[未校訂]なほ忠広公時代に於いて、注意すべきは、寛永二年六月
中、熊本地方に大地震があって、熊本城の煙硝蔵が爆発
し、天守閣その他、石垣などにも、非常の被害があったら
しい事が、伝へられて居ること(1)である。その確たる事実は
分らないが、現今「本丸」の中心部、即ち師団司令部内外
各部の石垣に於いて、古い火傷の痕迹(2)があるのは、或はそ
の名残ではなからうか、と思はれる。少くとも「本丸」各
部の石垣には、明かに築城当初の構築と思はれない、―
然し古い、―改築の跡が見える。(3)けれども、それは又、
明かに、後年―細川氏時代(4)―の、部分的改修もあるの
で、今少し精密に研究して見なければ、何とも断定するこ
とは出来ない。
(1)『加藤清正伝』所引『欽古雑話』による。
問、熊本の大城、はじめ加藤殿のつかせられりしよ
り此かた、何のつゝがもなく、今の通に侍りしに
や。答、いな、寛永二年六月十七日の夜、大なゐゆ
りうごきて、天守はさらなり、城内の家から木立計
残り、かはらひきものこと〳〵くおちくづれ、城中
に人五十人ほど死うせ、塩硝蔵ともすりに火出で、
跡もなくふきちらし、五丁八丁が内の家ども、ゆり
たふしふきちらし、八万斤のうへもこめたる塩硝の
もゑあがりたるなれば、石壁もくづれ瓦抔は五里六
里の外にとばし、おびただしき事に侍りしよし、其
比小倉より遣はされし脚力の足軽かへり申たる事を
伝へ承りぬ。その後寛永九年、我君の御有となりし
よりこのかた、何のつゝがもおわしまさず、云々。
(2)所謂『くらがり門』の附近、及び其の東方、並び
に天守台の内外である。これは、明治十年戦後に於
ける城内の火災の傷痕ではなからうか、とは何人も
想像する所であるが、専門の石匠―前章五附註既
掲―の鑑定では、決して然し新しいものではな
く、且つその築造の様式が、明治以降などのもので
はない、といふ証言である。
(3)例へば、午砲台西南隅の不思議な―二個の隅角
を有する―石垣や、『二の天守台』東北、下段の
―所謂『石門』がある―石垣など、即ちそれで
ある。この疑問を解決せんがために、筆者は数回に
亘って、石匠を同伴して、その専門的の意見を聴
き、且つ熊本市都市計画係の主任技師、大塚松巳氏
に乞うて、その精細な石垣曲線の測定を試みて貰っ
た。別掲図版にあるものが、即ちそれである。
(4) 細川綱利公時代である。所謂『石門』の内部に、
雄渾な文字で、『元禄十七年甲申三月日』の十字を
彫刻してある。