[未校訂]艱難目異誌上巻目録
序
一 地震ゆりいたしの事
二 京中の町家損せし事
三 下御霊にて子ともの死せし事
四 室町にて女房の死せし事
五 大仏殿修造并日用のものうろたへし事
六 耳塚の事并五条の石橋落たる事
七 清水の石塔并祇園の石の鳥居倒事
八 八坂の塔修造并塔の上にあかりし人の事
九 方々小屋かけ付門柱に哥を張ける事
十 光り物のとひたる事
春すき夏も来てやう〳〵なかはに成ゆけは藤山吹に咲つゝ
く垣ねの卯の花やまとなてしこ庭もさなからにしきをしけ
ることくなるに千之う万之う梨月名月なといへる五月つゝ
しもしな〳〵にほころひいて山ほとゝきすは声をはかりに
鳴わたり田子の早苗は時過るとてさしいそく早乙女の田う
たのこゑ〳〵ゐねのかはつもおもしろかりてとひあかるも
心ありけ也
一 地震ゆりいたしの事
今年ハ寛文第二みつのえ寅のとし去年にも似す我も耗やみ
けれは民のかまともにきはひ何となく世もゆるやかに伝は
りける所に五月朔日巳のこくはかりに空かきくもり蘆灰の
立おほひたるやうにみえて雨気の空にもあらす夕立のけし
きにもあらすいかさま聞をよふ竜のあかるといふものかそ
れかあらぬか雲か煙かとあやしむところにうしとらのかた
より何とはしらすとう〳〵と鳴ひゝきてゆりいたす上下地
しんとはおもひもよらさりけるかしきりにゆらめきけれは
諸人うろつきて初めのほとは世なをし〳〵といひけれとも
夫家小家めき〳〵としてうこきふるふ事おひたゝしかりけ
れはすはや世かめつして只今泥の海になるそやといふほと
こそありけれ京中の諸人うへをしたにもてかへし大道をさ
してにけ出る生れてよりこのかた日のめもみぬほとのやこ
となき女房達もをひときひろけさはきかみはたしつるもき
にて恥をわすれてかけいてにけいておめきさけふ事いふは
かりなしある人この中にもかくそいひける
わか庵の竹のたる木もふるなゆに
ゆかまはやかて世なをし〳〵
二 京中の町家損せし事
家居つき〳〵しくつくりみかゝれしかたく堂舎仏かく社頭
にいたるまてあるひは棟木くしけ梁ぬけて瓦おち垂木おれ
さしもの砕て軒かたふきあるひは鴫居鴨居はゆかみすちり
さしこめたる戸障子ともをひらかんとするにつまりてあか
すこれに心をとられて気をうしなひ又はにけんとするに地
かたふき足よろめきてうちたをれふしまろふかたはらには
家くつれておちかゝるさしものなけし鴨居にかうへを打わ
られたをるゝ小壁に腰のほねをうちをられ二階よりをるゝ
ものはおちかゝる棟木に髪のもとゝりをはさまれたもとを
はさみとめられみつからかたなわきさしにて切はなちにけ
おりてはう〳〵いのちをたすかり又は大木にうちひしかれ
てひらめになりて死するものあり疵をかうふりて吟ふし今
をかきりのものもありをよそ京中のさうとう前代未聞の事
共なりある人これにおとろきて腰をぬかし尻ゐにとうとふ
してかくそよみける
ふるなえにあやかりけりな手もあしも
なえになえつゝたゝれこそせね
三 下御霊にて子ともの死せし事
五月朔日は祈禱の日なりとて諸社に御神楽御湯なとまいら
する事いにしへよりこのかたこれあり下御霊にも御湯まい
らせ貴賤老若つとひあつまりておかみ奉るその時しも地し
んおひたゝしくゆりいてしかは諸人きもをけし拝殿にのほ
り居たるはくつれおち地下なるものははしりいてんとすこ
みあひもみあふてなきさけひよはひとよむその中に年のこ
ろ七八歳にもやなるへきとみゆるおのこ子二人にけいつへ
き方角をうしなひ心きえたましゐうろたへてせんかたなく
おそれもたえ石燈籠にいたきつきし所にやかてかのいしと
うろうゆりかたふきて打たをれしかは二人の子ともはこれ
にうちひしかれかうへより手あしにいたるまてつゝく所な
くきれ〳〵になりて死けるこそかなしけれ是はそもいか成
人の子ともなるらんと諸人おそろしき中にもあはれにおも
ひていひのゝしるしはらくありて子とものおやはしりきた
りそのかほかたちはひしけて見えねとも血に染かへりしき
る物はまかふ所なくそなりけれは母も気をうしなひ父も声
をあけて只なきになきけれともかひなしさても夢かよ〳〵
とてちきれたるかはねをとりあつめ涙とゝもに俵にいれ人
してもたせて家ちに立帰るふたりのおやの心の内おもひは
かるへしその身さきの世のむくひとはいひなからやまひに
ふして死もせはせめては思ひもうすかるへきにやこれはお
もひもかけさりしいらけなきさいこのありさま余所のたも
ともぬれ侍へり後に聞けれは御霊ちかきあたりのものにて
一人は琴屋一人は鞠やの子にて侍へりしけかれたる火をは
ひて親にもしらせすこの御中ろにまいり御湯まいらするを
おかまむとせしか神の御とかめにてかかる事にあひ侍へり
けるとかやあまりにみるめのふひんさにやとふらひける僧
かくによみてたむけける
とてもはや
うちひしかれて
死するから
いしとうろうを
五輪ともみよ
四 室町にて女房の死せし事
二条むろ町に百足屋のなにかしとかや聞えし人の女房は今
年わつかに十七歳むかへとりていくほともなくたゝならぬ
身にて侍へりしか朔日の地しんさしもおひたゝしかりけれ
は家のうちにもたまりえすおちの人かひそへ小女四人つれ
てうらなる空地にいてんとすそのあひたに土蔵のありける
か俄にはつれかゝり瓦にてかうへをくたきおちかさなる壁
にひしけうつまれ四人一所に死けるこそ一業所感とはいひ
なからかなしかるへきありさまなり家のうちの上下もたえ
こかれ山のことくにおちかさなりし土をかきのけむなしき
かはねをほりいたすいまた息のかよへるものもありしかと
もとかくするうちにはや事きれはてけり女房はあえなく打
ひしかれ腹はわきよりさけて内なる子はいまた五月はかり
なるかはらわたにまとはれ血にまみれてなたれ出けるを見
るこそかなしけれおやしうとめさしつとひてこれは〳〵と
いへともかひなし只なくよりほかの事なくいかにとも思ひ
わけたることなけれは内のものともとかくはからひて寺に
をくり一聚の塚の主となしけりかの女房にかはりて
大なえにくつれておつる棟かはら
土そつもりて墳となりける
五 大仏殿修造并日用のものうろたへし事
これをはしめとして京中にありとあらゆる土蔵ともあるひ
はひらにくつれあるひはかはらおち壁われてゆかみかたふ
かすといふことなし家々の棟木さし物はほそおれてぬけか
ゝり軒かたふき束柱くしけゆかみ棚にあけをきし道具とも
家こと一同におちくつれ女房子ともはいよ〳〵おそれまと
ひ啼さけふ声に取くはへて目をまはし気をとりうしなふも
のもおほかりけるむかし文徳天皇の御宇斉衡二年五月五日
の大地しんに南都東大寺大仏の頭をゆりおとせしと記録に
しるせりこのたひの地しんには京都の大仏は修造のため頭
はすてにとりおろし奉りぬ日ことに手伝日用をいれて金銅
十六丈の仏像をけんおうかなとこをもつてかちくたきうち
こはすくはん〳〵といふ其ひゝき四王切利の雲のうへまて
も聞え水輪坤軸の下まてもこたへぬらんと物すこくおほゆ
るところに俄におひたゝしき大なえゆりいたして大仏殿ゆ
るきはためきけれは日用ともは地しんとは思ひもよらすう
ちくたく仏の罰あたりてたゝいま無間地こくにおつるとこ
ゝろえ百人はかりの日用のものとも一同に声をあけ手をす
りて南無釈迦如来かやうにうちこはし奉る事われらはこゝ
ろよりおこる所にはさふらはす日用つかさにやとはれて下
知によりて打くたき奉る我らに科はなきものをゆるさせ給
へ〳〵とわひことする奉行の者ともはいかにこれは地しん
なるそや日用のものともさはくな〳〵といへとも耳にも聞
いれすして仏の肩にのほり御手のうへにあかりて居たる日
用ともおつるともなくとふともなくやう〳〵にけおりてこ
そ初めて地しんなりとはおほえけれある日用のものかくそ
つふやきける
ゆるからにほとけの罰とおもひきや
なゆとしりせはおりさらましを
六 耳塚の事并五条の石橋落たる事
大仏殿の門前みなみのかたに耳塚とてこれありむかし太閤
秀吉公朝鮮征伐の時異国の軍兵ともおほく日本の手に打と
りその首を日本にわたして太閤の実検にそなへんとするに
首数おひたゝしかりけれは只耳はかりを切て樽につめてわ
たしたり太閤実検し給ひてのちこれ無縁のものにして亡郷
の鬼となりぬらん敵なからもふひんなりとて塚につきこめ
そのうへに五輪を立て永代のしるしとし給ふ去ぬる慶長十
九年十月廿五日まことに夥しき地しんなりけるにも子細な
かりけるをこのたひの大なゆにふりくつされ塚はくつれ五
輪はたをれて其あとは深きあなとなり侍へりけるこそゆゝ
しけれある人穴の中へよみいれけり
耳塚のおほくの耳にことゝはん
かゝる地しんを聞やつたへし
あなの底よりひゝき出ける音に返哥とおほしくて
もろこしもゆりやしぬらん大なゆに
今こそ耳のあなはあきけれ
五条の石はしもこのころはわたしおほせて縦令いか成事あ
りとも当来弥勒出世の時代まてもことゆへあらしとおもひ
けるに橋けた橋板闌干まて廿余間おちたりけりこの時わた
りかゝりし人ありけるか一人は橋けたの石にうたれくたけ
ちりて死たりいま一人は西六条花や町のものとかや橋板の
おつるにのりて下におちつきやかて絶いりしかひさのあた
りすこし打やふれたるはかりにてやう〳〵よみかへり夢の
こゝちしてはう〳〵家にかへりぬ運のつよきものにこそと
てみつから大によろこひいはゐことしけるもことはり也荷
おひたる馬とも橋つめにおほくつとひあつまりけるかおほ
くの馬とも一同におそれてはねあかり立あかりて一あしも
ゆかすひけともうてともすゝまさりけるは橋のおつへき事
をしりけるかと諸人是をあやしみけり
いときとくの事にこそ
七 清水の石塔并祇園の石の鳥居倒事
清水の石の塔は上二重をゆりおとす滝まうてのもの其外さ
んけいのともからきもをけし色をうしなひあまの命をたす
かりよみかへりたる心地して下向の道のおそろしさいふは
かりなし祇園の南門に立られし石の鳥居は津の国天王寺の
鳥居になそらへ笠木たかくそひえ二はしらふとしく立なら
ひ額はこれ青蓮院の御門跡あそはされ給ひ筆尽ゆたかにめ
てたくおはせしをたちまちにゆりくつされ立や鳥居のふが
はしら地をひゝかしてとうとたをれ段々にうちをれて額も
おなしくくたけたり八坂の茶屋共は鳥居のたをるゝ音にい
よ〳〵肝をけしされはこそ地の底かぬけて泥の海になるそ
やとて建仁寺のうしろなる野原をくたりにかけ出たりおや
は子をすて兄はおとゝをわすれあるひはわか妻の女房かと
おもひて人とめ女の手をひきてにけいてあるひはわか子と
おもひて茶つほをいたきてはしりいてふみたをされうちま
ろひ夢ちをたとる心地して目くらみたましゐきえてをこか
ましきありさまともなり茶やにあそひ居るわかきものとも
はあわてふためきあみ笠を手にもち草履席駄かた〳〵しは
きわきさしをとりわすれみたれ足になりてかけいつるもあ
りその中に井つゝ屋のなにかしとかや年のころ八十四五な
るおとこはう〳〵にくるを見てある人かくよみてわらひけ
り
としたけてまた生へしとおもひきや
いのちなりけり茶屋のなかにけ
八 八坂の塔修造并塔の上にあかりし人の事
八坂の塔はいにしへ後鳥羽院いまたいとけなくおはしまし
ける御時に御くちすさひに東寺の塔と八坂の塔とくらへて
みれは八坂の塔はまたうくい〳〵やとおほせられしとかや
右衛門の扇か日記にはしるしをきけりある時この塔のゆか
みたりしを浄蔵貴所といへる聖いのりなをされけりそれよ
りこのかたはふたゝひ浄蔵貴所も世に出給はねはこの塔ゆ
かみてもいのりなをす人もなかりしによき事を案しいたし
ゆかみたるうしろのかたに地をほりぬれはをのつからなを
るゆかみのなをりぬれはその地をうつむとかやしかるにこ
のころ八坂の塔のうへそこねて雨もり侍へるとて修理に及
ひ一紙半銭をいはす十方たんなの心さしをもとむ世のわか
きものとも奉加にいりてその塔のうへにのほりて結縁する
事侍へり五月朔日けふしもあまたこの塔にのほりつゝ四方
のけしきを見わたして何心もなかりし所ににはかに大なゐ
ふり出して塔のゆする事いふはかりなく露盤へき〳〵とし
て宝鐸りん〳〵とひゝきけるを只わかきものともしたにあ
りてうへなるものをおひやかさんとて塔をゆすると心得て
うへなるものとも声をそろへていかにかくわろき事なせそ
さなきたにあやうくおほゆるにこれいか成事そ只をけや
〳〵といふほとこそありけれ塔のしたを見おろせは女おと
こ子ともまてあはてふためきて家のうちよりはしり出つゝ
此塔も只今地にたをるゝそやといふ声のかすかに聞えしに
そ地しんなりとこゝろつきておりくたらんとするに手ふる
ひあしなえ塔はかたふきうなたれめき〳〵といふ四方の空
色はくろけふりのことくに侍へりしかとかくしてやう〳〵
ゆりやみしかは何とそしてにけおりはやとおもふ一念はか
りに塔のしたにはおりくたりけれとも気をとりうしなひ目
をまはし人心地もなく籠にのりつえにすかり家〳〵に立か
へりても今に心地わつらひておきふしなやむものもありあ
る人此塔に結縁すとて数珠つまくりてのほりけるかゆられ
ておりくたりつゝかくなん
椎柴のこりはてにけり後生たて
いまは八坂のたうとけもなし
九 方々小屋かけ付門柱に哥を張ける事
をよそこの時にあたつて洛中はし〳〵には家もたをれ人も
疵をかうふり土蔵のくつれたる事京都に二百余庫なり打こ
ろされける人四十余人とかやそのほか諸寺諸社の石とうろ
う築地五輪石塔あるひは軒かたふきあるひは棟かはらくつ
れおち寺〳〵のつり鐘共は鐘木うこきふらめきてみな一同
にはやかねをつきけるこそいとゝきもつふれおとろきけれ
生れてよりこのかたかゝるおひたゝしき大なゆはおほえた
る事もなしなといふうちに又ゆり出し時をうつさす間をも
あらせす常ものにゆりけるほとに五月朔日昼のうちに五十
六度その夜にいりて四十七度にをよへりゆり初めほとにこ
そなけれかくゆるからにいか成大ゆりになりてか家くつれ
てうちひしかれなんいにしへ慶長の大地しんにも大地かさ
けて泥わきあかりなをそのいにしへは火かもえいてゝ人お
ほく死せしといふこのたひの大地しんも後にはいか成こと
かあらんと手をにきりあしをそらになしおきてもねても居
ることかなはす立ても居てもたまられすゆりいたすたひこ
とに家々に時の声をつくりいとけなき子ともはなきさけふ
何とはしらす地の底はとう〳〵と鳴はためきて京中さはき
立たるとよみに物音も聞えすとかく町家の家ともは残らす
ゆりくつすへし命こそ大事なれとて貴賤上下の人〳〵ある
ひは寺〳〵の堂の前墓原あるひは町の広み四辻のあひたに
下には戸板をしき竹のはしらを繩からみにし上には渋紙雨
葛帔をひきはり京の諸寺社にも居あまり北には北野内野む
らさき野れん台野ふな岡山のほとり西のかたは紙屋川をく
たりに西院山のうち朱雀の土手のうち南は山崎かいたう九
条おもて東のかたは賀茂川のほとりひかし河原をくたりに
塩かま七条川原にいたるまてすきまもなく小屋かけしてあ
つまりきたる老少男女いく千万といふ事をしらす小屋かけ
のためにとて下部共のもちはこふ道具とも西よりひかしへ
北よりみなみへにけまとう人にもみあひこみあひあるひは
のり物にてゆく人も又ゆりいたして間もなき地しんにおの
こともきもをけし足なえてはのり物をとうと打おとしある
ひは屛風障子をになひかたけてゆくものもうちたをれては
やふりそこなふむかしの事はしらすこのたひの地しんに貴
賤上下あはてたるありさまたとへんかたなしある姫御前の
よみける
わくらはにとう人あらは小屋のうちに
しとをたれつゝわふとこたへよ
かくて朔日の夕暮かたに成けれとも初めほとこそなけれ間
もなくゆりてしかも雨さへふり出つゝかみなりさはきにう
ちそへこの行すゑの世の中は何となりはつへき事そやとお
や子兄弟たかひに手をとりひたいをあはせいとけなきをは
いたきかゝへてうすくまり居たるうへに小屋のうへもり下
ぬれていとも物わひしさかきりなし何ものゝ仕いたしけん
禁中よりいたされて此哥を札にかきて家々の門はしらにを
しぬれは大なゐふりやむとて
棟は八門は九戸はひとつ
身はいさなきの内にこそすめ
諸人うつしつたへて札にかき家々の門はしらにをしけれと
も地しんはやます夜中に四十七度まてゆり侍へりたかきも
いやしきもきのふの昼よりこのかたは物もくはす湯水をた
にこゝろのまゝにはえのまてあれや〳〵とはかりにてふり
いたすたひことにむねをひやし手をにきり桃尻になりてお
それまとふこの哥はむかし慶長の地しんに其時の人となへ
侍へりしとふるき人はかたられ侍へり夜あけても猶ゆりや
ますある人京の町家のくつれかゝるを見てこのうたを翻案
してかくそよみける
むねはわれかとはくつれて戸はゆかみ
身は小屋かけのうちにこそすめ
すへて哥のこころいかなる事ともしりかたしいつやらん疫
病のはやりしころ京中家々に花かこやといへる哥をかきて
門々にはりける事の侍へり万葉の哥に
白雲の峰こく舟のやくしてら
あはちの嶋にからすきのへら
といへるこそわけの聞えかたき証哥なれといへりこの哥の
たくひにや世の懸俗とも物のましなひに哥をとなふる事あ
りその哥ともは大かたはわけもなき片言おほしこれも人の
気を転してゆるやかになす事あり腫物瘧魚の鯁山枡にむせ
たるなとみなよくなれるためしすくなからす諸人せめてお
そろしさのむねやすめにうつしつたへて門々にをしけるも
をろかなからもことはり也
十 光り物のとひたる事
五月二日になりてもいよ〳〵なゐはゆりにゆりて大病をう
けて久しくわつらふものちかきころ産後の女房なとは気を
とりあけこゝろをうしなふてむなしくなるもの洛中に数を
しらす町屋の家々をあけて小屋こもりせし間をうかゝひ盗
人いり来て物をとりにけはしるのかすましとて追かけうち
ふせふみたをしさう〳〵しさはかきりもなしその日もくれ
て三日になれともいまたゆりやますかゝる所に西山のかた
よりひかり物とひ出てひえの山の峰をさしてゆく事さしも
はやからすその大さ貝桶ほとにてあかき事火のことししつ
かにとひて山にかくれたり諸人このよしを見ていかさま只
事にあらす世の中めつして人たねあるましなといひのゝし
る大津三井寺のあたりにて諸人の見たるも只同しやうに侍
へりし京の寺町三条のわたりよりみなみをさして火の玉の
とひけるもそのかたちは瓢のことく尻ほそく色あをくとひ
ゆくあとより火の〓のことく火のちりけるこれそ天火とい
ふものなる此うへに京中大火事ゆきて一面に焼ほろふへし
といひいたしけるほとに身上よろしき人は土蔵を立て財宝
を入れはたとひ家こそ焼るとも財宝道具はことゆへあるま
しと日頃は頼み思ひけるに洛中の蔵共は大方くつれたをれ
其ほかは戸前傾き軒ゆかみ壁われはなれ土こほれ落たれは
火事ありとても入置へきやうもなく資材雑具を人家をはな
れし寺々社々に運あつくる有さま東西南北せき合たりせめ
てあつくる所縁なきものは肩にになひ背に負て小屋かけの
中にはこひいれてつみをきけるも夥しみたりかはしき洛中
のさうとう地しんにとりませて一かたならぬさはきなり
夏難兌怡詞中巻目録
一 五月四日大ゆりの事
二 伏見の城山南の方へうつり行ける事
三 加賀の小松の庄大水の事
四 越前敦賀の津并江州所々崩し事
五 朽木并葛川ゆりくつれし事
六 地の裂たる所へ踏入し事并米俵をゆり入し事
七 豊国はなゆのゆらずとて諸人参詣の事
夏難兌怡詞中巻
五月四日大ゆりの事
なゐのふらさるあひたにも只とう〳〵と鳴音はしはらくも
絶ることなし地の底か山の中かと思ふ所にこれは将軍塚の
鳴なり只事にはあらすなといひはやらかせは上下万民いよ
〳〵手をにきり足をつまたて日ころかはゆき妻や子とも今
更あしまとひになる心地してにけ行へきところを案しわす
らひ何の目にみえたる事もなきに色をうしなひふるひわな
ゝく其中になま人ありける者とも今より後は猶も大事ある
へし来る四日には大ゆりして大地ひきさけ泥わきいて家々
のこらすくつれ人たねあるましきとうらなひいたしたりと
沙汰しけれは町人共はいふにをよはすやことなき上つかた
まて禁中の焼あとに小屋をかまへ杉の青葉にて四方をかこ
み笘をもつて上をおほひ御殿を出てうつりすませ給ふ案の
ことく四日になりては夜の明方より上下用心して物を待う
くるやう也ける所に未のこくはかりに乾のかたよりたう
〳〵と鳴出つゝひらにゆりけるほとに去ぬる朔日ほとこそ
なけれかたちことくの大ゆりなりけれは上下万民されはこ
そとて気を失なふ二条御城の大手からめ手四方ともに大地
われさけやくらかたふき壁こほれすこしもおほいなる家ほ
とつよくあたりて柱は石すへをはつれ指物鴨居ぬけくつろ
き今やひしけくつるゝかとそおほえける四日め〳〵に大ゆ
りはあるなりその日か大事そ〳〵とてそれよりこのかたは
日ことに廿度卅度常ゆりにゆりけれとも後には馴たるゆへ
にやおとろく事もそのかみほとにはなし地はゆらねとも山
は常物に鳴ひゝきてとう〳〵といふを聞てある人かくそお
もひつゝけゝる
きもはみなつふしはてたる大なゆを
山にのこしてをとをきくかな
五月五日は家々の軒はに菖蒲ふく日也けれともそれまても
とりあはぬ家もあり軒にあかりてあやめをふくあひたに又
ゆりいたしけるにおそれまとひてとうとおちこしのほねう
ちそんしてかた息になりつゝによひふしたるものもあり半
ふきちらして打をきたる家もあり巳の刻はかりより大雨に
なり篠を束てふりけれは賀茂の競馬に行人もなく藤の杜の
神事にもさして見物のものはなかりけり
二 伏見の城山南へうつり行ける事
雲すきもなく小山もなくうつすかことくにふる雨のあひた
にもなゐのふる事は一日の中三十度に及へり京ちかき北山
あたこ高雄なとは山くつれ岩まろひすさましき事かきりな
しある人かくそよみける
降ならは只ひとかたにふりもせて
なえにしましる大雨にうき
小屋かけのわひしきすまゐに上はもり下は横雨にあてられ
いか成人もその日はしとゝにぬれ侍へりこのほと甚湿気に
あたりて痢病瘧を仕出して前後もしらぬ人もおほしされは
かやうの事有てのはてには人みな不祥の気を感して疫病寄
病の流行ものなれはかねてこれをふせくへしとかや伏見木
幡のわたりは京都より猶おひたゝしくゆり侍へり日ころに
あれはてたるあはらやの柱くちて軒もなく壁こほれ垣くつ
れさる古家は云に及はす京橋すち舟つきの梳飯屋町のあた
りはみる家々くつれたをれておとこ女死せしものおほかり
し木幡のあたりはいにしへの鳥井のなにかしの城のあと半
里はかりの山なりけり此山しきりにゆるきうこく南の方に
は町家ありて人すみけるか立出てみるに城山すてにをし来
るとおほえたり只今の家共はうつまれなんはやとてにける
やとよはゝりしかはあたりのものとも取物もとりあへす我
先にとにけたりし所に城山ほとなくをし来り廿余家の在家
をうつみ細き流れをへたてゝゆりすへりぬかの城山は十余
間に及ひてみなみにをしうつり田畠多くうつもれたる其山
の跡は地形をすりはらひに水わき出てふめはゆり〳〵うこ
きわたり奈落の底まても落入るへき心地して沼のことくに
なりたりうつまれし家ともは地形より一丈はかり下になり
しを堀いりて家財ともは取出し侍へりあやうかりける事共
也ある人城山の跡にうつり行けるをみて
山のみなうつりてしもによることは
なゆにふられてとふとなるへし
あふなくもなゆにはきものつふるゝか
城山にけてゆらすもあらなん
それより南は宇治の里大和の国は泊瀬のわたり津の国は兵
庫の灘尼か崎播磨路もすこしはゆりぬ大坂いつみの堺紀州
雑賀のあたり迄もかたのことくにゆれけれとも京ふしみほ
とにはなしとかや東はするかの国小田原辺まて尾州の中は
大かたにて伊勢の桑名の城をはしめてかみ方漸々におひた
ゝしく亀山の城も損したりことさらに江州膳所の城は殿主
は大にゆかみ傾き矢倉はのこらすくつれ町家多く損しけれ
とも城の石垣はこと故なし
三 加賀の小松の庄大水の事
北国方は若狭朽木のわたり越前敦賀の津迄大にゆり損し其
より北は福井北の庄わたりはすこしにて沈まりぬ加賀には
能美の郡小松の庄は地震はゆらて四月廿九日大雨ふり東北
近き山々谷々より螺の貝出たりその跡より水湧出て山くつ
れ谷うつもれ大方山田は皆つふれて一面に水わき出つゝひ
とつに落あひ俄にをしきたる水のいきほひ一丈あまりに際
たち堤に余り川にあまり小松の町屋に流れ入川になれは五
月朔日垣ともいはす壁とも云す打こしをしやふりて家の中
にこみ入たり俄のことにてはあり上下あはてふためき家の
うへにかけあかる水は軒をひたし棟につかへて流れのはや
き事矢のことし舟をもとめてわたらんとするに櫓械も立す
諸人いろを失ひ資財雑具を流し撰糸の絹をぬらし損否せし
事限なしされとも人のおほれたることは聞えす水も程なく
落きりてことゆへなかりしとかやある人昼ねして居たる所
に俄に水出来り頭にさふ〳〵とかゝりけるに夢を覚しあは
てふためきて家の上にかけあかりて斯そおもひつゝけゝる
おもひよらす家まてひたす大水の
ね耳に入て夢そさめける
其外道ゆく人も俄の事に出合て手に持たる物を取落し取あ
くへきいとまなくしてやう〳〵命はかりをたすかりける人
も有田作る人おほく外面に有しか鋤鍬をも打すて足をはか
りににけのひわか住家はおし流されて妻子の行かたをたつ
ねもとめせん方なき人もあり又逸足を出しにけて行跡より
追来たる水のはやくして風門もとにひや〳〵とあたりしか
はおそろしさに跡をもかへりみす今井の橋をうち渡りゆふ
り橋と云所まてにけのひて枯朽たる板の木のうへにのほり
て見まはせは大水一面に流れてさなから海になりたるかと
おほえけれはこゝにもたまられす
落そうな名にこそ有けれゆふり橋
此大水には居られまうさぬ
とよみ捨てゝ大座寺まてにけて行けるこそ用心ふかけれ
四 越前敦賀の津并江州所々崩し事
敦賀の津は海のおもてうしほわきあかりくらやみのことく
になりとう〳〵と鳴はためく町家の諸人すはや四海浪のう
ちて只今敦賀は底の水くつとなるそやといふ程こそありけ
れ磯並に立つゝきたる家とも土蔵ともにめき〳〵ゆら〳〵
としてかたはしより打たをれけれは親は子をわすれ兄はお
とゝをしらすわれさきにとにけ出つゝはしらんとするにあ
しもたまらす打たほれ又おきあかりはふ〳〵にけて笥飯明
神爪割の水のほとりにつとひあつまる金か崎も山のこしせ
う〳〵くつれしかとも観音堂はことゆへなしそれより上方
疋田の里七里半の山中の宿こゝかしこの山もと谷あひの家
々はくつるゝ山にをしうつもれ人もはし〳〵死せしとかや
あかち山も崩れかゝりて谷ひとつうつみしかとも判官殿の
笈かけの松は子細なし江州には海津の浦水うみのはたに立
たる家とも七八家はかりは傾ふきゆかみたるのみにてたを
れさりき山の方にたちつゝきたる家ともは一家ものこらす
将碁たをし一同にひしけくつれて人の死する事百四十余人
その外疵を蒙ふりしものはなはた多し今津の宿もくつれさ
るは只四五家にてのこりの家ともはひらつふれになり人も
疵をかうふりし地のゆりしつむ事五尺はかりなり大溝の宿
も家々皆くつれ其中に火事出来たりこれにうろたへて人多
くうちころされたり片田の宿真野のうらへ村々の家損せさ
るはなし比良小松のあひたは猶あらけなくして家たをれ山
くつれて打殺され地に埋れし人其数多し大津の浦々町家と
も傾きゆふれ大名かたの米倉くつれさるはなし
五 朽木并葛川ゆり崩れし事
若狭の国小浜の城下もかたのことくのなゐふりしかとも町
家ともにわかつかに損しぬ朽木と云所は大ないふりて城の
うち崩れ人多く損したり町家ともは山のくつれかゝりしに
うつまれ家々たをれつゝあるひは棟木御果に打ひしかれ真
平になりあるひはさし物に手足を打をられ又は頭をうちく
たかれ胸板あはら骨を打おられはらわたいて血はしりて死
する者万余人におよへり親は子におくれ兄はおとゝを先た
て夫婦にわかれて崩たるいへ〳〵の中になき悲しむ声たえ
す細川桑名川なとにも山くつれ家ひしけて人おほく死せし
とかやこと更かつら河といふ所は前には谷川みなきり流れ
後は太山につゝきて薪を樵炭をやきて世を渡るいとなみと
する所なるをためしすくなき大なゐふりてうしろの太山半
さけて立ならひたる家のうへにたうと落かゝり猶その前な
る谷を埋みしかはみなきる水はおちかさなりて流れはせき
とめたりひたすら淵となり夜に日にまさりてふかくたゝえ
たり俄の事にてはあり思ひもよらぬわさはひにかゝり村中
のものとも十方にまよひにけのかるへきかたなく生なから
土の底にうつもれしこそかなしけれ一村のうち他所に行け
るものわつかに四五人はかりかつら河の人種にのこりて其
外のともからは残らすうつまれ果たりそれより二三日のあ
ひたは土の底におとこをんなの鳴声のかすかに聞えけれと
も一丈二丈こそあらめはるかの地の底にうつもれしかは堀
出すへきたよりもなくきく人涙を流しけるか四五日の後に
はなく声たえて聞えさりけり棟木はしら道具なとのあひた
に有て械になりて死さるものともいつへき道なくて鳴さけ
ひぬらん心のうちさこそはかなしかりけめそれより日夜ゆ
りつゝけて終には死けんと思ひやるも哀れなりある人そこ
をとほりけるか土の底にてうつもれしものとものなく声を
聞て
いと哀なくそ聞ゆるかつら河
なえにうつみし人の声々
六 地の裂たる所へ踏入し事并米俵をゆり入し事
およそ五月朔日おなしき四日の大地しんに諸方の山々家々
神社仏かくの損したる事筆にも更に及ひかたし北山かたに
は大地さけて両方にひらけし所へ若き女房両の足をふみい
れ地の底にしつみ入んとす人々やかてとらへとゝめ引出さ
んとするに大かた引ぬかれすからうして引揚たれは気を取
うしなひけりとかくして人心地いて来てかたりしはあしを
ふみ入れしより下へ引いるゝ事限りなし人々引あけんとす
るに足はちきるゝ心地しなから地の底の熱事火の中に入た
るかことくなりけりとかたりしか十の爪甲くろくなりて皆
ぬけ侍へり膝より下はたゝれて湯やけ火やけに逢たるかこ
とし淀の城わたりにある家の庭に米三石はかりをつみをき
たるに地しんゆりて庭の上裂われて米俵ひとつ地の底にゆ
り入たりあたら物堀出せとて其所を堀するにほれとも〳〵
俵はなし水の湧出るまてほりけれともみえす側らへゆりこ
しぬらんとて二間四方はかりほりけれ共終に俵はなしりう
宮にやしつみけん金輪際にや落入けんおほつかなし其掘け
る時も地の中は熱かりけりとかやいまた此なえはゆりやむ
ましと云を聞てかくそおもひつゝけゝる
地の底にゆりしすめたる米俵
なえにはこれや種となるらん
七 豊国はなゆのゆらすとて諸人参詣の事
ふしみ海道にすみけるもの絹糸をよりて世を渡るわさとす
其たけ長くよる物なれは町家にて中〳〵かなひかたし程ち
かけれは豊国の馬場に行て日ことにいとをよる心のまゝに
ひろけれはまことによき所にこそ五月朔日にもこゝに出て
糸をよりけるか洛中辺土すへてうへを下へ返すはかりにお
とろきまとひける大地しんの豊国わたりはすこしもゆらさ
りけり人のまいる事もまれなりけれは今日のなゐはいかに
ふりぬらんいさゝかもしらさりしと語る独りふたり聞つた
へかたり伝ふ国内通部の道理なれは京中此事を聞つたへ豊
国こそこのたひのなゐはふらさりけれ其しるしにはさしも
神さひて崩れかゝりたる社壇すこしもそこねたる所なし奇
特の事也といふ程にうつり心なる都の諸人はら参詣の貴賤
上下さなから蟻の熊野まいりのことし年六十より下の人は
生れてよりこのかた初めて逢さる大地しんなれはたましゐ
きえむねつふれておそろしけれはもしやまもりの神ともな
り給ふらんと思へる心さしにや日頃はおもひもいたさぬ所
へ我先にとまいりけれは三条寺町より豊国まて参詣の男女
老少ひしと町中につかへてせきあひける社おひたゝしけれ
神前には散米参銭山のことくになけ入奉り諸人手をあはせ
て南無豊国大明神とおかみたてまつるそのかみ慶長四年四
月十八日に額を給て庿号を豊国大明神といたされしよりこ
のかたつゐにこれ程の参詣はためしもなしいにしへは近江
山城とて二人の神主を首としてあまたの禰宜社僧あり社領
いかめしくつけられしかは神主もゆたかにして八人の八乙
女五人の神楽おのこつねに神前に伺公しきねかつゝみのお
と高く鈴の声松風に和してめてたかりける事ともなりしに
時代うつりぬれは神主私僧も行かたなくちり〳〵になりさ
しもつくりみかゝれし社頭も年〳〵の滂にをかされ露に朽
てつくろふ人もなけれはまのあたり鳥井楼門は認かたなく
玉の瑞籬もやふれくたけ拝殿にかけられし哥仙の画は其人
となく取ちらし社たんは上もり軒傾ふき庭には草のみ生茂
りあれはてたる有様きつねふくろふのたくひより外には音
なふ物もなかりしに今更貴賤上下の輩道もさりあへすまい
りつとふもけしからす取まかなふ人もなけれはかくにきは
えしけれとも灯明をかゝくることもなくいわんや神楽をま
いらする者もなくして神前はいとゝ物さひたり扨も参りつ
たふ諸人か手ことに庭の草葉をかなへりて家に取てかへり
おの〳〵軒にかけたりいかなるものゝ仰事によりて仕そめ
たりけんおほつかなし茅薄は皆むしりつくし松杉の枝を折
取しかは茂の命たる草も木も皆まはらになりかなくりてい
よ〳〵社頭はあはらなり洛中上下家々の軒につるしかけた
る人の心はせ豊国にあやかりて町やもゆらてあらなんと思
ひける成へしおろかにもまとひはてゝをこかましかりけり
其頃京中町家のゆり損したる所々を書付しる事有けり奉行
人しるしめくる所に又何者かいひ出しけん豊国まいりの事
当時しかるへからす軒にかけし草の葉をしるしに横目衆其
家ゝを書付テ御誡をくわへたるへしと言伝へしかは町人は
ら色を失なひあはてふためきて豊国より取て帰り軒にかけ
たる草の葉をはた〳〵と取いれけるこそ怪しけれ其よりし
て豊国の参詣は軒々にうすらきぬ
八 京の町説さま〳〵の事
此度の地しんによし田の神楽岡をか崎の村なともすこしゆ
るやうにてあらけなくは侍へらす豊国とてもなゐのふらさ
るにはあらて只わつかにゆりたれはくつれかゝりなからも
損せさるはかりなり損せさるを奇特なりといはゝ損したる
社々の御神達には神秘なしといふへきや津の国清よしのな
ゐは廿五段にくたけ京の祇園の石の鳥居もたをれくたけた
りこれらの大社も損しくつれたるをは神秘なしとかろしめ
奉らんやおなし所なからつよくゆるとよわきとは地気のわ
さなれはさして怪しむにたらす町中の取沙汰さま〳〵なり
去ぬる春のころは月日の色あかき事朱のことく又四月廿七
日の日中に月日星の三光一所にみゆこれみな陰有余場不足
の故なれはいかさま然るへきことならすと云人もありける
かはたしてこの上地しんおこり出て月を重ぬれともいまた
やますあるひは二三日に一度又は四五日に二三度其なこり
今に絶せす京の二条わたりに調子を聞て吉凶を占なふ盲目
ありこれよくうらなふとていはせて聞に其日こそ大事なれ
其日は大ゆりすへしなといへるもひとつもあはす皆違けり
此盲目のうらなひのちかひけるはめてたきことなれともこ
れ風情のものをやことなき御かたにもてはやして兎あるか
斯あるかと侍ねらるゝもあさはか也平家物かたりに盲うら
なひの事をかきたりそれもよき人のもてはやされしとはみ
えす離朱のためしもなそらへんは末代今の時はおほつかな
くや侍へらん去年の春のころあやしき星のひかしの方に出
てあかつきことにみゆといふこれ虎尾星となつくこの星あ
らはるれは天下のためよろしからすなとなま物しりに沙汰
しけるを此頃ある人のいはく今年は寅の年尾州より星野の
なにかし京にのほりて五月の節過て渡ためしなき大矢数を
射て弓の天下を受取けるにて虎尾星のしるしならんとうら
なひけるこそけにもとおほゆれ来る十六日には大なる法師
の出て洛中をはしりめくるへしこれを出合て見る人はわさ
はひに逢へしと是神託なりといひはやらかすおろかなる人
はさもこそと信しておそれ思ふ者もあり心ある人はいや
〳〵これはさためて盗人ともの虚言にて町家に火をつけ其
まきれに物を取んとするはかりことなるへし思よく用心せ
よといはれしか其日野夫医師の七条わたりにすみけるか京
の東河原田中と云所にて喧(嘩)〓を仕いたしあかはたかにはか
れて白昼に洛中にかけこみ浮世の恥もかきたりこれにはむ
かふて喧(嘩)〓のあひ手になし人もわさはひにかゝり侍へりこ
の説こそ違はねはわらひかたるも怪しけれ四方の山々地震
にゆられ狸おほかみきつね兎の穴ともみな崩れてすみ所を
失なひ人近き所により東より洛中に出て人を占ふと云沙汰
せしこそまことにさこそあらめとおほゆれ又ある人のかた
られしは五月朔日のあかつきよりいはし水八まん宮の社頭
しはらく鳴動して神馬しきりにいはひけるか其馬いつくと
もなくうせにけりかくて五日の暮かたにかの神馬汗水にな
りもとの馬やにかへりつなかれ侍へりいか成故ともしりか
たし社司神主等はなはたおそれあやしみけりと又ある人の
かたられしは常陸国鹿嶋明神の御やしろめいとうして神馬
行方なくうせし所におなしき五日の暮方馬の背に血流れて
汗水になりてかへりぬ神主禰宜等沙汰しけるこの度の地し
むは是神〳〵方のしるしなり蒙古とたゝかひ給ふなるへし
されとも軍に打勝給ふ故に神馬かへりぬとかたられしかや
うの時は見も聞もせぬ事とも取〳〵にいひはやらせすは世
の人のならいなれは心あるともからは耳にも聞いれさるを
をろかなる女はらへはかやうの事を聞ては只今大事の出来
たるやうに覚え天ふるひおそるゝもことわり也其外浮たる
俗説ともにいよ〳〵たましゐをけす計也さて斯そよみけ
る
あふな〳〵おもへはすかぬなゆの沙汰
高き賤しきくるしかりけり
可名兌為誌下巻目録
一 地しん前例付地しん子細の事
二 諸社の神託の事
三 妻夫いさかひして道心おとしける事
四 なゆといふ事付東坡詩の事
可名兌為誌下巻
一 地震前例付地しん子細の事
ちはやふる神代のいにしへはしらず人王の世にいたりて記
録にあらはすところ地しんの事すでに人王第廿代允恭天皇
五年ひのえ辰七月十四日はじめてなゐのふりけりとはしる
したれ第卅四代推古天皇七年つちのとのひつじ四月廿七日
大なゐふりて人の家居おほくたをれ四方の山々おびたゝし
くくづれしかば神をまつりてしづめられしとなり第四十代
天武天皇十三年きのえ申十月十四日には前代未聞の大地し
んにて人民おほく死せしとや第四十二代文武天皇慶雲四年
ひのとのひつし六月廿三日第四十五代聖武天皇天平六年き
のえ戌四月第五十五代文徳天皇斉衡二ねんきのとの亥五月
五日に大地しんして東大寺大仏の頭おち給へりそれより以
後にも大なゐふりしかども鴨長明が方丈記にこの時の事を
かきのせしはさこそ大なゐにて侍へりけめまことに筆勢お
びたゝしくしるせり次の年ひのえ子三月にもゆりけり第五
十八代光孝天皇仁和三年ひのとのひつじ七月晦日大なゐふ
りて海水みなぎり沸て陸をひたしおほれ死する人数しらず
山くづれて谷をうづみ山家の人おほくうづもれその外禁中
をはじめ民の家々やぶれくづれたり第六十一代朱雀院永平
四年きのえ午五月廿七日おなしき七年ひのとの酉四月十五
日第六十四代円融院貞元々年ひのえ子六月十八日には未曾
有の大なゐ一日一夜のあひだ小山もなく常ゆりにゆりてゆ
りやまず人家くづれて人民おほく損じ地は裂われて泥わき
あかれり第六十九代後朱雀院長久二年かのとの巳四月二日
大地しんして法成寺の塔をゆりたをしぬ第八十二代後鳥羽
院文治元年七月九日第八十八代後深草院正嘉二年ひのとの
巳二月廿三日第九十一代伏見院永仁元ねん四月に大地しん
ゆりて日をかさねてやまず鎌倉中にうちころされうづみこ
ろされしもの一万余人に及へり第九十九代後光厳院延文五
年かのえ子に大地しんありと太平記におひたゝしくかきし
るせり第百一代後小松院応永九年みづのえむま春は彗星あ
らはれ夏は大に早して野に青草なく井の水は涸秋は洪水大
風冬にいたりて大地しんあり同十三年ひのえいぬ春は天下
大に飢饉して道のほとりはいふにをよばす家のうちにもう
え死するもの数しらず秋にいたりては洪水大風冬になりて
十一月朔日大地しんありおなしき十四年ひのとの亥正月五
日おびたゝしき大なゐふりぬ第百三代後花園院文安五年つ
ちのとのたつ洪水地しんえきれい飢饉うちつゞきたり次の
年宝徳元年つちのとの巳四月より日をかさねて大なゐふり
て人民おほく死すおなしき御宇康正元年きのとの亥十二月
晦日の夜大地しん第百四代後土御門院文正元年ひのえいぬ
十二月廿九日おなしき御宇明応三年甲とら五月七日同き七
年つちのえむま六月十一日には諸国をしなへて大地震して
海辺山がた人民おほく死せしとや第百五代後柏原院永正七
年かのえ午八月七日同九年みつのえ申六月十日第百七代正
親町院天正十二年きのえ申十一月廿九日より大地しんして
次のとしの正月すゑつがたまてゆりけり第百八代後陽成院
慶長元年ひのえ申閏七月十二日より大なゐふり初て月をこ
ゆれどもその名ごりゆりやまずこれよりこのかたの事は今
古き人はおぼえ侍べり第百九代は上皇帝万々歳の正統慶長
十九年きのえ寅十月廿五日大地しんありとをよそ記録にし
るすところ古しへもさこそありけめ第百十二代今上万々歳
統御の時にあたつて寛文二年壬寅五月朔日より大地しんし
そめて日ごとにゆる事あるひは五七度あるひは二三度日を
かさね月をこゆれどもその名ごりいまたやまず年闌たる人
はおほえたるためしもあらめわかきともがらはこのたび初
て逢たる事にてはありことさら女房子共などはおそれまど
ふもことはり也もろこしにも上代の事はさしていふにも及
ばず大元の世宗皇帝至元廿七年八月に大地しんして民屋お
ほくくづれたをれてをされ死するもの七千人なり成宗皇帝
大徳七年八月おなしき十年八月に大地しんして後宮の女房
大臣以下死するもの五千余人なり順宗皇帝の時元統二年八
月に地しんあり大明の世にいたりて孝宗敬皇弘始十四年正
月朔日大地しんして人民おほく死すといへり異国本朝ため
しなきにはあらねとたま〳〵かゝる事に逢ぬればむかしは
ためしもなきやうに上下おとろきさはぐもまたことわりな
らずや仏経のこゝろによらば地しんに四種ありととかれた
りこれも一往の説なるへしこの世界の下は風輪にてその中
に水を盛たり水輪の上すでに凝かたまりて金輪際となりそ
のうへに七輪ありて人間のすみかなり風輪わづかにうごけ
ば水輪にひゞき金輪際より七輪につたへて大地はうごくと
いへり易道のこゝろは陰気上におほひ陽気下に伏してのほ
らんとするに陰気にをさへられてゆりうごく時にあたつて
地しんとなれりゆる所とゆらさる所のある事は水脈のすち
によれり人の病にとりては関格の証と名づくへしといへり
みなこれ陽分の為にして故ある所より起れり上にある時に
声あるを雷と名づけ声なきを電といふ下にありてうごく時
に地しんと名づくとさま〳〵いへともこれをとゞむる手だ
てはなし
二 諸社の神託の事
このたひの大地しんに貴賤上下おどろきさはぎ此ゆくすゑ
には又いか成事か出きたらんずらんとやすきこゝろもなし
京都はいふにをよばず田舎辺土の村里在郷かたの禿倉小宮
までも俄に神前の草をむしり灯明をかゝけ幣帛御供をそな
へ散米御酒をたてまつり猶そのうへに湯をまいらせさま
〳〵に追従いたしこのなゆやめ給へといのるほどに神々の
御たくせん日比の述懐を仰せらるゝすそまが〳〵しけれ大
津の四の宮はかたしけなくも延喜第四の御子蝉丸にておは
しますとかや宮もわらやもはてしなけれはとて逢坂の関の
ほとりに引こもりこれやこのゆくもかへるもといへる名哥
を詠し給ひけると也のちに神といはひたてまつりて四の宮
と申してれいけんあらたにおはしますとてあがめまつる事
今にたらずこのたび大津わたりは又ことさらにつよき大な
ゆふりて人の家々おひたゝしく損じければこれ只事にあら
すとて産土所のものどもあつまりて湯をまいらせ神慮をす
ゞしめ奉る五月四日の事なるるに諸人市のことくあつまり
まうでおかみ奉らんとすすでに湯はたぎりて玉のわきあが
る事三尺ばかり宜禰(禰宜カ)がつゞみのこゑたかく松かせにひゞく
ふえのねに和し調拍子をならし調子をそろへて相待ところ
に年のころ五十にあまる古神子の頰車骨あれて色くろきが
白髪まじりの鬘をゆりさげ白きうちかけしてねりいで鈴ふ
りあげ拍子とりて一舞かなてたるありさましみやかにいと
たうとかりけれは諸人随喜の涙をながすかくて舞おさめつ
ゝ御幣をとり湯釜のほとりにさしかゝりしばし祈念して湯
をかきまはし御幣の柄を引あげたれば湯玉とびあがりて沸
かへるいきをひすさまじかりける所に神子すでにうちかけ
をぬぎすて篠の青葉の束たるを両の手にとりもち鼓の拍子
にあはせて二あび三あびあびければあつまりける諸人感を
もよをし前なる人は手をにぎり後なるものはあしをつまだ
てをの〳〵片津をのみて見けるほどに篠葉につきてとびち
る湯のしづくにたへがたくあつかりければこれにかゝらじ
ともや〳〵する所に俄に又大なゐふり出たり諸人きもをけ
し立さはぎみたれあひふみたをしをしあひいとけなき子ど
もはこゑ〳〵になきさけぶしばらくありてゆりしずまりぬ
御湯まいらせし願人をはじめ又神前に立かへりてみればか
の神子藤は人よりさきににげて拝殿のかたはらなる杉の木
のうへにかけのほり色をうしなひけるありさまおそれまと
ひたる体なりしがゆりしづまりければ又をりくだり禰宜ど
もをまねき太鼓をうたせ笛をふかせてしばらく湯をあひけ
るが御たくせんこそありけれ
その御たくせんのこと葉にいはくいかに願人よ〳〵只今湯
をくれて三熱のくるしみのたすかりたるこそうれしけれ大
なゆがゆりておそろしさに丸にいのりをかくるよな丸もき
づかひをするぞ只今もゆりたる地しんに丸もおそろしくて
杉の木へとびあがりたり氏子ともの強がるは道理かなさり
ながら丸が心をすいりやうせよ氏子どもを随分まもらうと
はおもへどもなゆのゆるたびに丸がむねがをどりてまもり
つめて居られぬぞ只その身〳〵によく〳〵用心をせよやと
て神はあがらせ給ひけり
近江路はことに大なゐふりければこゝにもかしこにも小宮
小社まで在所〳〵より湯をまいらせていのりをかくるに社
は替り在所はちかへども神子は四の宮の神子只一人なりこ
ゝかしこへやとはれて御たくせんをおろし奉るに大かたお
なし事なり大津かいだう山科わたり諸羽大明神に湯をまい
らせしに四の宮の神子をやとひて御たくせんおろし奉るす
でに湯をあびをはりてやがて御たくせんありいかに氏子ど
もよくきけこの年月日ごろは丸をあるものかともおもはす
社壇も拝殿もたをれかたふき庭には草のみ生茂りまことに
さびしさいふはかりなしまうでくる人もなくとうみやうを
かゝくることもなしいはんや神楽などはまつりの日より外
にはきかず御供もその日のまゝにてそなふることなしあま
りのさびしさには鳥ゐのもとに立出て往来の旅人をみてこ
ゝろをなぐさむばかり也日ころかけたる絵馬どもは雨露に
さらされ絵のぐはげてのるべきやうもなしいづかたに何事
のあればとてかけいづへきたよりをうしなひれき〳〵の神
たちにあなづられなとしめらるゝはみな氏子どもの所為ぞ
かしかやうの折から述懐をせずは今より後も丸をすてもの
にすべしそれに只今めづらしき湯をくれてしばらく三熱の
くるしみをたすかりこゝろもすゝやかにおほしたりこのほ
との地しんがおそろしさに俄にをかぬものを尋るやうに丸
が所へ来りてたのみをかくるかや地しんのゆるたびに社も
拝殿もくづれさうにてきづかひなればこれをくづされては
重ねて立てくるゝものはあるまじいかにもしてくつさじと
用心にひまがなければ湯をくれたるはうれしかれどもなゆ
の事は丸がちからわざにならぬぞ只用心をよくせよとて神
はあがり給ひぬ氏子どもは用心をせよとの御たくせんなり
用心をせずは罰あたるべし御たくせんにしたがひていざや
用心して神の心をいさめよとて竹のはしら蘆ぶきの小屋を
かまへてうつりすみけるありさま俄に乞食のあつまりたる
にたがはず見ぐるしき事共也
西の京紙屋川のほとり橘地の天皇に湯をまいらせしかば御
たくせんの事おはしましけりいかに氏子どもかくあはたゝ
しき中に湯をくれて身のくるしみをやすむるのみならず心
のすずやかになりたるこそうれしけれさればこのほどの大
なゐに氏子どものきもをつぶすらんとやすきこゝろもなく
大社の神々に尋ねまいらせしがむかしもかやうにゆりそめ
ては久しくゆりたるためしありさりながら別条あるまじと
はおもへどもそれもしらずと仰せられし也氏子どもよ只用
心せよ用心といふは別の事にはあらず軒ぐちは襲の石がお
つるものぞや小家ならば築張をせよ地が裂さうならば戸板
をしくべし戸障子をさしこめてはかたふきてはあかぬもの
ぞ夜るも昼もわけはなしにせよおさなき子どもはおびえて
驚風がおとるものぞと虫薬をのませてすかしなぐさめよ家
がくづれさうならばはやくにげ出よ瓦ぶきの家又は土蔵の
戸前などは心をつけてきをゆるすな火の用心をよくせよか
やうの時はうろたへて火事ゆくものなり丸がをしへにした
がはゝあやまちはあるまじきぞよくまもらんとはおもへど
もあまたの氏子なれば見はづす事もあるへし見わするゝ事
もおほかるへしと御たくせんしみやかに諸人こゝろをすま
し耳をかたふけてうけたまはる所に又おびたゝしくどう
〳〵とゆりいでしかば神子藤は色をうしなひてやしろのう
へにかけのぼり神はあがらせ給ひけりあらたにたしか成御
たくせんかなとて氏子共は手をあはせておかみたてまつる
もいとたうとし又かやうの事は御たくせんまてもなしいか
なるものも心得たる事也さるめつらしからぬ御たくせんか
なとつぶやきわらふ人もありけりその外京田舎なゐのふり
ける所々は俄にそこ〳〵の神前をきよめいのりをかけて御
たくせんをおろし奉る事さま〳〵なり
三 妻夫いさかひして道心おこしける事
そのころ都のうちに俄道心おこして浮世をめぐる痴者あり
みづから新房とかや名をつきてかたのごとくきまゝなるだ
うけものなり五月四日は大事の日にてなゐふりつゝ大地が
さけて泥の海になるかしからずは火の雨がふりて一めんに
やけほろぶるかいかさま世の中滅すべき境目也といひはや
らかす京中の貴賤上下聞つたへ血の涙を流しておそれかな
しむもあり又いかなる事にもさやうにはあるましきぞやと
いふものも有けりある町人の身上もまづしからずともかう
もしてすみけるもの此沙汰をきくにおそろしさかぎりなく
手ふるひ足わなゝき目くらみむねおどりてうつゝ心になり
しかとも男たらんもの色にいたしておそれまどはゞ人のた
めわらはれんも口おしくおもひてさらぬやうにてふせり
居る今やゆりいでゝ泥の海になるらん火の雨ふるべきかと
おもひける所に案のごとく未のこくはかりに北のかたより
どう〳〵となりひゞきしきりに大なゐゆりいでければすは
や今こそ草木国土人も鳥もけだものもみな一同に成仏する
也もしやのがるゝ事もありあしにまかせてにげてみよやと
て妻の女房が手をひつたてみなみをさしてかけゆきつゝ七
条川原に出たりかくてゆりやみければしばらく心をしづめ
てつら〳〵見れば手をひきてうちつれにげたるは妻の女房
にはあらでさしもなき熊野比丘尼の地しんにおそれてにげ
こみたるを是非なく手を引て七条川原までにげきたりぬく
ちおしき事かなさこそ人のわらひ種になるへしとおもひつ
ゞけて我ながらをかしく日くれかたに家にかへりしかば妻
の女房大に腹をたて日ごろそなたの思ひ給ひけるしるしに
は我をば打すてゝ癩尼が手をひきてにぎ出給ふはらたちさ
よその焼尼と来世までもそひ給へ我には隙をあけて入婿な
れば出ていねとてふりくすべければおとこのいふやう人た
がへといふ事はためしなき事かわごぜかとおもひてとりち
がへたりそれをふかく腹立は吝嫉(カ)なりわがよむ哥をきかし
ませとて
なゆよりもつまにふらるゝくるしさは
きげんなをしといふは世なをし
といへば女房いよ〳〵腹をたて何の哥どころぞ聞たうもな
し今はこれまでなりその尼が所へゆかしませとてつきいだ
すけしかる地しんのぞめきにとりさふる人もなし男ちから
なく出るとて門柱かきつけゝる
出ていなば心かろしといひやせん
このいさかひを人はしらねぞ
涙とゝもに追出され今は世にすむへき甲斐はなし俄に髪を
そりてこゝろもおこらぬ青道心をおこしこゝかしこしれる
人のもとにたちよりてきのふけふとするほどに水無月文月
はすくれどもなゆの名ごりはいまだやまずそのあひたに国
々所々をめぐりてこのたびのなゆにてくづれそんぜしあり
さまこまかに見聞つゝかたり侍へりしこそたしかなれ
四 なゆといふ事付東坡の詩の事
ある人尋ねけるは地しんをなゆといひならはし又はなゐと
もいふいづれか本ぞと問けれは新条まかり出てこたへける
はやいゆゑよは五音の横相通なればいづれもおなじこゝ
ろ成へしどう〳〵と鳴て地のゆるといふ義也鳴ゆるゆへ
になゆといふ又家も草木もなびきてゆる故になゆと名づ
くなゆのふるといふもおなじくうごく義也地しんのする
も月によりて吉凶あり東坡詩集にみえたりとてある人か
たられしとてうつしもちたりこれ見給へとてよむをきけ
ば
民衰春火大早至 二五八竜高賤死
六九一金穀米登 七十二帝兵乱起
このたびの地しんは五こくゆたかに民さかゆべきしるし也
いにしへ歴王の御世とてももろこしわが朝のあひだ天地陰
陽五行の災変なきにしもあらず今もつてかくのことしさの
みにあやしむべきことにあらずいはんや四海たいらかにお
さまりたる世の中何かこれほどの事にゆくすゑまでのさと
しとしてけしかる事といふべきや俗説に五帝竜王この世界
をたもち竜王いかなる時は大地ふるふ鹿嶋明神かの五帝竜
をしたがへ尾首を一所にくゞめて鹿目の石をうちをかせ給
ふゆへにいかばかりゆるとても人間世界はめつする事なし
とてむかしの人の哥に
ゆるぐともよもやぬけじのかなめいし
かしまの神のあらんかぎりは
この俗哥によりて地しんの記をしるしつゝ名づけて要石と
いふならし