[未校訂] 衰微の原因の第一は、大地震による田畑陥没である。天
正十三年(一五八五)十一月二十九日午後十時頃に大地震
がおこり、それ以後、翌十四年二月十二日まで毎日連続の
余震があった。この七〇日以上にわたる地震・余震のうえ
に、六月になって木曾川の大洪水があった。河道を変え、
尾張の葉栗・中島・海西の三郡の中を貫流して国境を変え
るほどの大洪水であった。天正二十年四月の検地後、四カ
月経った八月二日の「津島神主領目録」の残欠によると、
「九拾五町六反八畝廿六歩 永あれゆりこミ。つつミ川ま
への繩ニあたり候分」とある。約九五・七ヘクタールから
の田が永荒地になり、その原因は「ゆりこミ」(地震陥没)
の結果である。場所は「つつミ川まへ(堤川前)」であるか
ら軟弱な地盤であった。また三拾町三反四畝廿三歩(約三
〇・三五ヘクタール)は、宮・屋敷・道・堀・藪・くね
(畦)・堤と「はたふけ(畑腐化)」で石盛がつけられなか
ったが、水田ならばともかくとして、畑地の水腐れである
から、排水が極度に困難な状態になっていたことをしめし
ている。
このような状態はつづいたらしく、「尾州国中置目」が
出されてから八日後の十二月六日、神宮の堀田右馬大夫が
「在々所々、津しま・天王しまに田畠をもち申候へども、
御さんでん(散田。荒廃田のこと)にまかりなり」と申立
てて、なんらか適当な保護策を嘆願している。
衰微の原因の第二は清須城下町発展の影響である。津島
復興の具体策として、五年間の諸役免除と市の開設があげ
られている。市の開設は町場の繁栄策である。津島にも多
くの荒廃田畑があったであろうが、やはり主としては町場
としての衰微であろう。
清須城は守護斯波氏・守護代織田氏のあと、信長・長男
の信忠が城主であったが、城や城下町の規模は不明であ
る。天正十年の本能寺の変後、六月二十七日の清須会議の
結果、二男信雄が尾張を領し清須城にいることとなった
が、三男信孝と柴田勝家・滝川一益等が秀吉を抑えようと
し戦いをおこし、秀吉は信雄と結んで、これを破った。そ
の結果、信雄は伊勢の長島城を居城とし、尾張・伊賀両国
と北伊勢五郡を領した。清須を廃城にしたのではなかった
が、居城はあくまで長島城で、先に述べた天正十三年十一
月二十九日まで在城していたが、「当代記」によると長島
では陥没のため川になり、城中の家屋も倒れて火災がおこ
り、茶湯の道具をとり出した者が、あとで褒美をうけてい
るといった有様になった。この震災を機として信雄は父祖
以来、ゆかりの深い清須城を安定した居城とすることにな
り、城郭の規模、邸宅の趣きなど拡張した。このときに城
下町の発展ももたらされた。