[未校訂](第一章・第一節)総説
(前略)
本村の加路戸は天正十三年(一五八五)の地震で亡所(ぼ
うしょ)となったが、戸数八百戸余りあって、織物の産地
として発展していた記録がある。この加路戸がいつごろ開
拓されたかは不明である。〔永禄二乙丑年(一五五九)に
開発されたという説があるがこれも疑義がある。〕
(第一章・第二節)字の開発史
一 加路戸
イ 過去の加路戸新田 永禄二乙丑年(一五五九)開発
したとの説がある。
昔、唐戸(からと)と称し繁栄していた土地であ
り、今でも加路戸の内に唐崎という所がある。ここに
四十八家の長、伊藤縫之介祐種(縫殿之介祐種、縫殿
助、と記録されているものがあるが同一人に間違いな
いと思われる。)および幕下の太田自仙が居住してい
た。民家八百戸余りあり、絹細布、木綿織を業として
いたものが多数あって、庭訓に「尾張八丈加路戸より
織り出す」とあり、尾張八丈とは島大布木綿のことで
ある。付近にまれにみる繁栄の地として、往来運送と
も自由であった。天正九年(一五八一)加路戸と改称
された。
ところが天正十三年酉年(一五八五)十一月二十九
日の大地震で、加路戸は一瞬泥土となり、民家は全部
倒壊し、人馬も多数死傷し、亡所となった。(これは長
島細布から抜粋したものを更に抜書したものである。)
また、次のような記録もある。
或問加路戸嶋当昔繁花市中也庭訓往来(玄恵法印作)
所謂尾張八丈則従此地所織出嶋紬也此説然乎。曰
予未聞中古於尾張有織出紬絹所猶於近世然
則為是乎蓋曰伊勢切付(往昔於伊勢国川曲郡河原田
村所作切付時人好之云尓至于今雖出駅駄具竜有夫不用
之)之類款
野翁伝曰加路戸土民称加路戸一千軒頗繁昌之地而
売買諸職居住于此為織染之家業者亦許多也天正十
三乙酉年冬十一月廿一日湧没地震後諸民悉所々分散
為織染者末孫多今居住于濃州岐阜勿為其家業云
云。これは「勢州長嶋記附全、享保十七壬子年(一七
三二)七月廿三日写之」の一部抜粋である。原文は松
平忠充を、君と言っているところから増山氏襲封以前
の家臣で元禄十五年以前に著したものと考えられる。
(なお、元禄十三年に著したという。)
注、本文中「切付(きっつけ)」とあるは馬の鞍の
下に敷く物である。
(中略)
2浄安寺と言って親鸞聖人末葉の寺があったが、天正
の地震で当地が亡所になったので濃州岐阜に趣き、一
宇を市中に再営したという。なお、諸民は皆分散し
て、その織染をなす者の子孫は濃州岐阜に居住して、
その家業を営んだと言う。
3(省略)
4加路戸氏神の札によれば、この地は元唐戸と称し、
天正十六年(一五八八)の震災で亡所となり、後七
年、文禄三年甲午(一五九四)改めて加路戸新田を築
いたという説がある。
5(省略)
6過去の加路戸新田は永禄二年(一五五九)に開発さ
れ、民家八百戸余りあって、天正の地震(一五八五)
で亡所となったとあるが、これによると開発以来わず
か三十年余りで八百戸余りに繁栄したことになる。あ
まりにもその度合いが大きすぎるように思われる。他
に要因があれば別であるが、加路戸新田の初めの開発
は、永禄二年(一五五九)よりももっと以前であると
考えられる。長島郷土史年表(昭和四十三年同町教育
委員会発行)を見るとそれがある程度裏付けされるの
で次にそれを要約する。(後略)
四、諏訪神社 加路戸
由緒 この諏訪神社は、長野県の諏訪神社から分神
を奉じて祭ったものか、四日市の諏訪神社のように勧進
したものかのどちらかであろう。
長野県の諏訪神社は神武天皇第二皇子建御名方富命と
八坂刀売命の二柱をお祭りし、鎮座の年代は不明である
が、古くより狩猟神として祭られ、更に農業神、武神と
して祭られた。狩猟神として平安時代、農業神として室
町時代に崇敬された。諏訪神社は全国的に有名な神で長
崎市、四日市市の諏訪神社も同じ御神体である。右の因
縁を知り天文十一年(一五四二)諏訪中務卿源近芳が加
路戸に定住して社司となった。天正十三年(一五八五)
十二月二十五日(一説十一月二十九日)地震が起こり、
加路戸が亡所となったので、今の桑名市の西汰上に移住
し、出家して一寺を建て了厳寺と号し現存している。了
厳寺の住職は諏訪高昭といい、近芳の子孫である。(了
厳寺由緒書より)その後寛文十三年八月二十一日(一六
七三)諏訪大明神を勤請したが宝永五年(一七〇八)七
月二日の風雨にて社殿が流失したので、翌年六月造営し
たという。