[未校訂]第二節 帰雲城と内ケ島氏の家臣
帰雲城は白川郷保木脇村(大野郡白川村)にあって、内
ケ島上野介為氏が寛正年間(一四六〇~六五)にこれを築
き、上野介雅氏、兵庫頭氏理三代の居城であった。天正十
三年(一五八五)十一月二十九日氏理の時、白山大地震に
帰雲山が崩壊し、城廓および城下が一時に埋没して、人馬
悉く圧死、内ケ島家は為氏以来百二十年にして断絶した。
このことは加越能三国前田家の事実を記した「三壼聞書」
にも見えていることで、即ち天正十三年十一月二十七日越
中国利波木船城が大地震にて三丈ばかり崩れ落ちた。この
地震にて飛驒白川という町在家三百軒が山崩れのため、男
女数百人一人も残らず押しつぶされ、人家とも三丈ばかり
下になって、在所の上は草木もない荒山となったという。
帰雲城がどんな規模の城であったか、その城下の有様は
どうであったか、城の崩壊によって、跡方もない今日では
知る由もないが、内ケ島氏がここに本拠をおき、飛驒西半
国に威を振っていた戦国武将であってみれば、その城は地
方大名の格式をもっていたと想像される。産金地下滝・上
滝・岩瀬・片野・六廐を擁する白川郷であり、その頃から
さかんであった焰硝生産、或はまた金森長近が飛驒侵攻の
手始めとして内ケ島攻略にかけた犠牲の大きさ(向牧戸城
攻め)などから推して、その城および城下は相当栄えてい
たものと思われる。「三壼聞書」に見るように三百余軒数
百人が一瞬の間に埋没したということとも考え合わせて、
この想像は無稽のものではあるまい。