[未校訂]推古天皇の七年より本年に至る千三百二十四年に近江国に
て最も強烈猛威を逞ふした地震は寛文二年五月一日(西暦
千六百六十二年六月十六日)の午前十一時頃に突発した激
震でその烈震区域即ち著しき家屋の倒壊或は人畜に死傷を
生じた区域は近江、山城、大和、伊賀、伊勢、摂津、河
内、丹波、若狭、越前、美濃及尾張の諸国でその直経は約
四十余里に及ふ而して震原地点は近江滋賀郡比良山の東麓
にして琵琶湖畔に当るその当時に於ける近江国内の被害状
況は左表の如し詳細な記事は附録に記してある。
地名 倒壊家屋数 死亡人数
倉川榎村 五〇軒 三〇〇人
滋賀辛崎 一五七〇軒 不明
倉川々村 五〇余軒 二六〇人
犬上彦根 一〇〇〇余軒 三〇人
大溝 一〇二二軒 三八人
合計 三六九二軒 六二八人
この被害統計は激震当時の調査である為不充分なるを免か
れないのと記録に遺って居ないので近江国全般に亘って居
ない一部の統計に過きない。それでも六百二十八人の死亡
者を出して居る今之を統計の完全な明治四十二年の姉川激
震当時の死亡数三十五人(この死亡数は滋賀県のみのもの
で岐阜県の死者六人を合せると四十一人になる)に比較す
れば約十七倍に相当し又倒潰家屋数の三千六百九十二軒は
姉川地震の九百八十二軒より約四倍多い兎に角この統計に
ょって看ても寛文二年の五月一日午前十一時頃に琵琶湖の
西岸を中心に近畿附近十二箇国に烈震した所謂琵琶湖岸の
陥落地震は非常に激烈なものであって恐らく今回の相模灘
中心の関東大地震よりさう小さくはなかったであらう。