[未校訂]帰雲城の埋没 大阪の貝塚願泉寺住職宇野道喜が書き残し
ている「貝塚御座所日記」に廿九日(天正十三年十一月)
夜四ツ半過ぎ大地震、十余日止まず、京都三十三間堂の六
百体の仏像すべて倒る。飛州の[帰雲|かえりくも]という在所、内ケ島と
いう奉公衆ある所なり、地震に山河多くせかれて内ケ島の
在所へ大洪水はせ入って、内ケ島の一類[地下人|ぢげびと]にいたる迄
残らず死にたるや、他国に行きたる四人残りて泣く泣く在
所へ帰りたる由、彼の在所はことごとく淵になりたる也。
また「三壼聞書」に
飛驒国阿古白川と云在所三百余軒の所、地震にて高山崩
落、男女数百人一人も不残荒山となりぬ、此時帰雲山の城
郭大地震にて大山頽落ち圧埋め、内ケ島氏理一族主従、男
女、僕婢、城下の人馬に至るまで不残圧死して内ケ島断絶
せり。
とみえている。
この大地震は中部、北陸、近畿にまたがるもので、白川
郷は特に被害が大きく、それは大阪にまでくわしく伝えら
れている。
また前掲「三壼聞書」は加賀、能登、越中三ケ国の地震
を記録した金沢前田家所蔵本であるが、これに飛驒帰雲城
埋没事件を特筆していることもいかに衝撃が大きかったか
を物語っている。