[未校訂] しかるに天正十三年十一月二十九日、驚天動地の大地震
がおこり、近畿・北陸・東海・東山の諸国に、[阿鼻叫喚|あびきようかん]の
悲鳴が一瞬にしてわきおこった。二十七日から三日間にわ
たるもので、余震は翌春まで続いた。この大地震で、木船
城は忽ち一大音響と共に崩壊し、大地にめり込み、域主前
田秀次夫妻をはじめ、幾多の家臣を呑み、昨日に変わる悲
惨な光景を現出したのである。この城は湿田地帯の土をか
き上げた、軟弱な盛土の上に造営されていたので、この大
被害を見たのであろう。
なおこの時、庄川の上流では、飛驒国白川郷、内嶋の帰
雲城も山崩れのために壊滅し、また白川村の民家三〇〇戸
も土砂の下に埋没した。越中領金谷村の上手の茗が原にも
山崩れがおこり、庄川の本流をせきとめ、庄川は涸れて河
原となり、農民たちは鮭の魚その他の魚を拾い取り、城下
町へ売りに行った。二十日後にこの俄かダムが欠壊して大
洪水となり、礪波平野の扇状地は荒らされ、庄川の本流も
方向をかえたという。
木船は城地のみでなく、城下の寺院も民家も殆んど壊滅
の悲運に見舞われた。秀次夫妻の葬儀も、城下諸宗寺院が
壊滅したので、今石動の日蓮宗本行寺(小矢部市)におい
て行なわれた。秀次には瑞光院密庵永伝大居士という戒名
が贈られた。
この謚号に因んで、その菩提の為に、嫡子利次が今石動
に禅宗永伝寺を建立し、寺領を寄進した。後に利次は朝鮮
征伐の文禄の役に従軍したが、征途半ばに病死した。享年
二十六歳、妻子がなかったので木船前田家はここに断絶し
た。この後、前田利長がいとこの冥福を祈り、永伝寺の寺
領を安堵した。
前田秀次は右近と称す。利家の弟で、利長の叔父にあた
る。はじめ津幡城にあり七、〇〇○石を領した。天正十三
年木船城に移り、四万石を領した。同年十一月二十九日大
地震のため圧死。秀次夫妻の墓は小矢部市矢波村牧にあ
り、高徳寺(のち永伝寺と改めた)がその墓守となってい
る。