[未校訂]保木脇の城滅亡并帰雲山の事
世移り人替りて牧戸の城地を改易して保木脇といへる所
にぞ移り給ひける。此時の城主をば内嶋兵庫守[氏理|うじはる]とぞ申
ける。将監為氏の孫上野介雅氏の子なり。天正八年の比(黒谷浄念寺伝には天正十五年丁亥と云)とかや、
或日の(或説に十一月廿九日と云。)夕ぐれに常ならず空あれ風はげ敷雨き
びしくふりてすさまじかりけりと思ふほどに、雷電ひらめ
きわたり夥布なりうごき、天地もくつがへすかときもをひ
やし、こはそもいかなる事なるぞ、昔よりかゝるためしは
聞も及ばぬ事なるぞ、あなおそろしとてふるひわななく人
もあり、気をうしなひ悶絶する人もあり。刀の柄に手をか
けて只今ぬかん気色にて空にらまへる人もありけり。すは
やひらめくぞくずるゝかといふほどに、城より山一つへだ
てゝうしろなる帰雲といへる山半われて飛来り、保木脇の
城に打かけゝれば、忽に地中の底に埋れて今までありし城
廓は只土山とぞ成にける。稀代なりける事なりけり。かゝ
りければ内嶋の一流に残る者こそなかりけれ。その中に内
島新右衛門といへるは兵庫頭の甥にてありけるが、折節用
の事ありて郡上八幡といへる所へ行けるあとの事にてぞあ
りし。(或は長滝寺に行よし。)新右衛門此事を夢にも知らず、所用の事
をはりて急ぎ保木脇に帰り城のありし所を見れば、只大山
ばかりうづたかく大河は漫々とたゝへてよりつくべうも見
えざれば、只茫然とあきれ果てゝぞ居たりける。