[未校訂]【極性寺歴代略記】
天正十三年紀元二二四五 十一月二十二日大地震のため庄
川河身変更せり。
【越中史料 加越能三ケ国御絵図被仰付候覚書六 石崎
記録】
庄川之事
其後は藤掛舟渡場より青嶋村高儀新村五ケ辺より四江流水
申候然処天正十三年十一月二十二日大地震に而金谷岩黒村
之東之山庄川之蛇島と申所江抜落庄川を突留め名ケ原之麓
江崩流候此時今之川筋出来申由にて其節雄神社も中村江流
行若林之口水宮江上り玉ふ由之事。
【越中国名跡志】
庄川大川也天正十三年十一月二十九日大地震にて木船の城
をゆり沈めし日此ひゞきにて此川上の山へぬけて庄川へ崩
入り水口を塞きければ二十日計り水留りて山々は水溢れて
庄川は河原と成鮭の魚其外の魚も拾ひ取金沢高岡へ持運け
る老功の者申様此水一度は流来るへし其時川縁にては押流
れし事必定にて去は立退て水を遁よと云儘に増山、森山、
佐ケ野の方へ立退、山に家居せしか水は自然に流れ来る無
難に帰りけり、其水口之弁才天を勧請して山は弁才天山と
云、此地震にて他国の事ながら飛州白川と云所は民家三百
余りの所也天正十三年の地震に高き山一つぬけ出て白川三
百余の家の上へ落懸て家は三丈斗の地の下へ沈みければ数
百の男女も地下へ沈て白川村は枯葉もなき荒山と成り霜月
下旬の事なれば白川のもの六人富山へ売物に行命助り白川
へ帰りて見ればあとの形はかはり何れは古里のあとならん
と泣々又また富山へ戻りけり。