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項目 内容
ID J0600176
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1605/02/03
和暦 慶長九年十二月十六日
綱文 慶長九年十二月十六日(一六〇五・二・三)〔東海・南海・西海諸道〕⇨大津波伴う
書名 〔室戸町誌〕○高知県
本文
[未校訂]願船寺の草創 西寺東寺の浦分―浮津室津津呂の灘辺で
は、男女四百余人が溺死した程である。その夜の津浪の惨
害が如何に甚大であったかが想像するに難くない。想う
に、この近隣では半に近い多くの人が、その玉の緒をうば
われたものらしい。ところで、此の夜、浮津浦に一つの奇
瑞が残された。
 浮津の人家の数十軒が、大津浪にさらわれたその中に、
不思議や、商人三太夫と云う者の家が、取り残され、家族
も一同無事につつがなく助かったと云う事である。三太夫
と云うと、和泉の国の人で、仏千十郎と云う福人(中国、
福建省の人)の末子であって、商買のため、遙々土佐の浮
津へ来て、遂にここに有り付いたが、彼は日頃、阿弥陀如
来を信仰して、家に安置して朝夕これを拝していたのであ
る。
慶長九年辰、地震大潮入候みぎり、右三太夫、本尊の
守護により不思議に相助り申候〔南路志〕
 彼は阿弥陀如来の加護によって、百死に一生を助かった
のだと、浦の人々は目を見はって、その功徳をたたえた。
それ以来、浦人の中から阿弥陀如来を尊仰する者が、日増
しに増加して行ったと云う。
自然と其の家を道場と申しなされ候
と云う様になった。然し
俗家にて僧形のもの無之、寺役相勤め申さず
と記しているのは何の理由かは分らないが、阿弥陀如来は
そのままに、三太夫の子孫の者がまつっていた様である。
 その後七十五年を経た時。延宝七年(一六七九)に室津
港が開鑿され、浮津浦の人々が、室津港の舟着場近くへ移
転を命ぜられた時、阿弥陀堂も亦、宝珠山の麓の只今の寺
地に移ったのである。元禄年間に寺堂を改築したが、その
時、初めて公儀に対して「正海寺」と法名寺の書付を差上
げた。願船寺と云う寺号に変更したのは、その後三十余年
を経過した正徳年間の事である。
其の後、正徳元卯年(一七一一)。東本願寺より願船寺
と申、寺号申請。代々相続仕也
と南路志に記述している。
〔最蔵坊略記〕に拠ると左の如く記している。
最蔵坊、俗名小笠原一学は石見の国の産。安芸の国主毛
利氏に仕え、禄三千石を食む。主家、関ケ原の合戦に破る
るや、剣をすて仏門に帰し、諸国を行脚す。元和初(一六
一五―二三)室戸岬に巡錫し、当時衰頽せる東寺を再建す。
次いで元和四年、津呂港を開鑿。宝永七年以来、意を室津
港開鑿西波止の築造に用い。是を国主忠義公に建議し、単
身托鉢の浄財を以て此の工を起す。翌八年六月、国主を迎
え、舟入の儀を行う。忠義之を賞し、この地に敷地三十代
四歩を与えらる。因て一宇の坊舎を建立し、魚船安全の祈
願所とす。即ち願船寺の始なり。爾来此の所に住す。慶安
元年九月五日示寂し給いぬ。
出典 新収日本地震史料 第2巻
ページ 86
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 高知
市区町村 室戸【参考】歴史的行政区域データセットβ版でみる

版面画像(東京大学地震研究所図書室所蔵)

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