[未校訂]○問熊本の大城はしめ加藤殿つかせられしより此かた何のつ
ゝがもなく今の通りニ侍りしにや 寛永二年六月十七日の
夜大なゐゆり天守ハさら也城内の家から木立斗残りかハら
ひき物こと〴〵くおちくづれ城中に人五十人程死し塩硝蔵
ともすりに火出て跡もなくふきちらし五丁八丁か内の家と
もゆりたふしふきちらし八万斤がうへも入たる塩硝のもえ
あかりたるなれハ石壁もくつれ瓦なとハ五里六里か外ニ吹
とハしおひたゝしき事に侍りし由其比小倉よりつかハされ
し脚力の足軽かへりて申たりし事を伝へ承りぬその後寛永
九年我君の御有となりしよりこのかた何のつゝがもおハ
しませず今よりをちつかた千世万代に栄えましまさん事の
めでたさよ是といふも
御代〳〵の御いつくしみ天地ニゆきとほらせ玉ヘハ上下の
神礼も幸ひ玉ふにこそかゝる[御恩|ミタマ][頼|フ]の蔭に居てやすらかに
己か世々を経ぬるおもヘハ寝ても覚ても真心をつくしてつ
かへまつらん事をわするましき事にそ侍れ