であ
つた。
かくてこの計画の用ひらると共に、江見太兵衛をもつて、
翁及梶原太郎兵衛を総奉行として開鑿工事に従ふべき旨を
伝へられ、尚両人を御前に召されて『工事中岩石の手に余
るものあらば、江戸表より石工久兵衛を遣さん程に、急ぎ
註進せよ、尚又工事思ふまゝに捗らずとも、あながちに其
方たちの落度とは思はず』との仰に、両人は感涙に咽びな
がらも、その任務の重且つ大なのに思ひ到ると、流石に躊
躇せざるを得なかつたのであらう、恐る〳〵頭をあげて
『先殿様(忠勝侯)御代(寛永二十一年)の気山川浚渫に
は、奉行として四人までもお選びの上、更に三人の御家老
御交代にて御見廻りなさつたのに、此度はその十倍の難工
事なるにも係らず、微力なる私達両人のみにては竣工の程
もいかゞと恐縮に存じますれば、誰か余人に仰せつけて下
さるゝか、さもなくば以前同様に―』と申上げたが更に
お聴き入れもないので、さらばこの上は唯粉骨砕身、竣工
の実をあげて、知遇の恩に酬ひ奉らうと堅く心に盟つたの
であつた。
さて早速浦見坂に赴き小屋など建てならべ、人足、鍛冶、
大工、杖突等千百余人の部署を定めて、鍬初の式をあげた
のが、同年五月二十七日であつた。それより人夫は二手
―峠より南と北と―に別れて掘り下げることになつた
が、初めの内こそ多勢を恃んで、険難何かあらんと、木を
伐るやら草を刈るやら、石を穿つやら、土を運ぶやら、右
に左に駆け違つて、木遣り掛け声も勇ましく、工事は著々
と捗つたが、まづ南―峠より四十間計りの処に、忽然!
一大盤石あらはれ、打てど敲けどいつかな動ぜぬ堅牢さ
に、早くも[倦|アグ]み果てた―と見て取つた翁は、早速人夫頭
の彦太夫といふ気転利いたる男を呼び出して相談に及ぶ
と、越前板取金山の礦夫を招きて打砕かせてはとの事に、
兎に角にと三郎左衛門、茂兵衛、左近、作兵衛の四人を招
きて、かの盤石を見さするに、さまで困難ならずとの答、
さらば重ねて呼出す程にと一ト先帰し置き、直に礦夫雇入
の御許を願ひ出たのであつたが、其時峠の北よりも又々一
大盤石があらはれたので、さらぬだに[倦|アグ]み果てた人夫達
は、今や意気消沈―青息吐息の体で、果ては口々に『竣
工思ひもよらず』なとゝ言ひ散らすのを伝へ聞いた人々
―殊に初めより翁の計画を[危|アヤ]ぶんでゐた人々は、今や
『当然―』と計りに一入嘲笑の声を高うするに至つたの
で、家老達も憂慮の余り、工事見廻りとして小泉伝左衛門
を差遣されるといふやうな騒ぎになつた。然し翁はこの四
面楚歌の中に立つて尚竊に期するところあるものゝ如く、
泰然自若として更に屈する色なく、急ぎお許を得て、件の
礦夫及京都白河より石工各若干人を招き加へて、激励一
番、寸時も油断なく工事を急がせたが、それも束の間!や
がては隋気満々として奉行嘲罵の歌唱に工事放擲の姿をあ
らはしたのであつた。次に掲げた奉行嘲罵のその歌―そ
れは固より歌謡として首肯しがたい点も少なくないのでは
あるが、唯その真情の発露といふ点によつて如何にその工
事の困難であつたかといふ事を十分に窺ひ知ることが出来
よう。
一つとや、一方ならぬ浦見坂、
なにか御普清ソリヤソゥサ
二つとや、再びいやな浦見坂、
名を聞くだにもソリヤソウサ
三つとや、右も左も岩山の、
中々御普請ソリヤソウサ
四つとや、世にももの憂き浦見坂、
人をも世をもソリヤソウサ
五つとや、いつか御普請成就して、
気儘に宿にソリヤソウサ
六つとや、昔大阪御普請も、
是にはいかでソリヤソウサ
七つとや、歎く人夫の涙にて、
三方の湖ソリヤソウサ
八つとや、八声の鳥と諸共に、
丁場に出でゝソリヤソウサ
九つとや、恋の松原浦見坂、
よくもつけたよソリヤソウサ
十とや、とうと恨みにあき果てゝ、
いつか我家にソリヤソゥサ
十一とや、一荷持ち籠吟味して、
割持するぞソリヤソウサ
十二とや、二度の崩れに役人も、
疲れ〳〵てソリヤソウサ
十三とや、三世の諸仏の報ひにや、
浦見の住ひソリヤソウサ
十四とや、しどろもどろの山路を、
上り下りぞソリヤソウサ
十五とや、後世も前世も思はれず、
一日暮しよソリヤソウサ
十六とや、ろくに山をも掘るならば、
今年はなるまいソリヤソゥサ
十七とや、七世の父母因果かや、
かゝる拙きソリヤソウサ
十八とや、八万これはたまるまい、
せめてかり田をソリヤソウサ
十九とや、苦の街道と申せども、
かゝる因果はソリヤソゥサ
二十とや、にが〳〵しきは此普請、
退くに退かれぬソリヤソゥサ
事♠に至つては所謂『糞土の牆[朽|ヌ]るべからず』で、流石の
翁も困じ果てたが、今は唯、上瀬の神の擁護を頼む計り
と、夜な〳〵参籠、丹誠無二の祈願を凝らしたが、うつら
〳〵とまどろむ或る夜の枕に、『すこし北によせて掘ら
ば―』との霊夢を得たので、いそぎ人夫を招きてこの由
を伝へ『夢疑はず奮励せよ』と諭したので、彼等もさて此
儘にやむべきでもないので半信半疑の体で先づ試にと渋々
工事に取りかゝつたが、不思議やつゆ神告に違はず、著々
工事の捗るに勇み立つて、九月十七日!狭いながらも兎に
角一筋の水路を開いて、一同前途の光明に欣喜雀躍を禁ず
る事が出来なかつたのであつた。さて愈々渠口を切つて湖
水を排出すると、五月より氾濫してゐた濁水は、所謂『決
河』の勢で河底の左右を洗つて土石を押流した計りか、西
岸一帯の岩石を崩壊して水路を広うするに非常な便利を与
へたので、翁も『天の[与|アヅカ]るところ、工事成就の瑞』と喜
んだのであつた。
これより湖水は漸次減退して、十二月には早くも海山、鳥
浜、田名、向笠の各村民は我家に帰つて、越年の用意に取
懸る事が出来たのであつた。工事も十二月六日で一先づ打
ち切つて、来年早々又取懸る事にしたが、こゝに冬期中使
用の薪として村々より一日に松が枝二十五束づゝを徴収し
たものであつたが、何様寒さの時ではあり、雪などの為
に、毎日五束十束の借越しとなつて、いつ皆済の[当|アテ]もつか
ないので怨嗟の余り、又々俗歌を作つて歌ひ立てたのであ
つた。その二三首を次に掲げよう。
浦見坂きくももの憂き梶原や、水引く川と早くなれか
し
掘かけて通らぬ水の恨みこそ、底なめ方のしわざなり
けれ
浦見坂横田狐にだまされて掘るに掘られぬ底のなめか
た
さて翌寛文三年正月十八日、翁は工事継続の為再び浦見坂
に来たのであつたが、此度は最早水路が通つて、九分の竣
工を目前に見てゐるのであるから、自然人夫どもの意気も
これ迄とは雲泥の差であつたので、この機を逸せず一気呵
成に掘りあげんと、直に部署を定めて二十五日より着手す
ることゝなり、まづ岩石の崩壊した西岸を水際迄切り下
げ、更に渠口を堰き止めて河底の岩石を悉く切り取り、五
月朔日をもつて、いよ〳〵♠に多年懸案の浦見坂開鑿工事
の竣工を告げたのであつた。
其後湖水は盛に排水して、僅々十日許りにて湖畔の浸水村
落は悉く復旧したのみか、三方、鳥浜、田井、気山、海山
の湖汀に九町七反四畝余の新田を得たのであつた。
(ニ) 翁の第二期工事
同年七月、忠直侯御入部の途次、突如竣工せる浦見坂渠溝
御一覧を仰せ出だされたので、これを承つた翁は直に浦見
坂に赴き、水路の掃除、御召船の用意などに数日を費しい
よ〳〵十日をもつて佐田にお迎へ申したので其夜は佐柿に
御一泊、翌十一日竜沢寺前より御船に召され、早瀬川御遊
覧の上浦見坂堀割尻にて御上陸赫灼たる暑さをもお厭ひな
く、直に峠にお進みなさつた折柄、驟雨沛然として降り来
たつたが、チツトモ遅疑せず、やがて御着の上設けの床几
に御腰を下されて、委に御検分の上、献上の酒肴に舌鼓を
打たれ、至極御満足の体にて、其日夕刻小浜に御帰城なさ
れたのであつたが、越えて翌年二月『三方久々子両湖の水
準不平均は、九仞の功を一簣に欠ぐの恨みあれば尚河底の
工事を継続して完全を期せよ』との命が下つたが、これは
前年御検分の結果であるといふことは勿論であつた。翁は
この命に恐懼措くところを知らず、早速浦見坂に赴き、
それ〳〵準備の上、同月晦日工事に着手したのであつた
が、一方久々子湖より海に注ぐ早瀬川を浚渫して従来の川
口―二間を九間に広げ、且つ両岸に長さ百四十間、高
さ六尺の石垣を築いて、土砂の崩壊を防いだので、自然
排水の量も増して久々子湖汀に十二町余の新田を得、間
もなく三方、久々子両湖の水準平均工事も竣工して、五
月二日いよ〳〵開鑿工事の完成を見るに至つたのであつ
た。
(ホ) 浦見坂開鑿工事に関する数字
寛文二年五月二十七日に始まり同四年五月二日に完成した
浦見坂掘割は、長さ百八十間深さ二十三間、底の広さ四間
で、これに要した人数費用は実に左の如くであつた。
人数 二十二万五千三百四十九人
下奉行 扶持方奉行 薪奉行 道具奉行
内訳 鍛冶奉行 杖突 足軽 家中出入 郷人足
郷中間 大工 鍛冶
米 三千四百五十九俵六升三合九勺
内訳
扶持米 三千八十二俵二斗九勺
瓦木米 三百七十六俵二斗六升
銀 九十九貫七百七十四匁八分九厘七毛
内訳{四十貫六百五十七匁四分一厘
石切賃
一貫八十匁 日傭石切三百人分賃
二貫百四十匁六分四厘七毛
鉄千百十一貫十五匁代
(普請道具ニ作ル)
鍛冶炭二百九十六俵代
百二十六匁九分 万小買物代
尚干拓の新田は、三年の分を干支に因むで卯の干、四年の
分を辰の干と呼び、合せて約四百石であつたが、卯の干を
ば三方村の百姓四人、鳥浜村同三人、気山村同二人、佐古
村同一人合せて十人に二十石宛を分ち与へて、新に生倉村
を興させ、又辰の干をば海山村同四人、田井野村同一人、
河内村同一人、世久津村同一人、北前川村同一人、気山村
同一人、日向村同一人これ又合せて十人に二十石宛を分ち
与へて新に成出村を興させたが、この生倉、成出の名は
『其後御田地はイクラもナリイデん』の意味よりつけたと
いふことである。尚其後の新田も随時適当に分与したが、
兎に角竣工の結果、浸水田地をも救助し得て、約四千五百
石を獲得する事が出来たのであつた。(中略)
㈣ 翁の晩年
浦見坂開鑿及荒井用水竣工後に於ける翁は、勘定奉行とし
て前後十年藩財務に尽瘁して算勘の才を揮ひ、延宝三年
―六十歳の時更に関東組者頭に転じ越えて三年金山村新
田御用掛を兼ね、蹇々匪躬の節を尽して特に銀五枚の恩賞
にさへ預かつたが、六十六歳の時老衰のため職を退き爾来
風月を友として余生を楽み、貞享三年八月十二日―七十
一歳を一期として病歿、法名を仏生院無久と号し小浜本法
寺に葬つたのであつた。(其後同寺は火災のため廃寺となりしを以て本行寺に改葬)
ア、春風秋雨二百四十年、浦見の渠溝、荒井の用水、今尚
混々潺々、昼夜を流れて、翁の偉績を千古に伝へ顔であ
る。