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項目 内容
ID J0502432
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1586/01/18
和暦 天正十三年十一月二十九日
綱文 天正十三年十一月二十九日(一五八六・一・一八)〔畿内・東海・東山・北陸の諸道諸国〕⇒津浪も襲来・翌年十二月まで余震続く。
書名 〔荘川村史上〕○岐阜県
本文
[未校訂]第二節 帰雲城と内ケ島氏の家臣
 帰雲城は白川郷保木脇村(大野郡白川村)にあって、内
ケ島上野介為氏が寛正年間(一四六〇~六五)にこれを築
き、上野介雅氏、兵庫頭氏理三代の居城であった。天正十
三年(一五八五)十一月二十九日氏理の時、白山大地震に
帰雲山が崩壊し、城廓および城下が一時に埋没して、人馬
悉く圧死、内ケ島家は為氏以来百二十年にして断絶した。
このことは加越能三国前田家の事実を記した「三壼聞書」
にも見えていることで、即ち天正十三年十一月二十七日越
中国利波木船城が大地震にて三丈ばかり崩れ落ちた。この
地震にて飛驒白川という町在家三百軒が山崩れのため、男
女数百人一人も残らず押しつぶされ、人家とも三丈ばかり
下になって、在所の上は草木もない荒山となったという。
 帰雲城がどんな規模の城であったか、その城下の有様は
どうであったか、城の崩壊によって、跡方もない今日では
知る由もないが、内ケ島氏がここに本拠をおき、飛驒西半
国に威を振っていた戦国武将であってみれば、その城は地
方大名の格式をもっていたと想像される。産金地下滝・上
滝・岩瀬・片野・六廐を擁する白川郷であり、その頃から
さかんであった焰硝生産、或はまた金森長近が飛驒侵攻の
手始めとして内ケ島攻略にかけた犠牲の大きさ(向牧戸城
攻め)などから推して、その城および城下は相当栄えてい
たものと思われる。「三壼聞書」に見るように三百余軒数
百人が一瞬の間に埋没したということとも考え合わせて、
この想像は無稽のものではあるまい。
出典 新収日本地震史料 第1巻
ページ 160
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 岐阜
市区町村 荘川【参考】歴史的行政区域データセットβ版でみる

版面画像(東京大学地震研究所図書室所蔵)

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